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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

エルサレムの聖チリロ キリストの花嫁である教会

2013-08-01 00:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
「教話」
 「普遍的」教会とは、私たちの母であり聖なる教会の固有の名前です。この教会は、神のひとり子、私たちの主イエス・キリストの花嫁です。(「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように・・・※1」と聖書に書かれている通りです。)教会はまた、天のエルサレムの姿、その写しです。この天のエルサレムは、「いわば自由な身の女であって、私たちの母です※2」彼女は、以前は不妊の女でしたが、今は多くの子を産みます。

 先の集いが退けられてから、第二の集いである普遍的な教会の中で、神は使徒パウロが言っているように、「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気を癒す賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者をお立てになりました。※3」 また、神はこの教会にあらゆる種類の徳、すなわち知恵と知識、節制と義、憐れみと人間に対する愛、さらに迫害の中でくじけることのない忍耐をお授けになりました。

 この教会は、左右の手に義の武器を持ち、ほめられても、そしられても※4、まず迫害と苦しみの時代に、聖なる殉教者の頭にさまざまな花で編まれた忍耐の冠をかぶせました。そして今、平和が訪れた時代に、教会は神の恵みにより、王達や貴人たち、さらにあらゆる身分の人々からもふさわしい栄誉を受けています。そして、王たちの権限が各国民に住む国土に限られているのに対して、聖なる普遍的教会の権限だけが全世界に及びます。聖書に書かれているように、神が教会の「国境に平和を置いて下さった※5」からです。

 私たちは、この聖なる普遍的教会の中でよく教え導かれて、天の国を得、永遠のいのちを継ぐようになります。主が私たちにそれを授けて下さるよう、私たちは全てを堪え忍びます。私たちの目標は取るに足りないものではなく、追い求めているのは永遠の命なのです。ですから、信仰宣言は「肉身のよみがえり」、つまり死者のよみがえりを信じるようにと教え、続いて「永遠のいのち」を信じるようにと教えています。この永遠の命を得るために、キリスト者は戦っているのです。

 真実でまことの命は、御父です。この御父は、御子によって、聖霊のうちに、天の賜を皆、泉からのように被造物の上に注いでくださいます。その人間に対する愛によって、御父は私たち人間にも永遠の命を与えることをまさに約束されたのです。※6


年間第十七木曜日 読書
第一朗読 2コリント11:7~29 偽の使徒に対抗する
第二朗読 エルサレムの聖チリロ司教 教話

※1 エフェソ5:25
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。

※2 ガラテヤ4:26
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。

※3 1コリント12:28
神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。

※4 2コリント6:7~8
真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。

※5 詩篇147:14
あなたの国境に平和を置き あなたを最良の麦に飽かせてくださる。

※6 マタイ19:29
わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。


エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

ベネディクト十六世が、連続講話で「エルサレムのチリロ」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message224.htm


エルサレムの聖チリロ 神の民の集いである教会

2013-07-31 00:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
「教話」
 教会は「普遍的教会」と呼ばれています。それは、教会が世界中に、地の果てから果てにまであるからです。また、教会は見えるものと見えないもの、天のものと地のものとについて、人類が知る必要のあるすべての教義を、欠けることなくすべての人に教えるからでもあります。さらに、教会が「普遍的」と呼ばれるのは、国の君主をも、国民をも、学者をも、無学な人をも、つまり全人類を神に向かわせるからでもあります。また、心身が犯したあらゆる種類の罪の手当をしていやすことからも、教会は「普遍的」と呼ばれます。この教会は、行為と言葉に関するあらゆる種類の得や、あらゆる霊的賜物を自分の内に持っているのです。

 「招集された者の集い」を意味するエクレシア(教会)という名は、大変ふさわしい名前です。教会がすべての人を招集し、一つに集めるからです。神はレビ記の中で、「共同体全員を臨在の幕屋の入口に招集しなさい※1」と言っておられます。「招集する」とう言葉が聖書の中で用いられたのは、これが初めてであることに注目しましょう。そのとき、神はアロンを大祭司とされたのでした。また、申命記では、神はモーセに仰せになりまする「民を私の元に招集しなさい。私の言葉を彼らに聞かせ、私を畏れる事を学ぶようにしよう。※2」さらに、律法の石の板について話されるときにも、集会のことが出て来ます。「その上には、集会の日に主が山で火の中から、あなたたちに告げられた言葉がすべてそのまま書かれていた※3」もっとはっきり言えば、「主によって招集されたあなたがたが集まった日に」ということです。詩編作者も、「主よ、優れた会衆の中であなたをたたえ、偉大な民の中であなたを賛美します※4」と言っています。

