陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

卒業家 マイナス二・〇

2008-10-24 | 教育・資格・学問・子ども


ひとは誰でも、別れの儀式をむかえるものだが、とりわけ十代最後にむかえる高校の卒業式というのはまた格別なものだ。小・中学生のように親の顔をたてて、きゅうくつなパイプ椅子にかしこまっているわけではない。かといって、大学の卒業式のように自由参加みたいなものでもない。

高校に入学した時、何人かは小学校時代から顔なじみだった。卒業する時、誰も顔なじみではなかった。
どんなにその数年間を地獄に思い、早く抜け出したいと思ったことか。そのときにはわからない。けれど、今になってわかる。ちゃんと卒業しておいてよかったのだと。

引き際がだいじ、嫌なら辞めろ、そんな風潮があって。根性論が鼻先でせせら笑われる時代になって。
それでも、私はいえない。学校が大っ嫌いなひとに、苦しいんだね、もう楽になりなさいよ、とは。いえない。
あの頃の自分にすら言えない。

高校時代の時限つきの苦さなんて、あっという間さ。なんて、おためごかしなことも言えない。
学校がキライなひとは、嫌いな気持ちをだいじにとっておけばいい。

いったい義務教育のお勉強のいいところは、自分が努力した結果が自分の責任においてある程度手応えのあるかたちで返ってくることになる。ところが、卒業して社会に出るとそうではない。意味もなく他人とおなじであることを強いられ、また意味もなく異なるように求められる。
たとえば受験のためにあれほど精巧なデッサン力を試されたのに、美大に入学するや否や、写実的にモノを再現するだけの能力は否定される、といったふうに。ただ、無駄に資料ばかり掻き集めて引用だらけの論文はけなされ、かといってオリジナリティだからと自分の好き勝手な思い込みで書くと学術性もなにもありはしなくなるといったふうに。
そして、いちばんのまちがいは、決められた時間に早く能率よく解く、という技を学校がもはや教えなくなったことだろう。

なぜかしら急にこんなこと書きたくなったか。
昨日、卒業に関する切ない物語を読んだからだろう。
もし自分がきっちり卒業してなければ、あれを美談のように楽しむこともなかったろう。

学校は卒業できても、以前としてなにかから卒業できずにいる自分がいるのも事実。
四月に望んだ第二段階へは進化していないようだ。



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