A&Pの☆お宿千夜一夜

美味と心地よい宿を求め、各地をむしゃむしゃ修行中!

あこぎは阿漕  いろんな作品のテーマになっていました 

2012-12-07 15:00:00 | アラカルト
あこぎは漢字では阿漕と書きます。

阿漕は古来より有名な歌枕の1つです。

平安時代に、忍ぶ恋を密漁に譬えて詠んだのが、

☆逢ふことを阿漕の島に曳く網のたびかさならば、人も知りなん  

古今和歌六帖

☆伊勢の海、阿漕が浦に引く網もたびかさなれば人もこそ知れ   

源平盛衰記

この歌から「あこぎ」とは「度重なる」という意味となり、転じて「貪欲

にむさぼる」ことをいうようになりました。


改めて調べると、阿漕浦は三重県津市の東方、中心部に程近い、岩田川の

河口の南側で、今も海水浴場やヨットハーバーとして利用されています

ここは昔、伊勢神宮に供える魚をとるために、一般民は禁漁域でした。

ある漁夫がこの禁を破って魚を獲った。

たびたび密漁を行ったので、遂には人に知られ、漁夫は捕らえられた。

実際は年に3回程度の期間限定でしたが、やはり伊勢側と漁民との間は

うまくいっていなかったようです。


この話が江戸時代に浄瑠璃、文楽、芝居、落語等でアレンジされました。

その後、映画にもなっています。

阿漕塚、阿漕浦では多くの文人が和歌、俳句、短歌を残しています。

☆野口雨情 「阿漕が浦の舟人はゆらりゆらりと舟を漕ぐ」
 
☆長谷川素逝 「遠花火 海の彼方に ふと消えぬ」 の碑があります。

阿漕浦が発祥の地という古流泳法「観海流」というのもあるそうです。 


確か能にも「阿漕」ってあったはずと家の「能の名曲70番」をひもとく。

日向国(宮崎県)から伊勢参宮に来た男に、伊勢(三重県)の阿濃(あの)の郡

(こおり)で会った老漁師は「ここは伊勢神宮へ供える魚を獲るところで、

禁漁だが昔、禁をたびたび犯した罪で、漁師が沖に沈められたので男の名

を取って「阿漕浦」と名づけられたと語って消える。

法華経の読経の後、漁師は今度は阿漕の亡霊として、生前隠れて殺生して

いた姿を再現する四つ手網を持って登場する。

悪名を死後に残し、冥土でも罪の呵責に苦しみ、救いを求めていると言い、

地獄の炎となった波の底へ消える。

旅の僧の出る演出もある。



文楽では「勢州阿漕浦」。

江戸時代の中期に浄瑠璃(義大夫)の「勢州阿漕浦・鈴鹿合戦、平治住家の段」が

できて広まりました。

坂上田村麿が鈴鹿の逆賊・藤原千方(ふじわらのちかた)を退治する時代物

「田村麿鈴鹿合戦」の四段目に当たります。

今日ではここだけが上演され「勢州阿漕浦」と題も内容も改められました。

それが「芝居」にもなりました。

殺生禁断の地である阿漕浦で毎晩密漁していたのが見つかって捕えられ、

簀巻にされて海に沈められた後、殺生の罪によって死後も地獄の苦しみを

味わう海士の姿を描いた物語です。

浄瑠璃作者は、能の中では説明されない密漁の理由を解き明かす趣向の話

を書き上げました。

また、能が海士の死後の物語であるのに対して、浄瑠璃では海士が簀巻に

されて殺されるという事件を更にさかのぼって、海士の生前の物語を書い

ています。


落語ではこの和歌を題材にした「西行」という話があります。

染殿という女房に懸想をした北面の武士・佐藤憲清は、思いがかない一夜

を共にします。

憲清は別れ際に逢瀬を尋ねますが、染殿は「阿漕であろう」と答えて立ち

去ってしまいます。

憲清はこの「阿漕」の意味がわからず、悩んだ挙句に出家してしまいます。

出家して西行となった憲清が伊勢国を旅していると、馬方が馬に「おまえ

のような阿漕な奴はない」と言っているのを聞き、その意味を尋ねると、

「馬が餌を食ったばかりで、いくらも稼がないうちにまた餌を食いたが

って困るのだ」という返事。

そこで西行は「阿漕とは二度目のこと」と気づく話です。

以下は「釣りと魚のことわざ辞典」二階堂清風著東京堂出版からの引用。

阿漕平治という漁師(一説では海士)は、老母の病を治すため難病に効く

とされたヤガラを求めて、禁漁区の海に禁を犯して網を入れました。

ヤガラは矢の幹のように細長い魚。

江戸の書物によると、反胃(食べ物が消化されずに戻してしまう病)や

噎膈(食べ物がのどを通らない病)の病にかかった人に与えるといいと

されていました。

ヤガラの体内に食物を含ませ、ヤガラの口をストローのようにして食べ

させると戻すことがないと信じられいたようです。

「ヤガラ」は、平治住家ノ段にある「十握ノ釼」を、あらわしています。

暫くは、人に知られず、また、知られても孝養ということで、大目に見

られていましたが、図に乗って幾度と無く網を入れたため、捕らえられて

簀巻きにされ、この浦に沈められてしまいました。

その後、誰となくこの浦を「阿漕が浦」と呼ぶようになったとか。

「平治住家」の初演の後、浄瑠璃の影響を受けた孝子伝説が地元に生まれ、

天明二年(1782年)には主人公・阿漕の平治を供養する阿漕塚が海岸

付近に建てられ、今でもかの地に残されています。

津には平治煎餅があり、地元では「孝行せんべい」と呼んでいるらしいが、

製造元の消費期限偽装が発覚、文字通りあこぎな商売をしていたようです。

ちゃんちゃん。

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