猫のネココは、部屋の角にあるチョコの山のほうに向かった。
箱に爪研ぎをしたり、猫パンチをくりかえしたり。それが飽きたかと思えば、観葉植物の葉先を噛みはじめた。
「こら! アンタは翠を食べなくていいの!」
ふぎゃん。コロナが叱り飛ばしたので、猫はあわてて逃げる。
この時期から咲きはじめるであろうバレンタイン・グリーンは、あわれ好奇心旺盛な猫の舌のせいで、今年もきれいに花開けないでいた。
「ま、これから、ちょくちょく寄らせてもらうわ。前みたいに部屋で倒れてるのを発見するなんて、こっちの心臓に悪いし。知り合いの腐乱死体になんて遭遇したくもないし。あの猫もちゃんと食あたり起こさないように、きっちりしつけないとね」
「はい、はいっと」
「でも、名案でしょ? 無駄なごみも出ないわ。だって、レーコはあたしの手料理、かならずきっちり食べるし」
「グリーン・バレンタインね。エコロジーだね、ほんと」
レーコが微笑んだ。さっきの生返事よりも、こころが籠った答え方で。
おもむろにコロナの側にやってきて、倒した若木のように、ごろん、とその太腿に頭を乗せた。その膝に甘えるのに、ためらいなんてしない。その肌を求めるのに、遠慮なんてしない。コロナもべつだん嫌がらない。
レーコは、わざとらしく大きなあくびをして、眠るふりをする。
猫のネココもコロナの側にすり寄ってきて、毛繕いを終えてきれいになった背を丸め、気持ちよさげに寝ころんでいる。春の陽気は、猫にも人にも、淡い眠りを誘うものらしい。
コロナはレーコの眼鏡を外してやったが、素の顔を見られて恥ずかしいのか、漫画家は目を瞑ったままだ。頬にふれるコロナの髪の毛を、ちょいちょいとひっぱる。
「なに…?」
「おやすみのキス、欲しい」
目を開かなくても、わかる。たぶん、火を噴いたように真っ赤になった、彼女の顔が。
「…もうっ、これでがまんしろ」
「わぷっ…?!」
甘い口づけを待っていた唇にやどったのは、毛深くて、うにゅっ、と湿った感触。
猫のざらりとした舌が、ちろちろと唇を舐めた。あわてて起きあがって、唇を拭う暇もなく、放り込まれたのは抹茶のチョコで。ぼやけた視界のなかで、猫を抱きながらいたずらっぽく笑っている少女の顔がみえた。
ちょっとやりすぎたと思ったのか、コロナはまたレーコの頭を膝枕に戻してやる。
固定回線の電話が鳴ったが、レーコは聞かぬふり。腰を浮かそうとしたコロナを、膝をなでなでして行かないでと訴える。
「電話、でなくていいの?」
「いい。編集には死んだって思わせとく。きょうは疲れた。もう、コロナの声だけ聞ければいい」
「もう…バカっ…」
コロナが嬉しくなって、漫画家の寝顔の頬を突ついて、耳もとに唇を近づけた。バカのひと言は、その言葉の意味を裏切るほど、熱い息吹にのって聞こえて、くすぐったい。
めったと物言わぬレーコの口元が、うっすらと花びらをくわえたように、ほころんでいた。その唇に近づいた顔は、甘いチョコの食べすぎのせいか、辛いカレーのせいか、それとも…うっすら火照った頬は、彼女の瞳のエメラルドを美しく見せているのだった。
目を閉じていても思い出せる。最高の翠だ、その自分だけに向けられた輝きは宝ものだ──と、漫画家は思った。
必要なものだけ贈りあう。最小限のものさえ集めていれば、それでいい。猫と、カレーと、彼女がいれば、それでじゅうぶんな一日だった。
バレンタインは甘いだけの記念日じゃない。
この味がいいねと、君が言ったから。その年からふたりの二月十四日は、ビターな記念日になった──。
【了】
【目次】神無月の巫女二次創作小説「グリーン・バレンタイン」