ルーペと万華鏡

自分の心の中も人の心の中も、ルーペを使ってよ~く観察したり万華鏡のように角度を変えて観て、キラキラしたものを探したい。

40年も前のことですが・・・

2007年04月20日 05時17分49秒 | 思い出

どういうわけか突然40年も前のことが思い起こされて・・・

それはとても鮮明で、つい最近のように感じられる。
今の私に、語りかけるように記憶のページが開かれて・・・不思議な感覚です。

なぜ・・・?と自分に聞き返しても、それはわからないのに



”銀鼠色の空の向こうに”

高校1年生の私は、どちらかというと真面目で大人びていた気がするけど、実はとても幼かった。同じ中学校からの進学者は他に一人いただけだったので、私は自分が中学校時代の殻から抜け出して新しい自分になった気がしていた。

ちょうど学生運動が活発になって来た頃で、上級生には政治の話を熱く語る人もいたりして、大人と子供の世界観の違いを強く感じたりした頃である。

私は学校が好きで、楽しかった・・・クラスメートは43人女子ばかり 家政科だったから、にぎやかで華やかで、そしてくったくなく過ごしていたと思う。

ヤッチンというニックネームで呼ばれて、自分では大人ぶっていてもどちらかというとクラスメートからは子供扱いされていたような・・・今にして思えば、そんな感じがする。

他のクラスには、男女共学クラスとほぼ男子ばかりのクラスとがあった。
だから、恋の噂はたくさんあって、下校時には他のクラスの男子と並んで校門を出て行くのが、ちょっとした流行というか、憧れだったり・・・

でも私はまだ、そんなシチュエーションはピンと来なかった。憧れもあったし、誘われたりもしたけど、ほんとに幼かったんだな・・・男子と1対1で帰るよりも同級生とワイワイと帰る方が、ずっと好きだった。

久美子というちょっと美人で、大人びた子と毎朝電車で一緒になって仲良しになった。彼女は共学クラスの子で、私の乗車する駅のひとつ手前の駅から通っていた。
最初から、何か私とは違う匂いを漂わせていて、放っておけない存在でもあった。

いろんな話をする中で彼女は、おばあちゃんに育てられていたのだが父親の再婚で、高校進学とともに新しい義母と生まれたばかりの妹と同居を始めたということであった。

あまり多くを語らなかったが、彼女があまり幸せでないのはすぐにわかった。
でも、そういう私も決して幸せではなかった。
父が、もう6年も前から入院生活を送っていたので、母ひとりの収入で年子の3人兄妹の生活と、父の病院代を賄っていたのである。
だから当然のように、兄は新聞配達やら牛乳配達やらで家計を支えていたし、私も中学生のときから出来るアルバイトをしていた。
ただ貧乏ではあったが、母からはたくさんの愛情を感じていたので、惨めになったりすることはなかったように思う。だいたい自分の家が貧乏だというのも、あまり感じたこともなかったくらいだし・・・・。

でも、久美子は生活力のある父親の元ではあったけれど、非常に淋しい毎日だったようだった。
義母が彼女に言うそうだ。妹の「ヤスミちゃんに100%してあげたいことが、あなたがいるから50%しか出来ない・・・」と、
彼女は妹は可愛いと言って、よく自慢していたけれど、妹をかまう位なら勉強しろと言われて、あまりかかわらせてくれないとこぼしていた。
そんな彼女は、私と違いすでに色っぽい体形をしていて、その行動ははらはらさせられる危ない感じがしていた。

私は、そんな彼女を何とか支えてあげたいと強く考えていたのだけれど・・・・

あるとき、彼女がその頃不良と呼ばれる人たちの間で流行していた鎮痛剤をコーラで飲んで、一種の幻覚状態になることを覚えてしまった。

私はなんとか止めさせようと考えたが、彼女の淋しい心を埋めるものがないのである。親にも相談できない・・・、私の母にも・・・苦労している母に心配はかけたくない・・・そんな思いのとき、信頼できる先生がいた。

