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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖トマス・アクィナス 尊く賛嘆すべき宴

2011-06-26 20:53:03 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274)ドミニコ会士、司祭、教会博士
神の御独り子は、私たちがご自身の神性にあずかる者となることを望まれ、人間となって人々を神とするために、わたしたち人間の本性をお受けになった。

その上に、主は私たちから受けられたものを全て、私たちの救いのために役立てられた。すなわち、主は私たちを神と和解させるために、十字架の祭壇でご自身の体を犠牲として父なる神に奉献され、ご自身の血が私たちの代価となるために、そして同時に私たちを洗い清めるために、血を流された。それは、私たちがみじめな隷属から救い出され、全ての罪から清められるためであった。

しかも、これほど限りない恵みの記憶を私たちに保たせるために、主はご自身の体を食物として、ご自身の血を飲み物として、パンとぶどう酒の形態の元にいただくようにと信者たちに残された。

ああ、なんと尊く、賛嘆すべき宴だろう。なんと救いをもらたし、すべての甘美さにあふれる宴だろう。いったい、この宴よりも尊いものがあるだろうか。そこではかつての旧約時代におけるように牛や鹿の肉ではなく、まことの神であるキリストが食物として供えられているというのに。この秘跡よりも感嘆すべきものがあるだろうか。

また、この秘跡にまさって救いをもたらすいかなる秘跡も存在しない。この秘跡によってもろもろの罪は清められ、もろもろの徳は強められ、精神はすべての霊的な賜物の満ちあふれによって養われるのである。

この秘跡は教会において、生きている人々と死んだ人々のためにささげられる。万人の救いのために制定されたものが、万人の益となるように。

結局、何人もこの秘跡の甘美さを、余す所無く表現することはできない。この秘跡によって霊的な喜びの源泉が味わわれ、キリストがその受難において示した最高の愛の記憶が新たにされるのである。

このゆえに、この限りない愛が信者たちの心により深く刻みつけられるように、主は最後の晩餐で、弟子達と過ぎ越しを祝い、この世から御父のもとに移るにあたって、ご自身の受難の永久の記念祭、旧約の前表を成就するもの、ご自身が行った諸々の奇跡の中で最高のもの、そしてご自身が去られるのを悲しむ人々に対する比類ない慰めとして、この秘跡を制定されたのである。
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キリストの聖体(聖霊降臨後第二主日)

今日はキリストの聖体の祭日でした。初聖体を迎える子供達が、教会の教えを学び、主が制定されたこの尊い秘跡にあずかりました。

聖トマス・アクィナス 十字架は徳のすべての模範を含む

2011-01-28 23:22:14 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274) ドミニコ会士
『使徒信経講解』
神の御子が私たちのために苦しむ必要があったであろうか。そのような必要は大いにあった。しかも、二つの必要性を挙げることができる。まず第一に、御子の受難は罪をいやすために必要であり、第二に、わたしたちに行為の模範を示すために必要であったのである。
罪を癒すことに関して言えば、私たちが罪の故に招いたすべての灰汁から、きりすとの受難によって癒されると言うべきである。
しかし、模範としての受難の大切さもこれにおとりはしない。実際、キリストの受難は、私たちに生き方を教えるためにこのうえなく完全なのである。・・・

愛の模範を求めるなら、それは「共のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉で示される愛である。キリストが十字架上でなされたことは、まさにこのことである。だから、キリストは私たちのためにご自分の命を捨ててくださったので、私たちはどのような悪をもキリストのために耐え忍ぶことを嫌ってはならない。
忍耐の模範を求めているのなら、十字架上のキリストがその最も卓越した模範であることを見いだすであろう。・・・
謙遜の模範を求めているのなら、十字架につけられたキリストを見つめなさい。実に、神である方がポンティオ・ビラとのもとで裁きを受け、死ぬことをよしとされたのである。
従順の模範を求めているなら、死に至るまで御父に従順であったキリストに従いなさい。「一人の人の部従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる」(ローマ5:19)のである。
現世的な財宝を軽視することの模範を求めているのなら、「王の王であり、主の主」であって、そのうちに「知恵と知識の宝がすべて隠されて」いながら、十字架の上で裸にされ、侮辱され、つばをかけられ、なぐられ、茨の冠をかぶせられ、胆汁や酢を飲まされ、ついになくなられたキリストに従いなさい。
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聖トマス・アクィナス 永遠の命

2010-11-22 20:54:50 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス(1225~1274)ドミニコ会士、司祭、教会博士
『使徒信経講解』
私たちの全ての願望の最終目的、すなわち、永遠の命をもって信経のもろもろの信仰箇条が閉じられるのは相応しいことである。「永遠の命を信じます。アーメン」
永遠の命において第一のことは、人間が神に結びつけられると言うことである。・・・「私はあなたの守護者、あなたの受けるいとも大いなる報いである。」ところで、この結びつきは神を完全に見ることによって成り立つ。「私たちは今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。」
さらに、この結びつきは最高の賛美によっても成り立つ。・・・
さらに、永遠の命は願望を完全に満たすのである。そこにおいては、全て至福なる者は、望み、希望したところを超えた者を所有するからである。・・・

