陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

お箸の国のチョコレート─食罪の嵐にきっと勝つために─

2008-03-25 | 芸術・文化・科学・歴史


数年前におとずれた世田谷美術館で見た作品に、いまでも忘れられないものがある。その当時の鑑賞ノートを紛失してしまったので、作者の名前を失念してしまったが、たしか東欧(ハンガリーか?)の女性アーティストであったかと記憶している。
それは、かなり精巧なつくりの女性の胸像で、遠目からみれば、よくある珈琲いろのブロンズ肖像とかわりはなかった。だが、ふつうのそれと違って、白壁に空けられたへこみの空間に囲われて、鑑賞者が裏側へと回ることをすっかり拒んでいた。この立体的な眺めをあたえないということは、別の感覚をひらいてみせよという意思表示でもあるらしかった。
その彫像はよくよく近づいてみれば、表面にわずかな気泡がみられ、石膏型から外したときの合わせ目がなだらかにはされておらず、金属特有の磨きあげられた光りを放ってはいなかった。冷たく固められたようなくすみの肌をしていて、粉をふいたようだった。そして、いっとう刺激されたのは私のまずしい鼻腔だった。やや古くなった油質の甘くけだるい匂いがただよっていて、その香りからして執拗な至近距離での目の探査を威嚇しているようであった。
キャプション(作品の側にある説明文)をみれば、素材はチョコレート。モデルとなったのは、作家の母親だ。

彫刻が旧来の伝統的な手法と素材──粘土の塑像であるとか、乳いろの大理石の直彫りや、木目のみごとな木材の刻み、ないしくは金属彫金など──に、その本質をもとめなくなったとき、それはある芸術のいちジャンルの崩壊を意味したが,同時にそれはまた、宇宙の誕生にも似た新たなフィールドのひろがりでもあった。したがって、素材を、「彫刻らしからぬ」ものに求めてしまうのは、いまにはじまったことではない。ラードを好んで用いたヨーゼフ・ボイス、女体をかたどった樹脂の海にひげそりブラシをうめこんだアルマンのポップなヴィーナス像など。だが、この作品もその範におとなしく、したがったものだろうか。
現代美術のおおくは、いっけん何気ない日常素材やふつうの、およそ無名に近い対象をあつかっていて、その方法の珍奇さばかりがおもしろがられたりする。が、作品のはらむコンセプトというのは、じつはかなりラディカルな政治批判であったり、民族意識があったりするものだ。とくに八〇年代から九〇年代にかけて、東側諸国の民主化、バルト三国の独立、そして旧ソ連邦解体がみられた東世界の秩序の変容は、そこに生をうけた人間に甚大なショックをあたえた。

こうした旧社会主義国家出身の造形家の作品は、おそろしくリアリズムである。それは一九一九年にロシア構成主義の旗手ウラジミール・タトリンが手がけた「第三インターナショナル記念塔」などの幾何学的な構築物とは、まったく逆行した流れであった。身近な偶像化されない家族の肖像、そしてそれをチョコレートという食材で練りあげた彼女の企図はなんだったのだろう。作品の解説をくわしく確かめなかったのでいまとなっては、その真意は図る由もない。が、そもそも現代アートは作家の言い分に耳かたむければそれで事足りるものではない。つたないながらにも自分の頭で考えてみるものだ。

そこで、私見である。
女性アーティストは母親の面影とチョコレートの甘い記憶とを重ねていたのだろうと。しかし、そんないいささか感傷的な造形行為にはとどまらず、この作品が日本で公開されたということに、私たちはもっと歴史的文脈をもりこんでもよいだろう。
いまでこそ庶民の愛好する菓子の筆頭格であり、いまや恋人やお世話になった友人知人への贈答物としても定着しているチョコレート。しかし、現今の諸兄がそれを渇望する二月の声にはとおくおよばぬほどに、この菓子がもとめられた時代がかつての日本にはあった。
戦後、GHQの占領下にあった焦土の日本では、米兵のジープに子どもたちが我先にと群がって、チョコレートをおくれ、おくれよ、と訴えた。「ギブ・ミー・チョコレート」、それは彼らが生き残るためにただひとつ覚えた英語だった。

