陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「アンサング・ヒロイン」(十三)

2010-12-25 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

「くるすがわひめこ」
メガネ女が郵便受けを漁っているあいだ、その名が書かれた傘はあたしの手首にかかっていた。そうなのだ。その傘を持っているからって、あたしは「くるすがわひめこ」なる者に変身したりもしない。持ち物は持ち主を保証しない。売れっ子アイドルの名の入ったグッズを持ってるからって、アイドルが飲み食いしているものを口にしたからって、輝けたりもしないのに。髪形や化粧品やファッションを真似したって、そのひとにはなれっこないのに。そんな残酷な真実、アイドルが考えたらいけないこと。あたしたち、アイドルはその名前で、ファンに恋の魔法をかける。王国のなかの女王様になるのだ。でも、考えもしなかった。逆にアイドルが何の変哲もない一般人の名前を持ちあるいたとしたら、どうなるのか、を。ただの有名人に似た素人扱いでスルーされるだけ、なのかもしれない。

「くるすがわひめこ」ではない女。
大量のファンレターを惜しげもなく捨てる女。ファングッズも差し入れも、気前よく誰かにやってしまえる女。なのに、ひとりの読者からの傘は後生大事に持って帰る女。コンビニのビニール傘は嫌いな、あたしなりには好ましいその女。どうみても見た目ダサダサで、ファッションモデルとかタレントとかのモテる商売ではなさそうだ。だいたい、同業者が声をかけるはずがない。となると…やはり絵描きか写真家ってあたりか。同人誌がどうたら言ってたな。

ポストの一群からすぐに見えるのは、階段だった。
このビル、二階以上の階段はあんがいしっかりしたつくりらしい。しかし、メガネ女はそれを無視して、廊下をひとつ曲がってエレベーターの前に立った。

「エレベーターは嫌い?」

どうしてわざわざそんなことを尋ねるのだろう。あたしは、めんどくさそうに受け答えした。

「体力づくりのために、いつもは階段よ」
「階段は滑りやすくなってるから、今日は避けたいな。それに階段は音が妙に反響しやすい」

雨の日のエレベーターのなかは、独特の匂いが閉じ込められている。
無数の泥雨に濡れた靴の裏が乱暴に押しつけられた床。そんなものを見ながら、運ばれるのは好きじゃない。都会の電車と同じだ。道端では傘よけで広がった通行人が、ここでは乗り合わせで窮屈になる。いったん乗ったら最後、止まるまで飛び出せない。行ったり来たりを自分のペースで調節できない。階段とか廊下とか、トイレとか、目立つ共用部分はきれいに掃き清めているくせに、エレベーターのなかだけは淀んだ空気を封じてあるようなホテルやビルに入ると、とてつもなくがっかりするのだ。誰かが放った湿っぽいため息なんかに囲われて、吊り上げられていくなんて冗談じゃない。

「エレベーターは、けっこう好きな場所。タイムマシンみたいに突然別世界に送り込まれるような気がする。脳みそがふわっと浮いて、一瞬だけ、宇宙にいるような感じにもなれる」
「あ、そ」

乗りたいなら、乗ればいいじゃん。別にあたしだけ、階段上がっていくふりして逃げたりしないからさ。初対面のこいつの前で、嫌なものを嫌だと言ってしまうのが嫌なのだ、あたしは。なにせ、アイドルなのだから。

あー。いやなこと思い出した。
一年前の新宿で、あたしはテレビ局ビルのエレベーターをあの男と待っていた。扉が開いたとき、そこにいたのは雨音しずくだった。前触れもなく別れ話を切り出されて、すがりつこうとするあたしを振り切ったあんのヤローは、上機嫌で上りのエスカレーターに飛び乗った。映画のラストエンドでキスを交わすふたりを黒い幕引きが包んでいくように、両側からみっちり閉まるドア。

あたしはそのエレベーターに乗り込むことはできなかったんだっけ。
隣で同時に開いたドアに逃げ込んで、そのまま、下り路をたどっていった。扉が閉め切られた瞬間、あたしは死刑台か、はたまた一足飛びに地獄の底に送られたかのような気分にさせられた。降りられもしなくて、山手線を回るみたいに、ずっと行ったり来たりしていたっけ。

そっか。だから、あたし、ずうっと階段使うんだ。階段しか使えないんだ。乗れっこないんだ、エレベーター。あの日からのエレベーター。
行き来ですれ違うだけで、誰も隣に並んで、いっしょに昇ってくれない。自分が何段上がったか、下がったか、そればかり気にして。そんな階段ばかりだったから、ひとの顔もしっかり覚えていないのだ。定員オーバー、あなたは下りてくださいね。代わりに若くて新しい子、入れますから。もうあなたの時代は終わったの、さようなら。選ばれた上昇志向の奴らだけを囲い込む、あの空間から締め出されたことを思い出したくなくて。

「大丈夫。まだ乗れるから」
「…え?」
「コロナなら、乗っていい」

古い機械ならではの、大袈裟なモーターの稼働音がして、扉が開いていた。
ぐぃいいいん。ガッチャン。いい音だ。特撮ロボットみたいな、油ほとばしった、重く動いて、四つに組んで、がっちり戦って勝てる現場の重機、その熱力学を日常のなかで希釈したこの感じ。このガタイのいい響き。タワマンの昇降はどうも静かすぎたのだ。戦闘マーチが流れて喉の奥からなにかが爆発しそうになる、この感じ。こうでなくちゃ。ゴンドラに載って、クレーンに吊られて空中浮遊で熱唱ライブが夢の、戦うアイドルコロナさんがこれを嫌いなわきゃないのだ。なんで好きだったものを好きになれなくさせられなきゃならないのだろう。

「毎月点検もしてるし。このマンションのエレベーターは安心設計。私の知り合いしか乗せられないから」

メガネ女がボタンを押したまま、どうぞこちらへと手招きをしている。
アイドルの鉄則十箇条その1:知らないファンにはのこのこついていかない。でも、その4:ファンから不審なプレゼントを受け取ってはならない、をこいつは律義に(多少いびつではあるが)守っている女だ。詳しくは知らないが、なんらかの人気稼業。職種は違えど水物商売の悲しみは同じとみた。

ま、こいつとならいいか。相合傘までした仲なんだし。不純異性交遊にもあたらないし。
それに、不健康そうなこいつに階段を使わせたら、あたしがおんぶして運ぶ羽目になりそうだ。乗るのをためらった理由を誤解されたくもなかった。開いたドアの奥にふらりと踏み出している。その先には、重く濡れた社会の足跡は密集していない。あたしの踵(かかと)はいつになく軽くなった。



【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」




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