先月10月29日に、加賀象嵌作家の高橋介州が亡くなられた。99歳であった。
実は、高橋介州の逝去によって、石川県における美術工芸界の一つの大きな時代が、ほとんど誰からも意識されることなく、静かに静かに幕を下ろすことになった。
―――――
昭和20年8月15日終戦。
信じられないことに、その直後から、県内の美術関係者の中おいて、金沢で戦後日本初の総合美術展を開催するという気宇壮大な事業の胎動がみられた。そして、なんとその後、二ヵ月も経たない10月12日には、石川県美術文化協会が設立され、その翌日10月13日から、旧北陸海軍館を借り受けて、第一回の現代美術展が、日本画、洋画、彫刻、工芸の四分野において開催されることになった。これは、まさに、美術関係者の中で語り継がれているとされる、「戦後60日の奇跡」以外のなにものでもない。
その美術文化協会設立に向けては、石川県が日本の美術界に誇る、錚々たる人材が奔走することになった。
高光一也(洋画)、長谷川八十(彫刻)、高橋介州(金工)、浅田二郎(洋画)、疎開中の宮本三郎(洋画)、畠山錦成(日本画)。
彼らは、ただ、北陸否日本の美術工芸文化再建を「坂の上の雲」として、懸命にその坂道を登っていった。おそらくは、芸術家である彼らにとって、それは、相当な困難を伴う作業であったことであろう。
当時、その中心メンバーであった宮本三郎は、新聞社のインタビューで次のように答えている。
「この美術の国日本を戦後の新しい現実の中にいかに再建設していくか、私はそこにいま思いをひそめているのです。(中略)日本国民全体の前に、いまこそ真の力を問う時代がきているのであると・・・」
彼らの努力が先ずは形となったのが、県美術文化協会設立であり、その初代理事長がこの度亡くなられた高橋介州、その人である。
高橋介州の逝去によって、当時の、空気を知る者は誰もいなくなった。戦後、日本で初めて行われた、あまりにも勇壮な試みの、その渦中にあった人間は、一人もいなくなったのである。
物話はまだ続く。
さて、県美術文化協会を設立し、現代美術展開催にこぎつけた、高橋介州をはじめとした面々は、その余勢を駆って、当時の武谷甚太郎金沢市長に、美術工芸分野の裾野拡大の意義を説き、とうとう、金沢市立の美術工芸専門学校設立を認めさせてしまった。いうまでもなく、現在の金沢美術工芸大学の前身である。
終戦の翌年の昭和21年2月に開かれた金沢市議会において、武谷市長は、金沢美専設置の意思表明をすると同時に、昭和21年度一般会計当初予算に設置準備費として10万円を計上した。さらに、その年7月には臨時議会を召集し、初年度経常費17万円に加え、第一期建設費54万円余を計上した。当時の一般会計予算規模は825万円余であったので、大学設置に要した予算額は、現在の予算規模で換算すると150億円にも相当する、とてつもない事業であった。
金沢21世紀美術館の建設費が約110億円であることを考えれば、その壮大さが窺い知れよう。否、想像もできないようなスケールの大きなプロジェクトであった。
金沢美専の設置が審議された議会において、武谷市長は金沢美専設置を決意された理由として次のように述べられている。
「今日はまさしく国を挙げて食糧危機の中にあります。何をおいても食糧問題の解決に向けて進まなければなりませぬが、食うことだけにとらわれていては国家の再建は非常におぼつかないのではなかろうか。特に金沢は爆撃を免れて全国に残った少数の都市であります。この焼け野原の日本で平和の息吹、新しい芽を少しでも出していかなければならないのではないか。そういう役割をこの地が帯びているということを痛感いたしているのであります」
小泉首相が、就任して最初の国会の所信表明演説において取り上げられたことにより、長岡藩の米百俵の逸話が、一躍有名になったことは、まだ記憶に新しい所である。その全く同じ精神が、戦後間もない本市において発露されたその顕著な例が、現在の金沢美大の黎明といえる。先にあげた、宮本三郎の談話にも、それに繋がるものが感じられる。
時代は変わりながらも、その精神を現代に再確認するものとして、これからの美大を見つめていかなければならない。
―――――
私は、高橋介州が今年亡くなったと聞いて、彼は、この年を待っていたのではなかったかという気がして仕方がない。
今年は、彼らがその成功に向けて尽力した、美術文化協会及び現代美術展開始60周年という区切りの年である。また、高橋介州の弟子である、象嵌作家中川衛氏が、56歳という若さにして人間国宝に認定された年でもある。そして、何といっても、高橋介州をはじめ、美文協設立、現美展開催に汗を流した先達たちの想いを、後世へと伝える新しい装置として、金沢21世紀美術館の開館がなされたのが、彼が息を引き取る、20日前であった。
高橋介州はそれらをすっかりと見届けて、一足先に、鬼籍に入られた仲間達に、想いを遂げた「戦友達」に、持参するお土産を待っていたのではないだろうか。
金沢21世紀美術館には、そういう「想い」も込められているのである。
実は、高橋介州の逝去によって、石川県における美術工芸界の一つの大きな時代が、ほとんど誰からも意識されることなく、静かに静かに幕を下ろすことになった。
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昭和20年8月15日終戦。