滝沢鎮男先生、彼は新卒の現代国語の教師
いわば私たちと同じ新入生である。
見た目は背が160センチ前後で小さくて、天然パーマで、シャイで緊張するとチック症が現れて、目をパチパチさせる・・・・女子生徒には格好のからかい相手であった。

でも、とにかく真面目で真剣で、放課後はサッカー部の顧問としてよく生徒と一緒に校庭を走り回っていた・・・。
私は滝沢先生の授業が好きだった。
いつも何か語りかけてくるような、こころに響く授業だったのである。

私は新聞委員をしていて、やはり顧問だった先生とよくいろんな話をした。
話せば話すほど、ピュアで暖かい人柄の先生は尊敬に値した。

その頃、久美子のことは評判になりつつあった。
駅や電車内で、ラリッった状態でフラフラになっていたり・・・寝込んでいたりするのだ。私が見つけたときは、何度かごまかしたり、友達と近くの公園まで連れて行って時間の経過を待ったりしたけど・・・・。

ついに立川の駅で補導されて、停学処分になってしまった。

滝沢先生と久美子のことで、いろんな話をした。
彼女の家庭のことや、こころの問題・・・
大人社会との狭間で揺れる自分自身の悩みなど・・・

先生は本当に真剣に付き合ってくれて、教師(大人)ではあるけれど唯一の味方と感じられた。先生の下宿まで数人で訪ねて行って、何時間も話合ったこともある。

停学処分中の久美子が家出して、我が家に来てしまった。
おばあちゃんの家に連れ帰されて、散々叱られたあげく、生みの母のところへ行けと言われたとか・・・もう、5年も会っていないそうな・・・

彼女はいく所が無かった・・・我が家には大人がいなかった。
母は父の病院に付き添いで、泊まることも多かったので そのときは子供の判断で我が家に泊めたのです。

翌日彼女に付き添って、彼女の家に行くとすごい勢いで私が怒られた。
義母が、彼女の父親の前で、自分がいかに心配していたか・・・とか、
子供を心配しない親はいないのに・・・とか、あげくは我が家の保護者名が母となっていることをあげて、「貴女のところは母子家庭なの?」と聞き、そういう家だから他人の子供を平気で連絡もせずに泊めたりするんだわ」と来た。

久美子のお腹から搾り出すような「やめてー!!」という叫び声で、鳴り続けるラッパのような小言・叱責は終わった。
帰り道、途中まで送ってきた久美子と二人でただ泣いていた。
久美子も可哀相だったが、他人の家のことを住所録の保護者名欄だけで、あんな風に判断されるという事実が私には衝撃であった。

私はそのショックを滝沢先生に打ち明けた。
大人社会の不確かなエゴイズムだと私は思った。
あんな大人にはなりたくないとも・・・いや、とにかく大人になりたくないと言って泣いた。
先生は言葉を選んでいるようだったけれど、特には何も言わなかった。

それから数日して、久美子が自主退学することになったと聞いた。
「うそーっ!」
久美子は私に、辛いけどとにかく高校は卒業するって言っていた。
後、二年少しは我慢して頑張ると・・・・そして、独立すると・・・
「ちがう、ちがう!」
大人の仕組んだ罠だ!!と私は思った。

友人と二人生徒指導教師の元へ真相を確かめに行くと、久美子の意思だからというのである。
「そんなはずはありません!!」
抗議も空しく、もう届けは受理されているという・・・

その日の帰り、ずっと後ろに気配を感じていたらなんとその指導教師が私を尾行していたのだ。
私が何をしでかすというのだろう・・・?

こんなちっぽけな私が、大人に敵うはずがないじゃないか・・・って悔しいよ!

