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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

二世紀の著者の説教

2013-11-10 00:17:31 | 日記
二世紀の著者の説教
 兄弟の皆さん、私たちはイエス・キリストを神として、また、生きている者と死んだ者との審判者として※1考えなければなりません。そして、私たちの救いを些細なものと見なしてはいけません。キリストを些細なものと考えることは、私たちが些細なものを受け取ることしか望んでいないことになるからです。これらのことが些細なことであるかのように聞く者は、罪を犯しているのです。また、私たちがどこから、だれによって、どこへ召し出されたか、そしてイエス・キリストが、私たちのためにどれぼ多くのことを堪え忍ばれたかを知らずにいるなら、私たちも罪を犯しているのです。

 私たちはこのイエスにどのようなお返しをすればよいのでしょうか。私たちにお与えくださったものにふさわしい実を結ぶには、どのような実を結べばよいのでしょうか。イエスに対して私たちはどれほど多くの負債を負っていることでしょう。イエスは、私たちに光りを恵みとして与え、まるで父のように私たちを子と呼び、滅びに向かっていた私たちを救ってくださったのです。この方をどのように賛美すれば良いのでしょうか。私たちがいただいたものに対して、どのようなお返しをすれば良いのでしょうか。私たちは考えが浅かったので、石や木、金、銀、銅、それに人間がこしらたものを拝んでいました。私たちの人生全体は、死以外の何ものでもありませんでした。私たちは闇に覆われ、視界は靄(もや)に包まれていましたが、私たちを覆っていた雲をイエスの尊い心によって払い除け、視力を回復することができました。

 イエスは私たちを慈しみ、あわれに思って救ってくださったのです。イエスは、私たちのうちに多くの過ちがあり、私たちが滅びの道を歩んでいることを目に留められ、ご自身による以外には救われる希望がないことをご覧になったからです。存在していない私たちを招き、何も無い状態から存在へと移らせてくださったのです。

 「喜べ、不妊の女、子を産まない女よ。歓声を上げて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が、夫ある女よりも多くの子を産むから。※2」「喜べ、不妊の女、子を産まない女よ」という言葉は、私たちを指しています。私たちの教会は、子供を与えられる前は不妊でしたから。「叫べ、産みの苦しみを知らない女よ」と言う言葉は、次の事を言おうとしいます。すなわち、私たちは神に向かって素朴に祈りをささげるべきであり、躊躇してはならないのです。「一人取り残された女が、夫ある女よりも多くの子を産む」というのは、次のような意味です。すなわち、神によって私たちの民は一人取り残されたように思われていましたが、今では信仰を持つ私たちは、神を所有していると思った人よりも多くなったのです。

 聖書の他の箇所にも、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである※3」と言われています。イエスが言われるのは、滅びに向かう者をご自分が救わなければならないということです。しっかり立っている者ではなく、倒れかかっている者を堅固に据えることこそ、偉大なこと、驚くべき事なのです。このように、キリストも滅びに向かう者を救おうと望まれたのであり、この世に来て、すでに滅びに向かっていた私たちを招き、多くの者を救われたのです。


年間第三十二主日 読書
第一朗読 ダニエル1:1-21
第二朗読 二世紀の著者の説教
※1 使徒言行録 10:42 参照
そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。

※2 イザヤ54:1、ガラテヤ4:27 参照
喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる。

なぜなら、次のように書いてあるからです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」

※3 マタイ9:13
『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

ナジアンズの聖グレゴリオ 死者のために祈ることは敬虔な想いである

2013-11-08 00:00:00 | 日記
ナジアンズの聖グレゴリオ司教(330~389年) カッパドキアの司教、教会博士
弟カイサリオスの死を忍ぶ説教
 「人は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは※1。」人間という私は、何と不思議な神秘でしょうか。私は小さなものであると同時に大きなものです。惨めなものであると同時に偉大なものです。死すべきものであると同時に不死のものです。地上に属するものであると同時に天に属するものです。私はキリストとともに葬られ、キリストとともに復活し、キリストと共に世継ぎとなり、神の子となり、さらには神そのものになるのです。

