延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

キヲクの彼方。 -鉄道をめぐる延岡の物語 (3)-

2012-10-07 15:18:34 | インポート
鉄道をめぐる延岡の物語 (3)
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既に第二次大戦前から都市空間において子供の健全な遊び場としての「児童公園」が各地に設けられていたが、この種の公園の位置付けが定められたのは戦後の昭和25年の建築基準法や昭和31年の都市公園法といった諸法令の整備によってであった。
延岡市内でも昭和30年前後の法整備の進みつつある段階で児童公園が各地につくられ、さらに昭和50年頃にも再び大きなピークをむかえている。児童公園は2回のベビーブームに沿って子供達が屋外で遊ぶ年齢となる頃に増加していった事がよくわかるだろう。

大瀬児童公園が開園したのはまさに昭和50年7月、児童公園の増加は、退役した蒸気機関車達が余生を過ごすのにうってつけの空間として確保されたのであった。そう考えると、ここ10年前後の間に児童公園に設置された遊具の老朽化による撤去と、モニュメントのような蒸気機関車が老朽化によって撤去か保存かといった動きが出てきているのも、両者が公園に設置された時期が近い事と関係がありそうだ。

10延岡のD51485号機の場合、老朽化はアスベスト問題と関係していた。戦前より工業製品や建築材料の耐熱・耐久素材として広く使われてきたアスベスト(石綿)が、体内に取り込まれて肺ガンなどの人体への健康被害を引き起こしたり、そうした可能性を高くするのは今日ではよく知られている。今でこそアスベスト被害に対する救済措置がとられているものの、国策のもと鉄道や船舶といった交通機関は最も多く利用されてきた。

耐熱部品が多い蒸気機関車は、もちろん、アスベストが色々な部分に利用されている。経年変化によって様々な箇所が腐食してしまっている状況となると、このアスベストが露出して飛散する可能性があっても不思議ではない。市民の安全を考えると、公園を管理する市が一刻も早く対策を考えなければいけなかったのは当然の事であろう。そしてその当初の対策とはすなわち、機関車の解体処分を意味していたのであった。

機関車は昭和49年に公園の現在の場所に移設されて以来、国鉄OBをはじめ、市民の有志で「延岡市蒸気機関車保存会」が結成され、清掃や部分的な修復(部分塗装など)が行われ、市からの委託というかたちで守られてきた。現在機関車を覆っている屋根も、保存会の要望によって設置されたものである。ところがこの保存会メンバーも高齢化が進み、かつてのような活動も、なかなか出来なくなってきていた。

485が解体されるという報道が流れた時、私はすぐさま市役所に宛てたメールを送った。内容はこの機関車が戦後の工業都市としての延岡を文字通り牽引してきた存在であり、それ故に地域社会の歴史を考える上で重要である点、そして市民にとって様々な想いを載せたかけがえのない存在である点を挙げた上で、保存を再考してほしいという要望であった。

同じような想いを持った人は市民の中にも多く、そして何よりもすぐさま行動に起こした人物がいた。



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