それから、もう一度滝沢先生と話をした。
先生は「僕の力が足りなかった・・・」と頭を下げてくれた。
やはり久美子の意思ではなく、学校側の働きかけか親の考えであろうことであった。そんな話をしながら、「僕も教師で、大人なんだよね。」ってぽつんと言った様子が忘れられない。
先生も、若干23歳 同じように狭間で揺れていたんだな・・・。

しばらくして、久美子が吉祥寺のカフェで働いていると聞きひとりで店に行ってみると、そこは夜はアルコールを出すようなスナックだった。
学生服では入りづらい雰囲気の扉を押して、中に入ると久美子がすぐに立ち上がって来た。
「ヤッチン、何しに来たの!」
「様子見に来たの。」
「もう帰って!関係ないでしょ!!」
「滝沢先生も心配していたんだよ。」

「誰も何もしてくれなかった・・・・!」「ヤッチンとはもう絶交だから・・・」

「えっ!」「何でそんなこと言うの」

「だって、久美とはもう付き合いませんて言ったんでしょ!」「さよなら・・・」

追い返されてしまった。私の初めての挫折・・・もう話が出来なかった。

久美子に残る被害者意識、それも大人たちが植え付けたんだ・・・

私はそれから誰とも口を利かなくなってしまった。

滝沢先生から心配して、何回か誘いやら声かけがあったが気持ちがどこにも向かっていなかった・・・。

12月のある日、立川の駅で偶然滝沢先生と会った。

先生は「ヤッチン、元気だそうよ。 久美子も元気でやっていたよ」

「僕ね、最近振られちゃったんだ・・・。(笑)」

「えーっ!先生彼女いたの?」

「ハハハ・・片思いの彼女さ・・。話していると楽しい子だったんだけれど最近話とかできなくなっちゃって・・・」

「ふ~うん、大学時代の同級生とか~?」

「まあね。ひとりよがりはつらいよ!」

久しぶりに先生と軽口をたたいて、少し明るい表情をしたのであろう。
「ヤッチンは笑顔が一番だよ!」と言ってくれた。

長野出身の先生は、お正月故郷へ帰ると言う。
5日に戻るから、遊びにくれば・・・と誘ってくれたが、今考えれば残酷な言葉を浴びせていた。

「先生、私学校辞めるつもり・・・」

「・・・・・・」

先生は、私が学校や大人に対して信頼感をなくしてしまった事を心配してくれていた。そんな先生に私は、ある意味甘えていたのかもしれない。
いずれにしても、3学期は私は退学に向けているだろうと思っていた。

一緒に指導教師に抗議をしに行った友人も、すでに退学願いを提出していた。
彼女の場合は、芸能活動をする目的があったからだけれども、私は仲のいい友人二人を無くして、信頼できない大人(教師)の中で勉強なんか出来ないと、格好つけていた。

うだうだとお正月が過ぎ、「母から辞めるなら辞めなさい!うちは貴女だけに構ってはいられないんだから・・・」と宣言されていた。
苦労している母に、私が退学すると言うことはショックを与えるに違いない。
そんな風に考える私は、何も決まっていなかった。

1月7日 明日から新学期だ!
昨年末で退学した友人は、私に迷っているなら3月までに考えればいいじゃないという。
だって、何のために行くのか目的意識が見出せないでいる私は、以前のように学校が楽しいとは思えなくなってしまった。

その日の午後、滝沢先生からハガキが届いた。
遅い年賀状だ。
やっぱり、心配してくれているんだな・・・とか考えると悪い気はしない。
しかし、文面を読んで・・・・私は・・・・

