高尾山麓日誌

東京、高尾山麓付近に暮らす日常から、高尾山の状況や、高尾山・八王子周辺地域で気付いたこと、周辺鉄道情報などを掲載

またまた飯田線地味シリーズ 静ママ クモハ54104 (蔵出し画像)

2016-03-23 00:01:46 | 旧型国電
 前回は異端児の紹介でしたので、再び飯田線、しかも地味な60改造クモハ54シリーズに戻ります。こちらは伊那松島機関区にいたクモハ54104です。静ママのクモハ54の多くは80系投入後も残りましたが、本車はクハ68402と共に不幸にもリストラされてしまいました。全検は78年3月に受けているので全検切れではなかったはずですが、状態が悪かったのかもしれません。

 静トヨのクモハ54の多数派とは異なり、正面左側の窓にRがついていません。また正面の通風機もなぜか潰されていませんね。なお相棒は私のメモによれば47069でした。

 本車はやはり地味なのか模型製品化もないようです。


[撮影1978.5.5豊橋]

例によって本車の車歴を見ていきましょう。

1941.2.11日本車輌製造(モハ60032※)→1941.3.3大ミハ→1944.7.29座席撤去→1947.10大ヨト→1949.5座席整備→1949.6クハ代用→1950.9.27大アカ→1951.3.21クハ代用解除→1953.6.1改番(モハ54104)→1955.9.8更新修繕I(吹田工)→1966.5.28静ママ→[78-3全検浜松工]→1978.10.13静トヨ→1979.3.9廃車

 大ヨト時代に座席整備がなされていますが、この時既にロングシートで復帰していたのか、それともセミクロスで整備されたのかが気になりますが、この車歴からだけでは分かりません。ただ『関西国電50年』の記述を見ますと、この頃城東線で極端に車両不足が深刻化していたとの記述がありますので、京阪神普通電車を列車で代用し、緊急避難的に大ヨトに電車を集結させていたのかも知れません。だとすれば、いずれ京阪神区間に復帰することを見越してセミクロスで座席整備されていたのではないでしょうか。
 またクハ代用で使用されていた期間があることが分かります。これもおそらく電装品が故障したものの修理できなくてクハ代用で使われていたのではないでしょうか。
 因みに、1948年にはモハ63が、大ヨトに移動した車を補うように大ミハなどに新製配置され、また関東からの転出も迎えますが、本車が大アカに移動した1950年にこれらのモハ63の大半は関東に転出します。

データ出典:『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、一部現車確認

※『関西国電50年』のクモハ54104の項には原番号モハ60028とありますが、クモハ60の項にはモハ60028は戦災廃車とあり、60032が54104に改番とあります。また製造年月日も60032のものです。
 本来、モハ60の順番通りに改番していれば60028が54104になるはずだったのが、戦災廃車になっため、後からそれに気がついて順番が前後して60032が54104になったのが、一部気付かずに原番が60028と誤記されたものと推定されます。おそらくこれは『関西国電50年』のミスというより、『関西国電50年』が依拠した資料のミスではないでしょうか。

高尾山花模様 3月第4週

2016-03-22 18:00:36 | 植物
 裏高尾、小仏梅郷の梅は、標高の低いところではほぼ終盤、ただ木によってはまだ見られるものもあります。またハナダイコンが咲き始めています。

 日影沢ですが、アズマイチゲはほぼピークと思われます。ハナネコノメは、先週ほぼ蕾がなくなりすべて花が開いた状態でピークした。ユリワサビは見頃です。またスミレはかなり咲き始めています。ニリンソウは、今週になって、全域にわたってぽつぽつ花開いている状態ですが、まだまだこれからです。

 また日影沢ではありませんが、某所でヤマエンゴサクが見頃、またキバナアマナも咲きだしています。






流電1次車中間車元サハ48であったサハ58000 (蔵出し画像)

