喜寿から始まる

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理不尽 いや理不尽じゃない

2018年08月28日 | 日記

「先生、こういう理不尽なことって許せませんよね。」と依頼者は大抵憤慨する。

こういう仕事をしていると、同じ立場にある人は不思議と同じことをすることに
気づく。
だから特に理不尽と思わない。
むしろ、違った行動をとっていたら、不審に思うはずだ。
これまた不思議なことに、ルールもそのようになっている。

ということで、みんなこうするものですよ、とアドバイスする。
と、「あー。そーなんだ」と言って、あっけないくらいに、急に落ち着く。
人間というものは、自分一人不当な扱いをされていることに我慢が出来ない
動物のようだ。
みんなそうなら、ある意味平等・公平ということで落ち着くらしい。

冷静にみれば理不尽、不合理な行動かもしれないが、みんなが同じ理不尽な
行動をするとなると、そういう場合にそういう行動をとるのは、理不尽とは
言えないのではないかということもできる。
つまり、不合理、理不尽な行動をとるものだと考えることは極めて合理的な
判断だということになる。
こうなると、理不尽と理不尽じゃない・合理的との境界があいまいになる。

そうすると不思議なことが起こる。
みんな、対応しているなら、自分もどうにかなる、するしかないと、
問題に向き合う準備、心構えができるらしい。
さきほどの憤りなど、どこにいったのかと思う。

中味を良く読むと、なーんだ、ということもある。怒ったのが馬鹿らしくなる。
なるほど嘘言ってるなと思うこともある。
あるいは、そういう風に考えていたんだと、見方の違いに気づき、ちょっとばかり
利口になった気分になることもある。
場合には、ちょっと厄介なことになりそうと思うこともある。

こうして一つ一つ見ていくことで、次に何をしなければならないかが分かってくる。

何かしなければならないことがわかっても、では何をすべきかとなると
わからないこともある。
そうなると、不思議とこれまた、同じ立場のものは同じ行動(理不尽な)をとるもの
のようだ。
ということで、理不尽だと怒った張本人が、理不尽な行動をとり、自らの行動の
理不尽さに気づかないこともある。いや大抵気づかないものだ。
でも、また不思議なもので、そういう矛盾に気づかないかのようにルールもできている。

なんやかんやで、きちんと対応すれば、落ち着くべきところに落ち着くことが多い。
もちろんそうでないこともあり不正がまかり通ることもある。
それはそれとして、大抵の場合は、そういうものかという落ち着き方をする。
そうしなければならないことでもある。

強くなるというのは、矛盾や不満はあっても、自らが主体となって、コントロールした
結果である。

人間の社会は不条理だという。そしてその通りと思う。
それでも、理不尽?そうじゃない?と迷いながら、自分の生き方を求めて、対応していく
それが一番大事なことだと思う。

人間社会とは厄介なものである。
だから面白いとも言えるのもかも・・・