どういうことか、わからなかった。


「 明けましておめでとう。

  新しい年があけました。

  君が、今年も笑顔で登校することを望んでいます。

  あぁ、銀鼠色の空に夕日が沈んで行く

  僕は、もう星になれない・・・・

  貴女は貴女らしく、人間を愛して生きてください。 」



意味がよくわからなかった。先生の伝えたいメッセージ。


翌日新学期、少しの胸騒ぎを覚えて登校すると ホームルーム前に担任から呼ばれた。
「貴女は知っていらしたんですか・・・?」と、

「なに!なんですか?」

「滝沢先生のことですよ!」

「何のことですか?」

「だって、親しかったんでしょう・・・?」

その、卑猥な感じの表現はどういうことよ!!
この、くそばばあ・・って心の中で叫んでいた。

緊急全校放送が始まり、滝沢先生が 亡くなったと校長が告げる。

あっ!私にはやっと、昨日のハガキの意味が解った瞬間であった。

下宿の窓からドアから全ての隙間に、テープを張りガスの栓をひねったそうな・・・

数日後、全ての片づけが終わった先生の下宿に以前のように数人で訪れた。

昨年末に先生と会ったことも、1月5日過ぎに遊びに誘われたことも、年賀状をもらったことも、私は母以外の誰にも告げられなかった・・・。

あのとき、もっと心通わす会話をしなかったことが私の罪の後悔として今も心に残る。


落ち着いた頃、母が言った。

貴女は先生から誘われたら、一緒に死んじゃっていたかもね・・・。

そんなこと、夢にも考えはしなかったけれど 求めるばかりの優しさや愛だけでなく、もう少し大人の私がそこにいたらと・・・・。


今、なぜ40年前の滝沢先生が記憶の中から現れて来たのでしょう?

思い出すすべてのことを一気に書き上げて、私は先生のメッセージを今更ながらに強く感じるのです。


自分らしく、人間を愛して生きる・・・生きていくことの意味と難しさを!!


               完







ホントに昔のことですが、こんな風に少しずつ小説やエッセイも書いてみようと思っています。
皆様是非、感想でも意見でも何でもお願いします。

これからの参考にさせていただきます。・・・・・




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4 コメント

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Unknown (みなこ)
2007-04-21 21:43:29
滝沢先生は、大人社会と真実との間で、救えなかったことに失望してしまったのではないでしょうか。
若干23歳。重すぎる課題だったのかもしれません。

どんなときでも前向きに生きることは、すごくむずかしいと思います。時には弱音をはかなきゃやってられないこともある。

自分らしく、人間を愛して生きること・・・
その言葉は、今のママへのメッセージなのかもしれないですね
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メッセージ! (いなこ)
2007-04-21 23:31:50
私も、そう思いました。
自分がナーバスになって、過敏になったときにこんなにも鮮明に昔のことを、思い出させてくれた滝沢先生が、側にいる気がします。

物事の捉え方ひとつで、こころは変わるし、向かっていく方向も変えることが出来る・・・

そうやって、自分を見つめて・・・
育てていかなきゃ・・・ ですね。
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上手く言えないのですが (MOU)
2007-04-23 01:03:17
こんばんは。
昔から変わらないお友達思いのyinakoさん、yinakoさんの幸せを願って旅立った先生のお姿が浮かびました。
コメントを書こうと思い、毎日書き出しては、手が止まってしまい、消去していました。
上手く言えないのですが、yinakoさんがお幸せな気持ちを持てることを、私も祈ってます。
yinakoさんと知り合ってから、21年。
私も、下の子供が入園し、一区切りです。自分が幸せに感じるには、どうしたら良いのか考えていこうと思います
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MOUちゃんへ (いなこ)
2007-04-23 01:20:16
毎日忙しくしていることでしょうね。

子育ては時間の経過とともに、やがて手を離れていきます。一生懸命なときは気が付きませんが、自分ひとりが子供の成長から取り残されてしまったように感じたこともあります。

子供や夫の犠牲になるのではなく、一緒に考えて方向を見つけていくこと・・・大切だと思いますね。

無理は禁物だと思うけど、自分もやりたいことは少しずつ始めるなり、続けるなり・・・あったほうがいいですよね。
MOUちゃんと知り合って21年ですか?
う~ん、MOUちゃんのような娘になって欲しいとあの頃ホントに自分の娘のこと願っていましたよ

コメントありがとうね。またよろしく
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