こちらはクモハ54007 (静トヨ) です。仙石線から流れて来た車輌で、仙石線特有の押し込み式ベンチレーターを装備した車輌でした。撮影時(1978)は全検を受けた直後だったらしく、塗装もぴかぴかでしたが、秋の80系投入であっさり廃車になってしまいました。

(1978.1)
そして反対サイド。こちらの写真は上の写真の1-2日前ですが、おそらく浜松工場の全検から戻った直後の写真ではないかと思われます。上の写真はその後編成に組み込んだ姿であったかと。なおパンタグラフが上がっておらず、写真では分かりませんが、東日本に転じた旧国の例に漏れずPS-13化されていました。

(1977.12)
因みに『関西国電50年』等より本車の車歴を見ますと、以下の通りです。
1941.12.20汽車会社東京支店製造、同日使用開始(大ヨト)→1948.9.11大オト→1950.9.28大ミハ→1955.7.15更新修繕I(吹田)→1956.3.1大タツ→1961.10.1大アカ→1969.8.30仙セキ→1971.12.17静トヨ→[77-12全検浜松工]→1978.12.20廃車 (静トヨ)
最初の配置が淀川電車区 (城東・片町線担当) というのがちょっと意外です。ですが、1950年以降は順当な経歴を歩んだと言えるでしょう。また仙石線での活躍も1年半足らずと短かったようです。

(1978.1)
そして反対サイド。こちらの写真は上の写真の1-2日前ですが、おそらく浜松工場の全検から戻った直後の写真ではないかと思われます。上の写真はその後編成に組み込んだ姿であったかと。なおパンタグラフが上がっておらず、写真では分かりませんが、東日本に転じた旧国の例に漏れずPS-13化されていました。

(1977.12)
因みに『関西国電50年』等より本車の車歴を見ますと、以下の通りです。
1941.12.20汽車会社東京支店製造、同日使用開始(大ヨト)→1948.9.11大オト→1950.9.28大ミハ→1955.7.15更新修繕I(吹田)→1956.3.1大タツ→1961.10.1大アカ→1969.8.30仙セキ→1971.12.17静トヨ→[77-12全検浜松工]→1978.12.20廃車 (静トヨ)
最初の配置が淀川電車区 (城東・片町線担当) というのがちょっと意外です。ですが、1950年以降は順当な経歴を歩んだと言えるでしょう。また仙石線での活躍も1年半足らずと短かったようです。
RP誌の合造車特集ですが、2011年11月号でした。
仙石線のクモハ54、クハ68形ですが、4両編成4本分のそれぞれ8両(54004, 005, 007, 101, 103, 105, 107, 109, 68052, 058, 060, 062, 086, 090, 102, 106)がいたのですが、昭和46年度に半数のそれぞれ4両ずつ(54005, 007, 101, 109, 68052, 058, 102, 106)がモハ70形とクハ79形のそれぞれ4両(70047, 123, 124, 125, 79900, 902, 921, 943)に置き換えられました。クモハ54007と行動を共にしたのがクハ68106で、WC取り付け改造でクハ68412に改番されています。
仙石線に残った車も昭和49年度のアコモ改造車で置き換えられ、68062が福塩線、68090が中部山岳ローカルに転出した以外廃車になっています。
クモハ54、クハ68形への押し込みベンチレーターの取り付けですが、クモハ54の方は54005以外の全て、クハ68の方は68060,062、086、090の4両が工事済みでした。このため、昭和46年の転出では未改造の車全てが転出したことになります。一方で昭和46年度転入車はモハ70形はすべて取り付けられましたが、クハ79形は902だけの取り付けでした。残りの車は79921は転入後まもなく事故廃車ですが、代車として転入した79369は交換が行われており、恐らくこの車が最後のベンチレータ交換工事施行車です。
考えてみるとアコモ改造車も仙石線向きだった訳ですから押し込みベンチレーター付で改造落成しても良かったはずですが、なぜグロベンだったのでしょう?
最初からいずれ首都圏に還流させるつもりだったのでしょうか?
失礼致します。仙石線のベンチレーター交換は冬季に雪が吹き込まない様にするためと聞いていました。103系タイプ車体のアコモ改72系が押し込み型でなく、グロベンで作られたのは冬季に換気口を閉鎖して雪が吹き込まない改良型(?)のグロベンだからとも聞いていました。
ご教示ありがとうございました。