もしこの女性美術家が母親をチョコレートの肖像として造形せしめた背景に、陰惨な東欧の歴史が噛んでいるのなら、それは昔日の貧困の日本と通ずるものがある。その展覧会の会期中、冷却装置を壁にうめこんで必死に室温と観客の熱気に溶かされないように耐えていた、その女の肖像はその後どうなったのだろう。解体して鑑賞者にわけあたえるなんてイヴェントであったらよくある友好的な参加型アートに堕してしまうが、ブルーム現象の生じたチョコなどは贈ろうにも贈れないはずだ。チョコレートの彫像は,食べものではなく見られるものになったとき、アートになり、そしてそれは作家の想い出の結晶化であったに相違ない。そして、ややもするとこの女性にとっては、国の食糧事情からすれば、チョコレートはけっして安くつくメディウムではなかったのかもしれない。それは半世紀のむかしの日本とおなじであった。
一九四五年八月十五日。この日、我が国は有史以来はじめて敗戦国の烙印をおされてしまった。国家という枠組みが無惨にもくだけたとき、日本のお腹を空かせた児童ががむしゃらに求めたのは、ただひたすら甘いひと口の菓子であった。その菓子をあたえられた人びとは、それが子々孫々たらふく食べられる文化を、社会を、すなわちアメリカ型の消費生活を望んだに違いない。

さて、先日のバレンタインに関する記事にて、チロルチョコにいろんなバリエーションがあることをとりあげた。カップヌードルであれ、コンビニのおにぎりであれ、あるブランドがヒットすると、そのレパートリーが増えていくものだ。
チョコつながりでいえば、キットカットにもいろんな種類が取り揃えられるようになったという。いちご味や宇治抹茶味、ミルクなどはもはやオーソドックスであろう。産地限定販売のポッキーにおいては、私が実物を確認したかぎりでは、北海道限定の夕張メロン味、長野限定のぶどう味がある。キットカットはみかん農家と組んで、温州みかん味も売り出した。ほかにもこれまで、信州りんご、東北限定 「ずんだ風味」、上信越限定「巨峰」、九州限定「南国マンゴー」を世に送り出している。さらには驚くべきごとに、東京限定の土産品として「しょうゆ風味」が今月二十日にリリース。この新作は、江戸時代から佃煮や江戸前寿司などで東京下町に 根づくしょうゆ文化に注目し、しょうゆの風味と香りと、チョコレートの甘さとをミックスさせたものであるという。
これらは、チョコレートという外来食文化が、日本土着の味覚文化と融合しえた結果であろう。かつ、チョコという子どもから大人まで口にしやすい庶民の味に、いま失われつつある和の素材や地域産の果物をとりこむことで、安価な輸入食品に圧されて衰退しがちであった日本の食産業、農業を活性化させるねらいがある。今後もこうした大企業による各地伝来の味の掘り起こしは、すすむであろうし、奨励されるべきだ。
菓子の糖分を殺さないように果物以外でもコラボが可能であるなら、野菜や水産品でも開発してしまうのかしらなどと思ってしまう。野菜なら、ケーキにもでき人参やかぼちゃなどはうってつけであろう。(さすがに、関西だからお好み焼きとかたこ焼き、は無理かもしれないけれど)

ところでキットカットしょうゆ味など、ご当地限定土産用キットカットは、パッケージのデザインにも気をくばり、高級感を演出している。あのおなじみの紅白の印象がつよい私にとっては、いささか異質な気がするのだが。一段上質なものを望む世代にとっては、好まれるのかもしれない。そこで、私が提案したい新しいキットカットの味は、ずばり黄金味。
金は毒性のある金属といわれているが、耐蝕性はないので胃に消化されず、少量摂取するならば問題はないとされる。そのため金沢市の金箔商品をあつかうメーカーは、食品に利用できる金箔を売り出している。食用の金粉、正確にいえば食品用向けに金箔をこまかく砕いた「切廻し」は、日本酒やお茶、料理、ケーキなどに利用されている。私も数年前親戚の結婚式で会食にまねかれたときに、金粉が浮かんだ吸い物(だったと思う)をいただいたことがある。チョコレートとの相性はわからないけれども、もしつかわれたとしたら、かなり見た目あざやかであること間違いなしだ。
もちろん、金をつかうことでかなり値ははるものになるだろうが、いまや合格祈願の縁起かつぎとしてセールされているこの商品のこと、すこしセレブな贈答品として格付けして、売り出してもいいのではないだろうか。
ここで、私が願うことは、単にあのおなじみの「Kit Kat」のロゴのみがあるデザインではなくて、それと日本の伝統意匠、文様ないしは日本絵画が描かれていたりして、視覚的に楽しめること。たとえば尾形光琳の有名な『燕子花(かきつばた)図屏風』や『八橋蒔絵硯箱』のような名作を、金箔、ブラウン、ホワイトミルク、そして宇治いろで彩りよく描かれたチョコレート。

