聖トマス・アクィナス(1225~1274)ドミニコ会士、司祭、教会博士
『使徒信経講解』
私たちの全ての願望の最終目的、すなわち、永遠の命をもって信経のもろもろの信仰箇条が閉じられるのはふさわしいことである。「永遠の命を信じます。アーメン」
永遠の命において第一のことは、人間が神に結びつけられると言うことである。私たちの全ての労苦の報酬にして目的であるのは、神ご自身だからである。「私はあなたの守護者、あなたの受けるいとも大いなる報いである。※1」ところで、この結びつきは神を完全に見ることによって成り立つ。「私たちは今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。※2」
さらに、この結びつきは最高の賛美によっても成り立つ。預言者が、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く※3」と語っているとおりである。
さらに、永遠の命は願望を完全に満たすものである。そこにおいては、全て至福なる者は、望み、希望したところを超えた者を所有するからである。その理由は、現世においては誰一人自分の望みを充足することばできず、また、いかなる被造物も人間の望みを満たすことはできないからである。人間の望みを満たすことができるのは神のみであり、しかも、神は人間の望みを無限に超えておられる。それゆえ、人間は神の内にのみ憩いを見いだす。それはアウグスチヌスが、「主よ、あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができないのです。※4」と述べたとおりである。
・・・
アウグスチヌスは言う。「喜びの全体が喜ぶ人々の内に入るのではなく、喜ぶ人々がことごとく喜びの内に入るであろう。」「主の栄光が現れるときに、私は満ち足りるであろう※6。」さらに、「主はあなたの望みをよいものに満ち足らせてくださる※7。」とも書かれている。
年間第三十三土曜日
第一朗読 ゼカリア 14:1-21
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭 『使徒信経講解』
※1 創世記15:1 (ウルガタ)
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(新共同訳)
※2 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
※3 イザヤ51:3
主はシオンを慰めそのすべての廃虚を慰め荒れ野をエデンの園とし荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
※4 聖アウグスチヌス『告白』1:1参照
※6 詩編 17:15(ウルガタ)
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。(新共同訳)
※7 詩編 103:5(ウルガタ)
長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。(新共同訳)
トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。
聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801
ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm
11月24日 聖アンデレ・ドゥン・ラク司祭と同志殉教者 記念日
ベトナムにおけるキリスト教の迫害は、17世紀初めから19世紀末にかけて行われた。1988年に列聖された117人の殉教者の一人であるアンデレ・ドゥン・ラクは、1823年に司祭に叙階され、国内各地で牧者として働いたが、1839年に斬首刑に処せられて殉教した。117人には、8人の司教、50人の司祭、59人の信徒が含まれている。
『使徒信経講解』

永遠の命において第一のことは、人間が神に結びつけられると言うことである。私たちの全ての労苦の報酬にして目的であるのは、神ご自身だからである。「私はあなたの守護者、あなたの受けるいとも大いなる報いである。※1」ところで、この結びつきは神を完全に見ることによって成り立つ。「私たちは今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。※2」
さらに、この結びつきは最高の賛美によっても成り立つ。預言者が、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く※3」と語っているとおりである。
さらに、永遠の命は願望を完全に満たすものである。そこにおいては、全て至福なる者は、望み、希望したところを超えた者を所有するからである。その理由は、現世においては誰一人自分の望みを充足することばできず、また、いかなる被造物も人間の望みを満たすことはできないからである。人間の望みを満たすことができるのは神のみであり、しかも、神は人間の望みを無限に超えておられる。それゆえ、人間は神の内にのみ憩いを見いだす。それはアウグスチヌスが、「主よ、あなたは私たちをご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたの内に憩うまで、安らぎを得ることができないのです。※4」と述べたとおりである。
・・・
アウグスチヌスは言う。「喜びの全体が喜ぶ人々の内に入るのではなく、喜ぶ人々がことごとく喜びの内に入るであろう。」「主の栄光が現れるときに、私は満ち足りるであろう※6。」さらに、「主はあなたの望みをよいものに満ち足らせてくださる※7。」とも書かれている。
年間第三十三土曜日
第一朗読 ゼカリア 14:1-21
第二朗読 聖トマス・アクィナス司祭 『使徒信経講解』
※1 創世記15:1 (ウルガタ)
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(新共同訳)
※2 1コリント13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
※3 イザヤ51:3
主はシオンを慰めそのすべての廃虚を慰め荒れ野をエデンの園とし荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
※4 聖アウグスチヌス『告白』1:1参照
※6 詩編 17:15(ウルガタ)
わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。(新共同訳)
※7 詩編 103:5(ウルガタ)
長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。(新共同訳)
トマス・アクィナス
ドミニコ会士、司祭、教会博士、カトリック教会、聖公会で聖人。
1225年頃、アキノの伯爵の家庭に生まれる。初めはモンテ・カッシーノの修道院で、次いでナポリで学問を修めた。後にドミニコ会に入り、パリとケルンで聖アルベルト・マグヌスに師事して学業を終えた。哲学と神学を教えるとともにそれらに関する多くの優れた著作を残した。1274年3月7日にフォッサノーバ近郊で没した。
聖トマス・アクィナス(女子パウロ会 サイトより)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=012801
ベネディクト十六世が、「中世の東方・西方教会の偉大な著作家」に関する連続講話でトマス・アクィナスについて解説しています。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message515.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message519.htm
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message521.htm
11月24日 聖アンデレ・ドゥン・ラク司祭と同志殉教者 記念日
ベトナムにおけるキリスト教の迫害は、17世紀初めから19世紀末にかけて行われた。1988年に列聖された117人の殉教者の一人であるアンデレ・ドゥン・ラクは、1823年に司祭に叙階され、国内各地で牧者として働いたが、1839年に斬首刑に処せられて殉教した。117人には、8人の司教、50人の司祭、59人の信徒が含まれている。