「私のレポート手伝ってよ。景さん、こういうの得意でしょ?」
思わずこれ以上どんな代償を払わされるかと過敏に身構えた景は、意外にまっとうな申し出に拍子抜けした。
まっとう…?
いやいやちょっと待て。
それはわずか小一時間まえに、うっかりぽっくり頼まれそうになったことではないのか。
後からの要求を加速させて、先のお願いごとを良く見せただけにすぎない。みすみすほだされて優しさを明け渡してしまうもんか。胸の芯がうっかり相手に傾きかけるのを恐れて、景は自分を縛りこむかのようにがっちりと両腕を組むのだった。
「手伝ってあげてもいいけど、ゴーストライターはしないわ」
さきほどの淡い瞬間の唇の感触がよみがえり、景はそっと下唇を舐める真似をしてみせた。
それは視界の悪さと相まって、唇をきつく噛みながら睨みつけているようにしか見えなかっただろう。唇を寄せた聖の頬は、二十歳に届く前の女のものにしては、大きな皺が走っていて硬く、ざらりとしている感じがしたのだった。先ほどつねりあげた際のあの柔らかさのかけらもないような肌ざわり。
「ははは、まさか、まさか。景さんにそんなこと頼むわけない、ない」
ゴーストという言葉に、聖はからんからんと笑いあげている。
満ち足りているときには涼しげな目元で静かに笑い、やましいことがあれば滑稽の術にみずからをかけるかのようにおちゃらけて大きく笑う。佐藤聖はそういう人だと景は信じていた。見るからににいんちきくさそうな笑みをつくりあげている聖に、景はほら、やっぱり、と脳裏にちらりと過った確信をいよいよもって深めたのだった。
浅生メイを「幽霊」と言って憚らないのは、彼女に代筆を頼んでいたがためだろう。
そのお願いのために、浅生メイは佐藤聖に何を求めたというのだろうか。佐藤聖は浅生メイに何を与えてやったというのだろうか。求めれば応えてくれる、しっかりとした契約めいたものがふたりには交わされていた。そして、ふたりの間には感情のいざこざがあって、あえなくレポートは考案むなしく白いままで放り出されてしまったのだろうか。
考え進めるにつれて、景はこの調子のいい友人の手のひらの上で転がされている自分に腹立たしくなった。
浅生メイが情にはまって請け負い、そして途中で投げ出した課題をなぜ自分が背負わされねばならないのか。そしてまた、はっきりとこの世に存在している友人のことを「幽霊」呼ばわりして遠ざけようとしている聖の態度も、不愉快極まりないものだった。
「だいたいね、昨日まで試験勉強でくたくたなのよ。よりによって、また…」
「まあ、そう言いなさんなって。お礼はきっちりさせてもらうからさ」
聖はポケットから眼鏡を取り出すとハンカチできれいにレンズを拭ってから、耳の裏側を撫で付けるようにして景の顔に優しくかけてやった。
はっきりと見えた視界には、聖が嬉しそうにウィンクしている姿が浮かびあがる。相手の表情のくっきりしないことが、なおさらよけいな疑心暗鬼を生じさせてきたのだ。
ジーンズのポケットに片手をつっこみながら、キッチンに向かった聖が、手慣れたしぐさで冷蔵庫のドアを開いた。
もあっとした冷気が晴れると、暖色の灯りのともった中に保存されていたのは、いろ鮮やかな霜降り牛の肉のトレイや野菜の数かず。友人とはいえ勝手によその家の冷蔵庫を開けるとは不届き千万に他ならないのだが、景はもはや怒る気にもなれなかった。佐藤聖は、自分の住まいの扉を開き、喉を通すものの扉までお断りなしに開いてしまう。あのほどよく冷やされた食材が自分のうちに入り込むときに、彼女はまんまとこの自分の胸の取っ手に手をかけてしまうだろう。それもいいのではないか、と思えたのだ。
「レポート一本お手伝いのお代にしちゃ弾んだほうなんだけどな」
焼酎の瓶に頬寄せてほくそ笑んでいる友人を見やりながら、景は腕組みをして苦笑いを浮かべるしかない。
聖のひろげた右手のひらに、契約の証のように押された紅っぽいしるしが、この目ではっきりと確認できた。景は自分の胸にもやい続けてきたくさぐさの苦い妄念が、まったくの空振りであったことを知るのであった。