豊穣になりすぎた食文化の影で、忘れ去られ消えようとする残光の文化がある。高度な消費文化を支配する層は、自社の利益ばかり鑑みるばかりでなく、そのブランド力を利用して、こうした弱小産業と提携し、それらが培ってきたノウハウや情報の伝統を保護するべきであると思う。国際競争力強化というスローガンに踊らされ、合衆国に脅されるかたちで食の市場をひらいたがために、政府は日本の農産業に深刻な打撃をあたえた。近年世を賑わしている米国の牛肉や危険な中国産食品、そして日本の食品会社の偽装ブランドも、食糧自給率の低下と安価だが不安全なる大陸産の食材の押し寄せ、もしくは海外産に頼らざるをえない原料の価格高騰などが、その問題の根っこにある。
国家の方針はもはやあてにならないといってもよく、産業保護の目的において国が救うのは、官僚が天下りなどして癒着している大企業ぐらいである。銀行の貸し渋りがいい例で、中小零細企業は経営がかたむくとすぐにも切り捨てられる。民間企業をすくえるのは、おなじ民間企業であり、さらにはそれを愛好する購買者なのである。日本の食品メーカーは相互に協力しあって、歓迎されるべきでない食サービスをもたらす海外勢力には敢然と立ち向かうべきである。

かつての戦後とは違って、日本は飢えてはいない。しかし、飽食に甘んじた日本は危機意識を忘れている。
チョコレートは我々をもういちど救ってくれるのかもしれない。危険な食事情に「きっと勝つ」ために。


【参照記事】
ネスレコンフェクショナリー、「ネスレ キットカット しょうゆ風味」を東京限定で発売(日経プレスリリース〇八年二月二十七日)

かなざわカタニ・ドットコム
石川県金沢市にある金箔・あぶらとり紙をあつかう企業。食品用金箔「華ふぶき」を販売している。金箔に文字や絵柄を浮き出し加工できるアート箔という特許を有している。


【ネタのタネ】


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食の生産と消費のホットライン (万葉樹)
2008-03-31 01:06:04
ごきげんよう、まっつん様。ふたたびのお越しありがとうございます。
コメントはいま自分が考えられる、わかる範囲で答えさせていただきました。

>現在の自給率は未来の「食」を不安にさせる数字で、これを機会に「見直し」の方向に持っていかないと日本の食は本当に危なくなると思い、今回の事件は大きな意味があったと思います。

事件が起こってから犠牲者がでてからの対策講じというのがなんとも痛ましいかぎりですが。
日本の食糧自給率低下の問題は、私が小学生のころから叫ばれている話、なのにいまだもってそれが解決されないということは、ある意味、それを学びながら大人になった私たち世代がそれを看過してきてしまった部分が大きいかと思われます。

今後、自分たちの食習慣をみなおすとともに、下の年代にも伝えていくというのはなかなか至難のわざ。でも、消費者としていま自分たちができることが、それなのでしょうね。
いまの中国の毒食品にせよ、近年の日本の食品会社の不祥事にせよ。欠けているのは消費者という視点。自分の家族や友人に食べさせてもだいじょうぶかという自省がなく、利益のために歯止めがきかなくなっている。また、買い手のほうも作り手の労苦というものを知らずに育ったものであるから、ただひと口ふた口のおいしさであっても、どれだけ人の手を介しているか、自然の恵みに支えられているかわかりやしない。