2016-03-20 11:08:35 | 旧型国電
 前回第1次流電の中間車元サロハ46を紹介しましたが、こちらは元サハ48であるサハ58000(岡オカ)です。これも既に写真を一度流電と共に掲載しています。
 モハ52一統は1950年9月に宮原から鳳に移って、阪和線急行仕業に就いています。しかし、本車はなぜかその2年前に単独で鳳に移り、その後再び宮原に戻るものの、50年9月にはモハ52たちと分かれて流電グループサハ48たちは遠く横須賀線に移ります。
 ただ、移った先の横須賀線では、既存の32系一族のサハ48の多くがそのまま、もしくはクハ47に改造され静岡、岡山局に流れたり、あるいは車両によってはサハ87扱いされて80系に組み込まれて転出していったのに対して、流電サハ48グループはなぜか東鉄で愛され、横須賀線新性能化まで使われます。その間1964年には横須賀線の混雑に対応して3扉化され改番もします。結局横須賀線では関西に匹敵する15年間の長きにわたって活躍することになります。
 とはいえ、クモハ43, 53 (→クモハ50, 51200代)が横須賀-久里浜間のMcTc2連用兼用で最後まで残されたのは理解できますが、70系に占められつつあった当時、サロでもない2扉中間車がなぜ残されたのか、運用上不便ではなかったのか(結局最後は3扉化されますが)、という点が気になります。
 ただ『タイムスリップ横須賀線』(2004, 大正出版) などの写真を見ると、
1960年前後当時の横須賀線は 下り←McTTsMMTc→上り またはTcMTsMMTcの6輌基本編成で運用されており、ラッシュ時はこの基本編成を2本つなげて運用していたようです。この時、43,53がMcTTsMMTcの一番下り寄り(偶数側)に、そして次位のTにサハ48が入っていたようです。おそらく東京寄りが混雑が激しく、横須賀寄りが比較的空いていたため、2扉車をなるべく下り寄りに持ってきていたのではないでしょうか。従ってクモハ43, 53は横須賀線時代下り先頭に出るのが原則だったようです。だから静岡局に転出したクモハ43の多くは奇数車(上り向き)だったのですね。また偶数車(下り向き)だけだったクハ47100代(元クハ58)はクモハ43と被るので、静岡局や伊東線に出されたようです。
 因みに一部サハ48がクハ47に改造されたのも、必ずしも地方転出のためだけではなく、横須賀線内でTcMTsMMTcの下り寄りに使っていたケースが見られます。これも2扉車をなるべく下りに寄せて使うために行われたものと思われます。

 現在の発想なら全部70系に統一してしまえば簡単なのに、なぜ下り寄りに寄せるというような運用の不便を我慢しつつ2扉車の使用に固執していたのかと思いますが、おそらくは横須賀線の「格」を考えて、なるべくクロスシートの座席数を極力たくさん確保したい、とか、やはり扉数が少ない方が車内が落ち着いて乗客サービスとしてよいという考え方があり、それと横須賀線の混雑度の増加との兼ね合いで決められていたのではないでしょうか。そういう意味では横須賀線の中で42系や急電グループの尊厳は保たれていたのではないでしょうか。

 またどこで読んだかは忘れましたが何かのエッセイで (團伊玖磨の『パイプのけむり』あたりだったかも知れません) 、当時の鎌倉駅のラッシュ時では2扉車と3扉車が混在している位置では、乗客の間に3扉車が来ても真ん中のドアから乗らない、真ん中のドアで待たない暗黙のルールがあった、ということを読んだ記憶があります。

 ロングシートが大半となってしまった今の横須賀線はずいぶん格落ちしたものだと思いますが、丸の内に勤務するエリートが鎌倉から通うという時代でもなくなったということでしょう。もちろん、ハイカラな海軍さんが乗る路線ではなくなったのは、さらに昔に遡りますが。ただ一部にセミクロスシートが残されているのは当時の発想が今も格落ちながら辛うじて残っているということでしょう。もっとも当時2扉車が残っていたのは横須賀寄り。今は東京(千葉)寄りなので、向きは反対ですが。

 横須賀線新性能化で第2の故郷を追われたサハ58000は3扉化されたお陰で奇跡的に古巣であった関西の東海道・山陽線運用にマルーンに塗りつぶされて復帰しますが、すぐ関東の新性能化で捻出された73系に追われ岡山に追いやられ、最後の10年間を過ごし、最後は小山電車区から流れてきた115系トップナンバーらに追われて、飯田線の仲間より一足早く廃車となりました。

 1952年頃に横須賀線から飯田線に転出して再び急電編成が復活していれば... あるいは大阪に復帰せずに飯田線に都落ちしていればと思うところですが、なかなか現実は上手く行きません。


