陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「冬ざかりの社」(九)

2009-05-07 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


「そんな恐がりさんな姫子も好きよ。いいわ、着くまで瞳を閉じていて」

私が諭すように瞼にキスを落としたので、姫子もおとなしく従った。姫子が私の首に回した腕の力が、いちだんと強くなっている。
白い足跡が社の扉から下まで続いていく。姫子を落とさないように、一段ずつていねいに足を揃えながら下りていくので、時間はかかったけれどわずらわしくはなかった。昇ってきたときのように、階段はひとりでに消えたりはしなかった。私たちには、帰る道が残されている。

「ほら、着地までもう一歩」

姫子が恐る恐る開いた視界には、あと数段を残した階梯と、その先に芒洋とひろがる雪白の大地がみえただろう。見下ろした地平線が上り、奥に広がる闇が狭まっていく。
これくらいの高さからならば、姫子でも恐怖心にかられずに、眺望を楽しむことはできるだろう。
あと五歩、四歩、三歩…とふたりでカウントダウンしながら励ましあう。

私の足は雪の大地に一歩をおろした。その感触が、あの人類史上初、月面着地した宇宙飛行士の胸に湧いた感慨以上のものであったかはわからない。けれど、ひとりでなく、ふたりで踏みしめた月の大地だった。
柔らかに足裏に走る白い感触をともなって、真綿のような雪がさくりさくりと軽やかな鈍さで踏み音を響かせる。草履が沈んで足袋の先がわずかに湿る。
深さ三十センチの根雪で、人ふたりぶん抱えた私の足がそれ以上沈まないのは、おそらく月の低い重力のせいだろうか。

風邪をひくといけないから、雪は見せかけだけのものにするつもりだった。けれど、ほんものらしくしてほしいと姫子にせがまれて、肌をくすぐる程度の冷たさは残しておいた。
眼をくらますような雪映えも生じない。純白の雪に覆われたミルククラウン型の大きな孔が、月の大地のそこかしこにひろがっている。ナスカの地上絵のような、蛇の頭のようにみえる不吉な模様が月の表面に描かれていたが、それも気にならない。北アメリカ大陸の高山を思わせる荒く隆起した高地や、深い峡谷、ひび割れなどの寒々しい地形の粗が、そっくりと雪によって隠されてやさしい景観となっていた。遠くには波打つような峰をつらねた山脈が雪をかぶっていて、アルプスの険しい高峰を偲ばせた。月には地球の原風景が残されていた。深い闇の背景がぐっと迫ってきて、なおさら世界の白さがまぶしく感じられる。こころが洗われたようだった。思わず目頭が熱くなったのは、眺望のみごとな美しさゆえか、人間であったころを懐かしむノスタルジーのせいか、それも大好きなひととここに生存しているという歓喜のためか。
雪に包まれた月は、地球からどうみえるのだろうか。

姫子が目を輝かせて、ひときわ嬉しそうな声をあげた。
子どものするように、ひとつひとつ指さしながら、顔を輝かせる。首を限界までぐるりと巡らせるのに疲れたのか、私の肩に顎をのせていた。私は姫子の気が済むまで、ひとつの景色を堪能した頃合いを見計らって、体の角度を変えていった。

「うわぁ、すごいねえ。きれい」

それは、おそらく月の世界の処女雪だろう。誰にも踏み荒らされないふたりだけの清らかな聖地に、ふたりのためだけの細雪が降りそそいだ。雪は白い装束に濡れた花びらのような模様を浮かびあがらせながら、つぶさに消えていく。羽のように軽いが冷ややかな感触が睫毛に生じて、さかんに瞬きをした。姫子が微笑みながら、指先で私の睫毛をやさしく拭ってくれた。



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