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鷲峰山法華寺🙂😐😐「本能寺の変」に繋がる明智光秀の遺恨が生まれた場所と伝わるかつての「諏訪大社上社本宮」の神宮寺

2020-05-05 19:29:13 | 神社仏閣

「法華寺」の名前をもつ寺院は全国にあり、なかでも奈良市法華寺町の「聖武天皇(しょうむてんのう)」の后「光明皇后(こうみょうこうごう)」開基で、本尊に国宝「十一面観音」をいただく総国分尼寺「法華寺」が知られているが、ここ「鷲峰山 法華寺(しゅうぶせん ほっけじ)」は、「諏訪大社上社本宮」の神宮寺(神仏習合思想により神社に付属して建てられた寺院)のひとつで、「臨済宗妙心寺派」の寺院だ。
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815(弘仁6)年「伝教大師」により開山された「天台宗」の寺院だったが、鎌倉時代中期に南宋から渡来した「大覚派」祖の禅僧「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)諡号 大覚禅師」(1213/建保元年~1278/弘安元年)を「建長寺」から招いて中興開山し、「臨済宗」に改めたという。
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「諏訪大社上社本宮」の宮寺(ぐうじ)として、七堂伽藍の整った大規模な寺院だったと伝えられるが、1868(明治元)年の「神仏分離令」と「廃仏毀釈」の動きの中で、「五重塔」「普賢堂」「釈迦堂」「如法院」などが廃されて、現在はその跡が点在するだけだ。
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1582(天正10)年3月には、「高遠城」を陥落させた織田軍勢が、さらに北上して「諏訪大社上社本宮」を焼き討ちしたというが、類焼を免れた同寺は「織田信長」自身の諏訪入りの際の本陣となって、諸将が集結し武田家滅亡後の論功行賞が行われたという。その際の「織田信長」の叱責で面目を失った「明智光秀」が、後の「本能寺の変」に繋がる遺恨を抱いたのが、ここ「法華寺」だったと伝えられている。
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また、境内裏手斜面に「吉良上野介義央(きらこうずのすけよしひさ)」の孫で米沢藩主「上杉綱憲(うえすぎつなのり)」次男の養嗣子「義周(よしちか)」の墓がある。墓石に「宝燈院殿岱嶽徹宗大居士神儀 宝永三丙戌天正月廾日」と刻まれる「吉良義周」は、「赤穂浪士事件」で領地召し上げのうえ、諏訪の地に流され諏訪藩主お預けとなって3年後に享年21で病没したが、亡骸の引き取り手がなく、ここに埋葬されたのだという。
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1999(平成11)年には、放火により山門を残して焼失したが、2005(平成17)年までにようやく再建された。