ダイニングルームから、米を蒸した湿っぽい匂いが流れてきた。
炊飯器の内部からは、いきおいづいた泡立ち音がたっている。ぴゅるリ、ひょぽゥ、じゅばぅワと、おどけた風笛が吹いたような音がして、白い蒸気がふんわりとあがり、室内の空気をひとかたまりの微熱の霧にした。しばらくすると、炊飯器のゆかいそうな声は落ち着いて、翠のランプが保温中を示したのだった。
「今の、なに…?」
「ちょうど、よかったわ。ご飯炊けたとこ」
すっかりレンズの曇りが抜けて、驚きに目を開くレーコを、コロナがしめしめといった感じで、笑いこぼしていた。
待ってましたとばかりに、コロナがリビングのテーブルの下からとりだしたのは紙袋。その中から、さらに三段積みで透明感のあるグリーンの蓋がされたタッパーがお目見えした。
タッパーのいちばん上の蓋を外す。すると、中にはハート形のチョコレート…いや、色合いがわずかに明るすぎる。カカオに金を混ぜたような色あい。しかも、サイコロ型の人参やじゃがいも、玉ねぎ、角切り肉などが埋められていた。
「これ、まさか、…カレー?」
「そ。あたしのお手製よ。底付きの型抜きに流し込んで、冷凍庫で固めてあったの。レンジで温めれば、つくりたてのおいしさが蘇るわ」
二段目のタッパーには、クリームいろの星形になった、ホワイトシチュー。パセリの粉末が中央に浮かんでいて、爽やかなアクセントになっている。三段目には、抹茶いろの野菜スープやかぼちゃのポタージュ。いずれも、手のひら大ぐらいの大きさで固形にされていた。
「一個で一食分よ。冷凍しとけば保存が利くけど、なるべく早く食べて」
「ありがと…コロナ」
不器用ではあるが、レーコはいつになく嬉しさを滲ませた顔をしている。
気恥ずかしくなったのだろう。コロナはツインテールの毛先を指先でくるくる回して、視線を横に流した。いつものきつい印象のする目つきが、すこしだけ緩んでいる。勝ち気な眉がやわらかく垂れて、照れ笑いしているように見える。
「バレンタインにさ、べたべた飾ったチョコ贈るなんて、あたしのキャラじゃないしぃ。お義理でうんざりなのよ、そーいうのは。あんた、あんまり甘いの苦手だしねー」
「うん。嬉しい」
すなおな気持ちを淡く顔に描いた漫画家は、カレーの固形を口に含んで割って食べた。
牛肉の旨味のよく出たスパイシーな味が舌をぴりっと刺激した。舌の辛さにちょっぴり喘いでいるところに、目前のツインテールから苦いお小言が降ってきた。けれど、レーコにとって、こんな香辛料はお茶の子さいさい。
「ちょっと! あんた、バカぁ? いま食べたら、おかずにできなくなっちゃうでしょ! せっかくコツコツ煮込んでつくってきたのに、まちがった食べ方しないでよねッ!」
「おいしいから、すぐ食べたい。私、猫舌だから、冷たくても、おいしい。また、作ってきてよ」
「調子に乗らないッ! あたしだって、仕事忙しいんだから…」
嬉しいと言ってくれたレーコに、おいしいと誉めてくれた漫画家に、こころ湧き上がるコロナだったが、それをまた、表現できないのも彼女らしくて。ぶつぶつこぼすコロナを、愛おしく感じてしまう。レーコが好きなのは、すこしぶっきらぼうなところのあるコロナなのだ。
口やかましい忠告をのんびりとした声であしらったレーコは、口にくわえたカレーのハート形を、扇ぐように上下に動かしている。
その様子に、口から発火のように放たれるはずの毒気を抜かれてしまった。口からはみでたカレークッキーを割ったコロナは、かけらを口に放り込んだ。レーコの口に残ったほうはコロナの指先に唇まで押されて、すっかり口中におさまった。
冷たければ食べやすいものかと試してみたくなって。
おいしいけれど、いつにも増して辛さが凝縮されたカレー。しかも、すこぶる辛党のレーコにあわせた特製カレーだ。甘み成分は天然お野菜だけ。コロナは、べっ、と舌を出して、慌てて近くのマグカップを飲んだ──が、うっかり中身はブラックコーヒー。苦さがヘンな方向に重なった。
お口直しに、例のチョコレートをまた口に含む。凍った苦さのお膳立てのおかげか、チョコはいっそう甘く感じられ、やわらかく口内で蕩けていく。
猫とカレーは、いい働きをしてくれたようだ。ついでにコーヒーもか…。
甘みのない自分の一杯を飲まれてしまったレーコは、企み笑いをする。
【目次】神無月の巫女二次創作小説「グリーン・バレンタイン」