 第2次、3次流電・合いの子のサハ48を三扉化したサハ58は非常に違和感がありましたが、本車は狭窓の分違和感が少なく好ましい感じです。

こちらは室内連結面と屋根からの写真です。貫通路扉はオリジナルの木製です。禁煙表示があるのに灰皿がある点が何とも。


では車歴を見ていきましょう。

1936.5.5川崎車輌製造 (サハ48029)→1936.6.26使用開始(大ミハ)→1943.2.11大アカ→1943.7.5座席撤去→1948.12.20大オト→1948.12.23座席整備→1949.7.1大ミハ→1950.9.17東チタ→1950.12.15更新修繕I(大宮工)→1959.1.31更新修繕II(大宮工)→1960.4東フナ→1964.1.23改造(大船工 サハ58000)→1965.2.11大アカ→1966.8.9岡オカ→1976.9.11廃車

データ出所: 『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー

元流電1次車サロハだったクハ47151 (蔵出し画像)

2016-03-17 00:07:23 | 旧型国電
 一度1枚だけ写真を掲載しているのですが、再度第1次モハ52グループの元サロハ46だったクハ47151(静チウ)を紹介します。この車両はクモハ51とクハ68で揃った中部天竜機関支区の中で唯一の2扉車で、遠くから見てもその特徴ははっきり分かります。









 ううーん。4枚もあるのにすべて同じサイドからですね... ちなみに相棒は、私のメモの記録によればクモハ51046だったようです。

 では車歴を見てみましょう。

1936.5.5川崎車輌製造(サロハ46018)→1936.6.26使用開始(大ミハ)→1937.10改造(サロハ66020 吹田工 WC設置)→1943.2.12大アカ→1943.8.9改造 (サハ48036 吹田工 座席撤去)→1948.5.22座席整備→1949.8.25大ミハ→1950.9.27天オト→1954.11更新修繕I(吹田工)→1958.6.2静トヨ→1958.11.27改造(クハ47025 豊川分工)静ママ→1959.12改番(クハ47151)→1966.4.7静フシ※→1966.8.3静ママ→1967.9.26静フシ→1969.4.11静ヌマ→1972.4.20静チウ→1978.10.1静トヨ→1978.11.9廃車

 様々な変転で5回も改番(改造)を繰り返しています。飯田線に入るまではほぼ流電グループと共通ですが、クモハ52は転入当初伊那松島に入り、本車は豊橋に入っています。ここでクモハ52と分かれたせいかしばらくしてクハ化され伊那松島に移動します。さらに何度か身延線とやりとりがありこの時にトンネル断面の小ささから、ヘッドライトが妻面に埋め込まれています。ひょっとして一旦身延線に入ったものの、車両限界の関係で問題になって一旦戻され、ライト改造後また身延線に移ったのかとも推測されますが、分かりません。
 ただ5年ほどで飯田線(今度は中部天竜)に復帰し、中部天竜唯一の2扉車として最後の日々を送りました。ひょっとすると古巣の伊那松島に戻っていたらもうちょっと延命できたのでは、とも思いますが...

車歴データ出所: 『関西国電50年』『鉄道ピクトリアル』バックナンバー
※『鉄道ピクトリアル』誌には1966.4.7静トヨ→静フシとあるが、おそらく静ママ→静フシの間違いと思われる。

豊橋機関区クモハ54121 (蔵出し画像)

2016-03-14 00:54:24 | 旧型国電
 やはり、地味な飯田線の縁の下の力持ちシリーズですが、クモハ54121(静トヨ)です。クモハ54121, 123, 125は運転台右側の窓がHゴム化され、さらに左側の窓はHゴム化されていないのになぜかRが付いている、というアクセントが同じで、撮影メモでもない限り区別がつきません。また正面だけですと先日紹介した54009とも区別がつきません。
 この写真を撮ったとき(1976.5)は、メモによりますと、豊橋側から54121+87001+48034+42009で豊橋機関区33番運用に就いていました。54121は当時76年3月に浜松工場で全検を受けたばかりで、塗装がきれいな状態でした。
 豊橋駅でのカラーと同じに日に豊橋機関区で撮影したモノクロの画像を見て頂きます。





 この三兄弟の内54125のみは、80系投入後も残りましたが、後の2両は流電らと運命を共にすることになりました。

本車の車歴は、

1943.7.24汽車会社東京支店製造(モハ60092)→1943.8.27使用開始(大ミハ)→1945.2座席撤去→1948.7.8大ヨト→1948.12.13座席整備→1950.11.13大ミハ→1953.6.1改番(モハ54121)→1956.1.12更新修繕I(吹田工)→1956.3.1大タツ→1962.9.15大アカ→1967.4.2静トヨ→1979.3.9廃車

データ出所:『関西国電50年』

 ほぼ、同僚クモハ54123と同様な経歴を辿っています。