その「故郷」今はない。マツダの本社工場の敷地になった。そして漁業集落は消滅。時の流れは残酷か。今も耳に残る牡蠣船の唄。「♪ 向洋 出る時きゃ よう 涙が出たがよう 金輪や森山のうやれ 唄で越すよう♪」「♪山が高うて おかかんが 見えぬ(泣) おかかん 恋しや 山憎くや」広島の港で父母に別れ、とり分け恋女房に別れ 牡蠣を積んでこれから瀬戸内海を四丁櫓で漕いで 大阪の横堀川へ。これから半年の間は船は料亭に早変わり。船場一帯の川に浮かべ営む。これ、明治・大正期の私の先代の生業だった。この生業は享保の昔から始まったと聞くが、牡蠣船は大阪の風物詩ともなった。これが今ときめく広島牡蠣の源流。牡蠣の風味、場所の醸し出す雰囲気、それに地方娘の素朴なサービス、それがまだ洋食が普及前であった大阪人の食い道楽に爆発的に受けた。
乗り組みの中の新婚の青年「唯やん」、「万やん」が「わしが作った唄やんやぁ」と言ってこの自作の船頭歌をがなる。だが、この2人も昭和20年、原爆の犠牲に(なった)と聞いた。
牡蠣を食べながら思うことは、農業や漁業は平和産業、永遠だと言うこと、そしてこの産業はお金儲けのためだけにあるのではないこと、子供を育てる、子孫のためにあること、当たり前だが、戦争に関係がないということ。海、山、森、そして土、景色・・これらは壊してはいけないということを改めて思う。
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