 あの偉大な神秘は、このようなことを示します。神は私たちのために人間となり、貧しい者となることによって、このことを示してくださいました。神がそうなさったのは、倒れた人間を立ち上がらせ、人間のうちにある神の似姿を復興させ、人間を造り直すためです。このようにして私たち皆がキリストにおいて一つになります。このキリストは、私たちすべてにおいてすべてとなられました※2。しかも、ご自分のすべてをもっとそうなられたのです。それは、私たちの肉体を特徴づける「男と女※3」、「未開人とスキタイ人、奴隷と自由な身分の者の区別がない※4」ようにするためでした。そして、私たちの創造主であり目的である神の刻印だけを、私たちのうちにしるし、ただそれによってのみ知られるよう、完全に神の姿に私たちを形づくってくださるためでした。


年間第三十一金曜日 読書
第一朗読 2マカバイ12:32-45 死者のためのささげもの
第二朗読 ナジアンズの聖グレゴリオ 弟カイサリオスの死をしのぶ説教

※1 詩編8:5
そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。

※2 1コリント9:22
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

※3 ガラテヤ3:28
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

※4 コロサイ3:11
そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。



ナジアンズの聖グレゴリオ
聖バジリオの友人でもあったナジアンズの聖グレゴリオ。正教会・東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会の聖人(Wikipediaでは、ナジアンゾスのグレゴリオス)。「三位一体の神の歌い手」とも言われています。

女子パウロ会 聖人カレンダー
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ベネディクト十六世の連続講話「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」の第47回で「ナジアンズの聖グレゴリオ」について解説されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message236.htm

第二バチカン公会議 平和建設におけるキリスト者の任務

2013-11-05 00:00:56 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 正当な真の自由の尊重と、すべての人の兄弟愛に基づく国際秩序を建設するために、キリスト者は喜んで心から協力すべきである。世界の大部分が、今もなお過度の貧困に悩んでおり、あたかもキリストご自身が貧しい人々の中にあって大声でその弟子達の愛に訴えているかのようである現在、キリスト者の協力はなおさら必要である。国民の大部分がキリスト者である国々が豊富な富みに満ち足りているのに反して、生活必需品さえ事欠き、飢えと病気とあらゆる悲惨に悩まされている他の国々があるという醜聞を取り除かなければならない。貧しさと愛の精神こそ、キリストの教会の栄光であり、証しだからである。

 したがって、他の人々や他国民を援助するために身をもって奉仕するキリスト者、特に青年を賞賛すべきであり、彼らを助けるべきである。しかし、現代の悲惨を取り除くために、できるかぎり力を尽くすことは、神の民全体の務めであり、しかもその場合、教会の古い伝統に従って、余り物だけではなく自分に必要な物さえも提供すべきである。このように努力するにあたって、司教たちは言葉と模範をもって、皆を励ますべきである。

 援助の募集と配分には、厳格で画一的な方法をとる必要はないが、各司教区内、国内、また全世界において秩序ただしく、しかも適当と思われる場合、兄弟である他のキリスト者の活動とカトリックの活動を合わせて行うべきである。愛の精神は慎重で秩序正しい社会活動や慈善の活動を禁じるものではなく、かえって命ずるものだからである。同じ理由で、開発途上の国々での奉仕に献身しようと志す者は、適当な施設において適切な訓練を受ける必要がある。

 教会は人々の間に強力を奨励し推進するために、どうしても国際社会と関わりを持つ必要がある。この関わりは、教会の公的機関によっても、また、すべての人に奉仕することのみを志すすべてのキリスト者の、全面的で惜しみない努力によっても実現する。


年間第三十一火曜日 読書
第一朗読 1マカバイ記 2:1-50
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』

第二バチカン公会議 人に平和愛好の新しい精神を吹き込まなければならない

2013-11-04 00:00:03 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 平和と軍縮の問題に関しては、自分の考え方を反省せずに少数の人の努力だけに任せてはならない。自国民の共通善を保証すると同時に、全世界の善を促進しなければならない政治家達は、大衆の世論と態度に大いに依存しているからである。敵意、軽蔑、不信、人種間の憎悪、頑固なイデオロギーが人々を分裂させ、対立させている場合、平和のために払われる政治家の努力は実らない。したがって、考え方の再教育と新しい世論の盛り上がりが何より必要である。