したがって、私は消費者の声を、流通メディアの窓口であるスーパーを通してだけでなく、直接生産者側に届けるべきだと思います。(もちろん、その案も価格不信をまねいた流通業界の意識改革を迫る意味では必要でしょう)

また、そちらで指摘されていた生協やコンビニの問題点については、とてもわかりやすく納得しました。
が。コンビニはともかく、生協は共同購入することで地域の連帯感をたかめたり、宅配によって高齢者世帯や身体の不自由な者にとってはありがたい食サービス。コンビニも仕事によってスーパーの営業時間内に出かけられないひとにとっては貴重なもの。それぞれことなる流通形態をとったもので、一長一短あるかと思います。舌鋒の鋭さを危ぶんで書き直されたという記事を拝読する限り、まっつん様もけっして、その存在自体を全否定されているのではないとは思われます。

こうした業界がおたがい短所をつつきあっていがみあうことなく、食の安全をまもるために結束して取り組むべきなのでしょうね。食の質よりも店舗の外装や収容力と派手な広報で客寄せしてきた外食産業もふくめて。

とはいえ、手段や経路がどうあれ、食の安全をまもりたいという目的はひとつなのですから。どこまで利権を譲歩しあいながら、改善できるかですね。
食の価格についても、じっさい急に値上げされてしまうと生活に窮してしまうご家庭だってあります。信じられないかもしれませんが。日本には目立たないところで餓死したり、満足に食事を摂れないひともいますし。いろいろな立場を考えねばならず難しいですね。

>そういう意味で各自が少しでも出来る所から「チャイナフリー」を実践する事が、
一番有効だと思って提唱しています。

中国もほんらいは豊かな食文化をもつ国であったはずですが、こうも国家としての信頼を失うような事態が続くなら、日本のお人好し外交に依拠せず、国民みずからがボイコットするしかないのでしょうね。その怒りをうけて、中国が国の威信を賭けて、正常な商品をうみだしてほしいと思うのですけれど。
いずれにせよ、日本においてもそうですが、製造関係者の食品衛生管理をしっかりすることが重要ですね。どうしても生産効率をあげようとすると、おろそかになりがちです。

以上のことは抽象的で外角的なもの言いで、恐縮です。
あと、私はかならずしも良心的なことを言っているわけではないですし、たまにアンモラルなことにも口が滑ってしまうほうですけれど。
そちら様を拝読して、いま自分ができることはなにかしらというのは考えさせられましたね。
食が豊かだと思えるのは人生が楽しい証拠。食に関心をふかめることは生活力をつけることに他ならない。最近とてもおいしい野菜をいただいて、そう感じました。

うちはほんらいマニアックなもの(アニメや美術など)を扱っていて、こうしたまともな社会問題にはあまり言及せず、お恥ずかしい内容です。お暇なときにご観覧いただくと嬉しく思います。では。

返信する
有難うございます (まっつん)
2008-03-30 12:43:58
万葉樹様

私から一方的にアクセスし、拝読依頼した形にも関わらず、
長い記事を丁寧に読み、そして真摯に考えご意見コメント頂いた事に大変感謝致します。

万葉樹様こそ「良識あるブロガー」であった事に私の方がお礼を述べるべきです。
上のコメントからでも充分高い良識がある方だと分かります。

本当に有難うございました。

私の方こそ、長い記事にお付き合いさせて申し訳ございませんでした。

現在の自給率は未来の「食」を不安にさせる数字で、
これを機会に「見直し」の方向に持っていかないと
日本の食は本当に危なくなると思い、
今回の事件は大きな意味があったと思います。

そういう意味で各自が少しでも出来る所から「チャイナフリー」を実践する事が、
一番有効だと思って提唱しています。

万葉樹様が大変良い方で感謝です。

またこちらも拝読させて頂きますので、
今後共宜しくお願い致します。
返信する
国家の自立は、食の自立からはじまる (万葉樹)
2008-03-27 23:57:47
ごきげんよう、まっつん様。
ご訪問とコメントありがとうございます。時間がないのと、体調が思わしくなかったので、お返事が遅れまして申し訳ありません。