アウグスチヌスが、「主よ」、あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」と述べたとおりである。

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アウグスチヌスは言う。「喜びの全体が喜ぶ人々の内に入るのではなく、喜ぶ人々がことごとく喜びの内に入るであろう。」・・・
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使徒信条の最後についての解説です。三千年前に、ユダヤ人は一神教の啓示を得ますが、その後、イエスが与えられました。これにより、私たち人類の神認識は次の段階に入りました。「永遠の命」とは何か、が今回のテーマです。聖書の集約でもあるこの古い信仰箇条は、現代も生き生きとした信仰を伝えています。教会に啓示された聖伝は、聖書を生み、信条として現在に引き継がれてきましたが、旧約の律法的な信仰から、真理に向かい歩んでゆくキリストの体の生きた信仰へと変わってゆきます。翌日の読書は、紀元180年生まれのオリゲネスですが、この信仰の神秘は、聖書正典目録成立前から教会に啓示されてきたことが分かります。

聖トマス・アクィナス よい牧者

2010-08-25 00:02:39 | 聖トマス・アクィナス
トマス・アクィナス司祭(1225-1274) ドミニコ会士
『ヨハネ福音書講解』
「わたしはよい牧者である」(ゼファニア3:12-13)キリストが牧者であることは明らかです。・・・使徒ペトロは「あなたがたは牧者のいない羊のようでしたが、今は魂の牧者ではあり、監督者である方のところへ戻ってきた」と述べています。そして預言者イザヤは、「主は牧者としてご自分の群れを養う」(イザヤ40:11)と語りました。
ところで、キリストは「門から入る者が牧者である」と言われ、されにご自分は門であると言われました。・・・私たちはこのキリストを通って入り、キリストによって至福に至るのです。
キリストの他に門はないことに注意してください。
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しかし、牧者の役目については、キリストは他の人々、すなわち、御自分の体の肢体である人々にお授けになりました。ペトロも牧者であり、他の死とたちも牧者であり、すべての良い司教たちも牧者であるからです。聖書にも「わたしはあなたたちに、私の心にかなう牧者たちを与える」と記されています。
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良い牧者の務めは愛です。「良い牧者は羊のために命を捨てます」 良い牧者と悪い牧者が違うということを知っていなければなりません。
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主は、われらの牧者 そして、司教も牧者。 しかし、悪い牧者もいるということを、トマス・アクィナスは言います。この時代、様々な司教がいたのでしょうか。現代では、様々な教派や異端と言われる宗教も誕生していますので、ますます良い牧者か悪い牧者かを見分ける力が私たち羊にも必要になってきました。



聖トマス・アクィナス キリストは道であり真理であり命である

2010-06-05 21:17:52 | 聖トマス・アクィナス
聖トマス・アクィナス司祭(1225-1274) 「ヨハネ福音書講解」
キリスト自身が道です。それゆえ「私は道である」と告げられておられます。それには十分な根拠があります。彼によって「私たちが御父に近づくことができる」からです。
しかし、この道は終点から離れているのではなく、終点と結びついているので、キリストは「私は真理であり、命である」と付け加えられます。このように、キリストは道であると同時に終点なのです。彼の人性に即しては道であり、神性に即しては終点です。こうして、キリストは人間であるかぎり、「私は道である」と言い、神であるかぎり「真理であり、命である」と付け加えられます。後者の二つの言葉によって、この道の終点が適切に指示されています。
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キリストはこの道の終点を真理と命という言葉によって指示されたのです。そして、この二つにことはヨハネ福音書の冒頭でキリストについて語られています。すなわち第一にキリスト自身が命であり、「彼のうちに命があった」と言われました。第二にキリストご自身が真理です。彼は「人を照らす光であった」と言われ、光は真理にほかならないからです。
それゆえ、あなたがどの道をたどるべきかを探求しているのなら、キリストを受け入れなさい。キリスト自身が道だからです。アウグスチヌスは「人間であるキリストにそって歩きなさい。そうすればあなたは神にたどり着きます」と語っています。
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あなたが自分がどこへ行けばよいのかを尋ねているのなら、キリストに一致しなさい。キリストご自身こそ、私たちが到達しようと望んでいる真理だからです。「私の喉は真理を思いめぐらします」。
あなたがどこにとどまったらよいのかを尋ねているのなら、キリストに一致しなさい。キリストご自身が命だからです。「私を見出すものは命を見出し、主から救いをくみ取ります」
あなたが完全でありたいなら、キリストと一致しなさい。キリストご自身が道であるから、道に迷うことはありません。・・・キリストと一致する人は欺かれることもありません。キリストご自身が真理であり、すべての真理を教えるからです。