陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

学歴は仕事能力を過大評価させると言うけれど

2023-11-15 | 教育・資格・学問・子ども

とある日経BizGateというニュースサイトで、「仕事ができない高学歴社員はなぜ生まれるのか」という記事を見かけました。いやはや、へっぽこ氷河期労働者には身につまされるタイトルですね。

その記事の要約をしますと──。

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自己評価が高すぎて、他責的な若手社員がいる。一流大学出身者でMBAなどの資格持ち。高偏差値を仕事能力だと勘違いさせた企業や社会が、こうした思い上がりを生み出している。しかし、記憶力、語学力、計算力はAIにとって代わられる現在、優秀さの基準ではない。感性やひらめき、直観力などが重要となるが、それらは仕事をさせてみないとわからない。

自信過剰型の社員に自己の力量を自覚させるには、顧客や市場の中に出して、自分の実力を冷静に見つめさせること。そして、彼らを無条件にエリートとして迎え入れてきた学歴社会や企業は責任を持ってフォローすべきである。

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この識者は、私立大学の教授で経済学博士。組織論について研究中で数々の著作の受賞歴もある──とのことですが。まず、読後感としてモヤモヤします。

お勉強はできるけれど、仕事はできない。そんな人間は昔から山ほどいますし、若い人だけに限りません。いわゆる大企業病と言われる安定志向も、高学歴になれば高給取りの企業に入社できたからでしょう。バブル崩壊までは。

若手というのは20代30代を指しているのでしょうが、まだ卒業して学生感覚が抜けないのならば、象牙の塔でちやほやされた気持ちよさが抜けないのは当たり前。そして、「顧客や市場の中に放り出して」とありますが、経験値を積ませるのはいい反面、上司や先輩が適確なフォローアップをしないと潰れてしまう恐れもあります。

さらに、AIが暗記、計算、語学力を上回るとはいえ、IT技術を駆使し理解するためには最低限の学力は必要で。こうした言説も読み誤ると、反知性主義に陥りやすいものですよね。子どもたちが勉強しない理由付けになってしまっています。

AI過信とは、その昔SF映画や漫画が描いてきた人工知能が支配する世界の様相そのもの。
コンピュータが人類の生活を管理統治するがために、ひとの判断能力や倫理観が衰えてきたありさま。けれど、AIはフェイクニュースのように、勝手に事実を捏造した報道をし、デマを流して煽動させ、人類どうしを分断させ破滅に追い込む可能性をも秘めています。

産業革命をはじめ、近代からの技術革新により、新しい仕事が生まれてきたいっぽう、駆逐されてしまった商売や働き方もありました。ですのでAIによって、人間の能力値が変わるという言説には新鮮味がありません。

なによりも、無能なエリートを生み出しているのが、他ならぬこの教授がいる大学そのものです。学歴社会を維持しているのは、若者たちではなく、学校のブランドイメージを崩したくない卒業者の中高年です。大学は出てみたけれど職にありつけない、などという高等遊民の問題は、明治にさかのぼること夏目漱石にすら指摘されていたことです。大学が教えていることは、ただひたすら論文を執筆する能力、実利のない学会で発表する作業なのですから、企業社会が求める人材に沿えないままで当然なのです。その責任感を社会というあいまいな大枠の空間に放り投げている矛盾を感じてしまいます。

挫折を知らないエリートというのは、何も高学歴だから、仕事の経験値が低いからではなく。それは、五輪のアスリートや芸術家のように、特殊な才能だけが尖った生き方をして、若い頃から頭角を現した者にありがちなことでもあります。

AIにとって代わられない能力──感性や直観力などを価値基準として判断するのは、まず難しいのです。
芸術の世界なんかがそうですよね。いまでは美術史の王道にいる印象派はアウトロー集団で、当時の芸術アカデミーからは煙たがられていました。美醜の基準も、道徳観念でさえも、時代が変わればがらりと覆ってしまいます。それらを能力として査定することは、不可能に近い。

個人の主観に左右されうるような、合理性とは対極にあるようなものを称揚することによって、気まぐれや感情の揺らぎによってできるものはコストがかかり、無駄なリソースを食いつぶすだけなのでは。
法的な根拠もなく、確たる数字やデータによる解説もなく、ただ自分がひらめいただけで温暖化抑制の削減目標の数字を出した、某若手環境大臣のような言動のほうが、正直、私ら受験勉強の才しかなかった平凡な人間には恐ろしく映ります。

仕事ができる、できないの判定は、その本人の適性や性格のみならず、職種、労働環境や待遇による動機付け、人間関係にもよります。会社が変わらないのに、いち個人に変身しろと言われましても。

ある組織では優秀だとみなされていたのは、その組織内での立ち回りが上手かっただけで、会社の風土が変われば、その人はぼんくら認定されてしまうものなのです。転職をくりかえしていけば、さすがに自分の能力の低さに気づくでしょう。もし、「顧客や市場の中に出して、自分の実力を冷静に見つめさせること」が必要だというのならば、やり直しが利かない日本社会のしくみを変え、何歳からでも再挑戦ができるようにすべき…なのですが、今のお偉方が考えることといったら、いつも、若者をどう使いやすくするか、そんなことばかりですよね。

正直、間違った学歴エリートを生み出している大学こそ、いちばん定期的に人材の移動をさせて、先生方にまず真っ先に挫折を味わわせて、教育に活かしてほしいものだと私は思っています。大学の先生しかしたことがない方に、大手の会社でしか働いたことがない方に、この世の多くの労働者の何が分かるというのでしょうか。社会の課題をほったらかして先送りして責任転嫁をしてきたのは、大人のほうなのです。

他人の格付けを自分たちに都合よく変えているという不都合な真実を、無能扱いされたわれわれ大衆は気づいているのですから。
正直、センセイと呼ばれる職業人が、人間を「能力」という利用価値のものさしで選り分けしていること自体が、労働価値を歪めているとしか考えられません。AIにとって代わられない能力を教え育てる事もできないくせに、安易に若者や学生にそんな海のものとも山のものともつかぬようなものを身に着けろとけしかけないでいただきたい。

(2021/09/13)


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