 教育、とりわけ青少年の教育に従事する人々や世論を形成する人々は、すべての人に平和愛好の新たらしい精神を吹き込む努力を、自分の最も重大な義務と考えなければならない。私たちは全て心を改め、全世界に目を向け、人類の進歩のために一致して果たすべき任務に注意しなければならない。間違った希望に欺かれてはならない。敵意と憎悪を捨てて、世界平和のための堅固な正しい条約が今結ばれないかぎり、すでに大きな危険にさらされている人類は、その優れた知識にもかかわらず、恐るべき死の平和しか残らないあの不幸な時を迎えるであろう。しかし、キリストの教会は、現代の不安にあずかってこのようなことを言いながらも、強い希望をもつことをためらわない。教会は現代に向かって、何度も繰り返し、祈りが良くても悪くても、使徒パウロの言葉を継げるつもりである。「今や、回心のための恵みの時、今こそ救いの日である。」※1

 平和を建設するためには、何よりもまず戦争の温床となる争いの原因、特に不正を取り除かなければならない。それらの原因の多くは、過度の経済的不平等や必要な対策の遅延に由来する。また、ある原因は死は意欲と人の尊厳の軽視から生じるものであり、さらに深い由来を探求すれば、ねたみ、不信、高慢、その他の我欲にもとづいている。人間はこれほどひどい秩序の乱れに耐えられないので、たとえ戦争が無くても、世の中は絶えず人々の間の争いと暴力によって悩まされている。


年間第三十一月曜日 読書
第一朗読 1マカバイ記 1:41-64
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』

※1 2コリント6:2
なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

第二バチカン公会議 平和の建設

2013-11-03 22:12:37 | 日記
第二バチカン公会議(1962-1965)
『現代世界憲章』
 平和は、ただ戦争がないということによって成り立っているものでもなければ、敵対する力の均衡によってだけ保たれるものでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない。平和はむしろ、「正義が作り出すもの※1」と正しく定義すべきである。平和とは人類社会の創立者である神によって社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を渇望して人々が実現しなければならない秩序の実りである。事実、人類の共通善は、基本的に神の永遠の法によって定められたものであるが、共通善が具体的に要求することがらは、時の経過とともに絶えず変動する。平和はどの時でも、永遠に獲得されたようなものではなく、絶えず建設すべきものである。その上、人間の意志は弱く、罪によって傷つけられているから、平和の獲得のためには各自が絶えず欲望を抑えなければ成らず、また正当な権威者たちによる警戒も必要である。

 しかし、それだけでは十分ではない。地上にこのような平和を実現するためには、個々人の幸せが安全に守られ、人々が精神と才能の宝を、信頼をもって互いに自発的に交流し合わなければならない。他人と他国民、および彼らの尊厳を尊重しようとする確固たる意志、また、すべての人に対する兄弟的な愛の絶え間ない実践は、平和の建設のために絶対に必要である。それゆえ平和は愛の実りでもある。この愛は正義がもたらしうるものを超える。隣人に対する愛から生まれる地上の平和は、父なる神からくるキリストの平和の像であり結果である。受肉した御子は平和の君であり※2、その十字架を通してすべての人を神と和解させ、すべての人を一つの民、一つの体にして再び一致させ、自分の肉体をささげることによって敵意を滅ぼし※3、復活によって高くあげられてから、愛の聖霊を人々の心に注いだ。

 したがって、すべてのキリスト者は、「愛を持って真理を実行しながら※4」平和を祈りもとめ、打ち立てるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。権利を擁護するにあたり、暴力に頼らず、弱い者にも使うことのできる権利擁護手段に頼る人々を、私たちは以上の述べたような精神に基づいて、称賛しないわけにはいかない。ただし、このように暴力に頼らないことが、他人、または共同体の権利と義務を侵害することがあってはならない。


年間第三十一主日 読書
第一朗読 マカバイ記 1:1-24 ギリシャ人の勝利と傲慢
第二朗読 第二バチカン公会議 『現代世界憲章』

※1 イザヤ32:17
正義が造り出すものは平和であり正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。

※2 イザヤ9:5参照
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

※3 エフェソ2:16 コロサイ1:20-22参照
・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。
・あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。
しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

※4 エフェソ4:15
むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。