「お友達のチカネちゃんのフルネームは?」
「あ、はい。姫宮千歌音ちゃん」
「『姫子』に『千歌音』ね…」
どこかで聞いたような名前だと思ったけど、思い出せなかった。
それともそれは、しばしば理性というものを裏切ってしまういたずらな心が、よくよく独りよがりに妄想するデジャ・ブなのだろうか。
「ほんとうなら、今日ね、ふたりでレーコ先生のサイン会に行く予定だったんです。でも、千歌音ちゃんが急に用事ができちゃって。残念だなぁ」
来栖川姫子とやらがさも残念そうにひとりごちていた、その前で私はどんなに腹におかしみを抱えながら、手を動かしていただろうか。
コミックスの見返しにある、お魚くわえたどら猫のごとき自画像の素顔が、どんなものだか。それを知ったら、どんな顔をしてくれるだろうか。今にも笑いでうずき出そうとする唇をいつものごとく仏頂面でひきしめながら、私は油性マジックでその名前を間違いもなく、裏表紙に書いた。
そして、その横には…。
ふたつの名前は書きなれた名前のように、ペンはすらすらと滑っていて、油性特有のためらいの点描はつかなかった。三番目の模様を書くときなど、もはや、目をつぶっていても書けるほどだった。
「はい、お待たせ。お買い上げありがとうございました」
「…はい?」
来栖川姫子とやらは、しばらく事態がわからず、固まっていた。
が、徐々にその顔に驚きがじわじわと滲み出てくる。渡されたコミックスは、世界でただひとつの価値を持つものとなるだろう。裏表紙にふたりの名前と、もうひとりのサインを加えたことにおいて。
「…え? ええ─っ?! あ…ああっ、あのぉ、貴女はもしやレー…こっ?!」
大きな声で吐きそうになる少女の口を慌てておさえた。
いくらなんでも、そこまで驚くことはないだろうに。まさか作者本人が、コミックスの見返しの自画像そのままに、頬の左右にぴんとした髭が生えているとでも思ったのか、この娘は。
周囲をきょろきょろ見渡して目撃者がいないことを確認した。
今頃はとっくに会場に着いて、目の前に築かれた色紙の山に、うんざりするほど署名しながら、手のひらに他人の脂をこすりつけられているはずなのだ。
けれどまさか、けっきょくサインすることになるなんてね。
ささやかだけれど、いい仕事をした気がした。何百人相手の色紙で、こんなに他人の名前をきっちりていねいに書いてあげたことなんてなかったのだから。
【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」