本車は元々はクハ55の第2次タイプ。平妻・半室運転台でありながら、運転室の長さが延長されたため、運転室側乗務員扉の後の窓が2つに分かれている少数派タイプです。当初は、第1次タイプの最後の数台と共に東鉄向きに投入されたため、引き通し線の配置が大鉄向きとは異なり、クハ55100番台を名乗っていたのですが、翌年大鉄向きタイプの連番に改番されました。
戦後、42系と交換に大阪に行くこととなった中央線のモハ51の相棒として選ばれたためか(それにしては若干時期が早い)、1949年に大阪に移り、クハ68に編入され18年間を明石電車区で過ごすことになります。その後73系に追われて飯田線に移り、その多くを中部天竜を拠点にのんびりと過ごすことになります。最後は中部天竜にいたクモハ51と運命を共にしました。下に掲げた写真は1977年の年末です。
なお、78年改正で消えた400番台クハ68のすべてが奇数向き(豊橋向き)だったのは、やはり奇数向きだったクハユニ56に押し出されたためでしょうね。
本車の車歴は下記の通りです。
1935.6.29 新潟鐵工所製造 (クハ55107 東カノ)→1936.4改番 (クハ55027)→1949.8.24大ヨト→1950.4.5座席整備→1950.9.28大アカ→1952.2.8更新修繕I(吹田工)→1953.6.1改番(クハ68077)→1959.1.31更新修繕II(幡生工)→1968.12.16静ママ→1971.3.6静チウ→1972.2.3改造 (クハ68407)→1978.10.1静トヨ→1978.11.17廃車
データ出所:『関西国電50年』、『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電ガイド』
戦後、42系と交換に大阪に行くこととなった中央線のモハ51の相棒として選ばれたためか(それにしては若干時期が早い)、1949年に大阪に移り、クハ68に編入され18年間を明石電車区で過ごすことになります。その後73系に追われて飯田線に移り、その多くを中部天竜を拠点にのんびりと過ごすことになります。最後は中部天竜にいたクモハ51と運命を共にしました。下に掲げた写真は1977年の年末です。
なお、78年改正で消えた400番台クハ68のすべてが奇数向き(豊橋向き)だったのは、やはり奇数向きだったクハユニ56に押し出されたためでしょうね。
本車の車歴は下記の通りです。
1935.6.29 新潟鐵工所製造 (クハ55107 東カノ)→1936.4改番 (クハ55027)→1949.8.24大ヨト→1950.4.5座席整備→1950.9.28大アカ→1952.2.8更新修繕I(吹田工)→1953.6.1改番(クハ68077)→1959.1.31更新修繕II(幡生工)→1968.12.16静ママ→1971.3.6静チウ→1972.2.3改造 (クハ68407)→1978.10.1静トヨ→1978.11.17廃車
データ出所:『関西国電50年』、『鉄道ピクトリアル』バックナンバー、『旧型国電ガイド』