信じられないことに、その直後から、県内の美術関係者の中おいて、金沢で戦後日本初の総合美術展を開催するという気宇壮大な事業の胎動がみられた。そして、なんとその後、二ヵ月も経たない10月12日には、石川県美術文化協会が設立され、その翌日10月13日から、旧北陸海軍館を借り受けて、第一回の現代美術展が、日本画、洋画、彫刻、工芸の四分野において開催されることになった。これは、まさに、美術関係者の中で語り継がれているとされる、「戦後60日の奇跡」以外のなにものでもない。
その美術文化協会設立に向けては、石川県が日本の美術界に誇る、錚々たる人材が奔走することになった。
高光一也(洋画)、長谷川八十(彫刻)、高橋介州(金工)、浅田二郎(洋画)、疎開中の宮本三郎(洋画)、畠山錦成(日本画)。
彼らは、ただ、北陸否日本の美術工芸文化再建を「坂の上の雲」として、懸命にその坂道を登っていった。おそらくは、芸術家である彼らにとって、それは、相当な困難を伴う作業であったことであろう。
当時、その中心メンバーであった宮本三郎は、新聞社のインタビューで次のように答えている。
「この美術の国日本を戦後の新しい現実の中にいかに再建設していくか、私はそこにいま思いをひそめているのです。(中略)日本国民全体の前に、いまこそ真の力を問う時代がきているのであると・・・」
彼らの努力が先ずは形となったのが、県美術文化協会設立であり、その初代理事長がこの度亡くなられた高橋介州、その人である。
高橋介州の逝去によって、当時の、空気を知る者は誰もいなくなった。戦後、日本で初めて行われた、あまりにも勇壮な試みの、その渦中にあった人間は、一人もいなくなったのである。
物話はまだ続く。
さて、県美術文化協会を設立し、現代美術展開催にこぎつけた、高橋介州をはじめとした面々は、その余勢を駆って、当時の武谷甚太郎金沢市長に、美術工芸分野の裾野拡大の意義を説き、とうとう、金沢市立の美術工芸専門学校設立を認めさせてしまった。いうまでもなく、現在の金沢美術工芸大学の前身である。
終戦の翌年の昭和21年2月に開かれた金沢市議会において、武谷市長は、金沢美専設置の意思表明をすると同時に、昭和21年度一般会計当初予算に設置準備費として10万円を計上した。さらに、その年7月には臨時議会を召集し、初年度経常費17万円に加え、第一期建設費54万円余を計上した。当時の一般会計予算規模は825万円余であったので、大学設置に要した予算額は、現在の予算規模で換算すると150億円にも相当する、とてつもない事業であった。
金沢21世紀美術館の建設費が約110億円であることを考えれば、その壮大さが窺い知れよう。否、想像もできないようなスケールの大きなプロジェクトであった。
金沢美専の設置が審議された議会において、武谷市長は金沢美専設置を決意された理由として次のように述べられている。
「今日はまさしく国を挙げて食糧危機の中にあります。何をおいても食糧問題の解決に向けて進まなければなりませぬが、食うことだけにとらわれていては国家の再建は非常におぼつかないのではなかろうか。特に金沢は爆撃を免れて全国に残った少数の都市であります。この焼け野原の日本で平和の息吹、新しい芽を少しでも出していかなければならないのではないか。そういう役割をこの地が帯びているということを痛感いたしているのであります」
小泉首相が、就任して最初の国会の所信表明演説において取り上げられたことにより、長岡藩の米百俵の逸話が、一躍有名になったことは、まだ記憶に新しい所である。その全く同じ精神が、戦後間もない本市において発露されたその顕著な例が、現在の金沢美大の黎明といえる。先にあげた、宮本三郎の談話にも、それに繋がるものが感じられる。
時代は変わりながらも、その精神を現代に再確認するものとして、これからの美大を見つめていかなければならない。
―――――
私は、高橋介州が今年亡くなったと聞いて、彼は、この年を待っていたのではなかったかという気がして仕方がない。
今年は、彼らがその成功に向けて尽力した、美術文化協会及び現代美術展開始60周年という区切りの年である。また、高橋介州の弟子である、象嵌作家中川衛氏が、56歳という若さにして人間国宝に認定された年でもある。そして、何といっても、高橋介州をはじめ、美文協設立、現美展開催に汗を流した先達たちの想いを、後世へと伝える新しい装置として、金沢21世紀美術館の開館がなされたのが、彼が息を引き取る、20日前であった。
高橋介州はそれらをすっかりと見届けて、一足先に、鬼籍に入られた仲間達に、想いを遂げた「戦友達」に、持参するお土産を待っていたのではないだろうか。
金沢21世紀美術館には、そういう「想い」も込められているのである。
そこに数ある作品を押しのけて一際美しい姿を見せる作品がありました。 重厚で、でも・・硬くなくて優しい存在感を誇示する聖獣アヌビスの香炉。 それは
高橋介州先生作・神韻大香炉でした。
自宅に帰ってからネットで検索をすると、その作品が昭和22年の作品である事が判り驚いています。 金沢は戦災を受けていないとはいえ、戦後の混乱期に現在でも通用する作品を創られた創作意欲と石川の美術界を引っ張り成長させた功績を、山野よしゆきさまのブログで理解できました。
高橋先生がすでに亡くなられていたのは残念ですが、金沢美大・卯辰山工藝工房・21世紀美術館が高橋介州先生のような方を発掘し、育て、そして多くの方に知ってもらう役割を果たしてもらえれば嬉しく思います。
最後に郷土に誇りを持てるブログをありがとうございました。