拙所はマニアックな作品の愛好者のご訪問が多く、また参加しているSNS経由でお越しになる方が多いですので、gooブログの検索経由(?)で来られたことに、驚きました。(Googleなど巨大検索ディレクトリでは、うちなどが上位にくるはずないですから(苦笑))
おそらく以前からずっとこの問題に関心をもたれて毎日、最新記事をチェックされていたのだと思います。私もきわめて情報源がかぎられた作品についてのニュースをそうして毎日探していたことがありましたので。
ですので、うちのような食問題のど素人が書いた記事、しかも大半は自分の興味に引き寄せての強引で長ったらしい論理展開に、おつきあいさせて申し訳なく思います。

そちら様の記事については、(途中までで恐縮ですが)拝読させていただきました。過去ご自身の流通業界で管理職的立場から、生産・流通・消費の三すくみの意識改革を唱えられているところ、などなど現場を知っている側からのするどい指摘。知識人の高みの物言いではない、やわらかな語り口調。なんども相づちをうたざるを得ませんでした。
また、ただひとつの業界のことにとどまらず、ひろく日本国民の良識の改善にうったえられているところには、まったく好感がもてますね。
ネット上で無料で情報が得られたり、百均ショップなどの普及で、値段への信頼感がそこなわれている。商品価値にみあった価格を消費者が知らなくなっている。なんでも、安く、軽く、早く、手に入れられるのが最高だと思っている。そのクオリティを判断する力を鈍らせている、もしくは自分で養わないで誰か声の大きい人間(組織やメディア)に委ねながら。

この記事の草稿を練っていたのが掲載から一週間ほど前でしたが、おりしもこれを掲載した当日(三月二十五日)のネットニュースで、国産食材への人気が高まっていると報じられました。おそらくは、まっつん様はじめ日本の食糧事情に危機感をいだくような方が大勢おられていたということでしょう。犠牲者が出るようないたましい事件がおこってからというのが、なんとも嘆かわしい限りですが…。

先般の『ミシュランガイド東京日本語版2008』での三ツ星獲得数が示すように、日本の食文化はいま世界的に高く評価されています。が、それは一部のグルメ志向だけの話。バラエティあふれるものを口にできる時代になった庶民は、じっさい騙された食材を食べさせられていた。ひとつの食品ができるまで、どれだけ多くの時間と人間の汗が流されたかを知らない、わからせない食づくりのしくみが、我が国の食産業への軽視へとつながっています。

食の自立が、国家の自立。国際交友のために他国の製品を輸入してその国の産業を助けることはたいせつだとは思うけれど、そのために自国の生活に苦しんでいる業界人を犠牲にしていいのかと。そして国民のがわも、自分と家族の食の安全をまもるためには、みずからの手で危険性をよりわけるように鍛えなければいけないでしょうね。

それと、近年の中国産食品の醜聞にくわえ、数日前におこったチベット暴動の件もあって、中国への国際的批判はたかまっています。実体はわからぬながら、かの国の人民の多くはネットもふくめた報道規制下におかれて暮らしているとのことですので、政治的あるいは食産業的な不信がつのったとしても、その一国すべての文化あるいは国民気質を冒涜するようなことは慎んだ方がいいのかもしれませんね。じつは自身が口を滑らさせて毒撒いたこともありますので。

消費者が、流通の窓口であるスーパーマーケットと組んで、メーカーに改善要求、意思提示をおこなうというのはすばらしいアイデアでおおむね同意ですが、私としてはすこしだけ違った意見をもってはいます。ただ異なっているようにみえて、たぶん最終的に望むところはおなじであろうかと。

拙所にコンタクトをしてくださり感謝しております。良識あるgooブロガー様にであえたことを嬉しく思っています。

返信する
はじめまして (まっつん)
2008-03-26 12:12:04
はじめまして、
40過ぎのサラリーマン「まっつん」といいます。

自給率で検索し、ヒットして拝見させて頂きました。
大変興味深い記事ですね。

>豊穣になりすぎた食文化の影で
ここから始まる文章が万葉樹さんの高い良識を窺わせます。

私も「食の適正価格」というカテで、
食問題と価格の関係について書いています。

お暇があれば覗いてみて下さい。
もしご覧頂けたらご意見欲しいです。

有難うございました。
返信する

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