陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

森になる制服

2009-06-08 | 教育・資格・学問・子ども
以前にニュースで、伝統ある公立高校が制服を再導入したという話を知りました。
この高校は90年代に世相に高まる個性尊重の波を受け、制服を廃止した唯一の公立校。学力レベルとしては中堅校らしいが、ここ数年の入学希望者減少の原因を私服とみとめたのだそうで。新しい制服のデザインは好評で、志願者は一挙に増加したといいます。

高校生に広まる制服人気、それはひょっとしたらサブカルチャーの影響かもしれない。
漫画やアニメでは、自分とおなじ年端もいかぬ少年少女が、かわいらしい、もしくはかっこいい制服を着用している。しかも、その学園服をベースにして変身する。
とくに戦闘美少女もの。これはおそらく、お伽噺のお姫さまのようなフリフリドレスではがまんできない、空想好きの少女の怠惰でがんじがらめの日常を、ちょっとしたアクセサリーをつけて別人になってみたい、という欲望の体現なのかもしれないですね。

──という趣味に走った分析はともかく、まじめな話。
制服はなかなか便利。大学生になるとやはり毎日の服選びに困って、あんなに嫌だった高校時代がよかったな、なんて思われたことはないですか?衣装とは社会からのくびきであり、足枷である。いつまでも私服を着ていると公私の区別がつかない。
なにより、そこの在校生であることに誇りを感じなくなってしまうかもしれない。
冠婚葬祭に出席するときも、中学生までなら制服で出席した方もいるかもしれない。洗濯だって楽になります。

以上は現実的な理由。ここには十代の意識の変化があるのかもしれないと思われます。すなわち、制服を着ることによって集団と同質化したいという考え。
それぞれ独立しながらも、木は森のなかに隠れようとする。迷彩服のように完全に空気になっちゃわない程度に、同化したいのです、ある一団と。
自分とおなじ意見、おなじ好みをもった人間といたほうが気持ちがいい。だが、ほんとうにまったく自分と似た人間なんているのでしょうかね?自分と同意見の「みんな」なんて存在するのでしょうかね?気まぐれに同調したり離反したりする感情の揺れだけがそこにあるだけ。そうなのかもしれないですね。

以前、医薬品のネット販売で、反対運動の音頭をとる楽天は、反対者何パーセントという数字をさかんに訴えていました。が、しかし。たいせつなのは数字だけなのか?量が多ければいいのか?安直に多数決ならいいのか?百の無為な意見よりも、一の意義のある進言ではないのか?

おなじ制服を着ていても考えも感性も別物。制服でなくてもいい。たとえば同じものを食べていても、観たとしても、好きだとしても、好みかたが違うかもしれない。

ところで、私の出身高校はさいきんかなりおしゃれな制服に変わってました。おしゃれといっても、基調は紺いろなのですが。
むかしは確かにあまりおしゃれじゃなかったのですが、でも人気がなかったわけでもなく。その特別学区では交通の便がいちばん良かったので、制服で選んで入ってくるような子はいなかったと思います。
でも、いまの女の子は三年間三〇分早く起きて通ってもいいから、おしゃれな制服がいいのかもしれませんよね。
それも、青春です(謎)


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