延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

キヲクの彼方。 -鉄道をめぐる延岡の物語 (2)-

2012-10-07 15:13:20 | インポート
鉄道をめぐる延岡の物語 (2)
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東京から西鹿児島まで、日本最長距離で運転されていた寝台特急富士に乗った事がある。子供の頃、母親の実家がある鹿児島まで帰省した時の事だ。その時が日豊本線を通った最初であっただろう。それから長い間この路線の存在すら忘れていた。正確に言えば、当時富士に乗った時の記憶も今となっては遠い彼方にある。既に蒸気機関車が殆んど失われていた時代、北と南に僅かに走っているという事を精々テレビで知っていた程度であったが、もしかしたら幼かったこの時、生きているかのように煙を吐いた黒っぽいシルエットを、どこかで見かけていたのかもしれない。

安全上の理由から街中の公園で遊具が次々と無くなっていく昨今において、延岡市内でも大瀬児童公園はもはや貴重な存在になってしまったのかもしれない。ただ正確に言うと、公園の価値を高めている「それ」は遊具ではない。通常そこに登ったりする事は出来ないし、景観にそぐわない危険表示の掲示板まで設置されている。だが、そこにあるのは石製のモニュメントのようにはじめから動かない事を前提つくられたものでは決してないし、整備し直せば今でも動き出すのではなかろうかとすら思ってしまうのだ。

Shiori公園にはかつて日豊本線で活躍した蒸気機関車、形式D51(通称:デゴイチ)の485号機が静かに余生を過ごしている。このD51485(以下、485)は、昭和15(1940)年4月に、現在でもJR九州の車輌工場として最も重要な拠点である国鉄小倉工場で誕生した車輌である。終戦後の昭和23年になって南延岡機関区に配属され、以来日豊本線の南線が電化された昭和49年まで長い間活躍していた。その年の4月にはお別れセレモニーが行われ、485を含む4輌の蒸気機関車がそれぞれ重連で最後の運行を行った。この戦後復興-高度成長期を支えた文字通りの牽引車の1輌に対して、街の人々は栄誉を称えて恒久保存を望んだのであった。それこそが大瀬児童公園に保存されている485である。

485は南延岡駅から旭化成専用線を伝い、一旦台車を切り離してトレーラーに載せ換え、パイパスの開通によって国道10号線から名称変更となった市街地のメインストリートである県道16号線を横切り、さらに昭和初期まで同じく目抜き通りであった亀井通線(愛宕町1丁目交差点から大瀬橋-延岡市役所-亀井橋方面に抜ける道路)を通り、現在の大瀬児童公園にまで運ばれた。当時の様子を記録したMRT宮崎放送の映像が残されているが、沿道には多くの市民が機関車を見守る姿がうかがえる。「現在の」と書いたが、これは公園そのものが485を主役に据えて整備されていったからである。


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