 詩編作者はその先の詩編で、「集会の中で主なる神をたたえよ、イスラエルの源からの主を※5」とかつて歌いました。ところで、救い主は異邦の民から集められた第二の集いを建てました。それが私たちの聖なる教会、キリスト者の教会です。救い主はこの教会についてペトロに仰せになりました。「私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない※6。」


年間第十七水曜日 読書
※1 レビ8:3
また共同体全員を臨在の幕屋の入り口に召集しなさい。

※2 申命記 4:10
あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。「民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう。」

※3 申命記 9:10
主は、神の指で記された二枚の石の板をわたしにお授けになった。その上には、集会の日に、主が山で火の中からあなたたちに告げられた言葉がすべてそのとおりに記されていた。

※4 詩編35:18
優れた会衆の中であなたに感謝をささげ偉大な民の中であなたを賛美できますように

※5 詩編68:27
聖歌隊によって神をたたえよイスラエルの源からの主を。

※6 マタイ16:18
わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

ベネディクト十六世が、連続講話で「エルサレムのチリロ」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message224.htm

エルサレムの聖チリロ 恵みのときに罪を告白しなさい

2013-07-06 09:58:01 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
教話
 今ここに罪の奴隷となっている者がいれば、その人は自由な人間、神の子とする新しい誕生に向かった、信仰によって準備すべきです。みじめな罪の奴隷の状態を捨て、主の幸いなしもべの身分を獲得し、天の国を受け継ぐにふさわしい者となるべきです。欲情に惑わされる滅びに向かう古い人を、告白によって脱ぎ捨てなさい。造り主の姿にならう新しい人を身に着けるためです※1。信仰によって保証として聖霊を受けなさい※2。永遠の住まいに迎え入れてもらうためです※3。神秘的な証印を受ける※4ように近づきなさい。主によってよく知られた者として認められるためです。キリストの分別ある聖なる羊の群れに加わりなさい。いつか、他の者と分けられてキリストの右に置かれ、あなたたちのために用意されているいのちを受け継ぐ者となるためです※5。

 事実、汚れた毛のように罪が身についている者は、そのとき主の左に置かれるでしょう※6。その人たちが、再生の洗い※7によってキリストから与えられる神の恵みに近づかなかったからです。私が言うのは、体が生まれ変わることではなく、魂の霊的な再生のことです。体は目に見える両親から生まれますが、魂は信仰によって再び生まれます。「霊が思いのままに吹く※8」からです。そのとき、あなたがふさわしい者となっているなら、すなわち偽善の汚れでとがめられるところが良心にないなら、「忠実な良い僕(しもべ)だ。よくやった※9」という主の言葉を聞くでしょう。

 ここにいる者の中で、だれかが恵みを欺くことができると考えるなら、その人は間違っており、神の力を知らないのです。人よ、あなたは心とはらわたを調べる方※10のことを考えて、偽善のない心を持ちなさい。

 今は告白すべき時です。言葉や行いによって、夜、あるいは昼間に犯した罪を告白しなさい。恵みのときに罪を告白し、救いの日に天の宝を受けなさい※11。

 豊かに恵みを受けることができるように、あなたの器を清めなさい。確かに罪のゆるしは皆に等しく与えられます。しかし、聖霊による交わりは、それぞれの人に、その人の信仰に応じて授けられるのです※12。あなたがわずかしか努力しないなら、受けるものもわずかでしょう。しかし、大いに努力するなら、与えられる報いも大きいのです。あなたが走るのは、あなたのためになります。自分の利益になることを考えなさい。

 誰かに対して反感を抱いているなら、その人をゆるしなさい。あなたは罪のゆるしを受けるために洗礼盤に近づくのです。だから、あなた自身も罪を犯した人をゆるさなければなりません※13。


年間第十三土曜日
第一朗読 サムエル下11:1-27
第二朗読 エルサレムの聖チリロ司教の教話
※1 エフェソ4:22-24
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

※2 2コリント5:5
わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。

※3 ルカ16:9
そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

※4 エフェソ1:13
あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

※5 マタイ25:34
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

※6 マタイ25:33
羊を右に、山羊を左に置く。

※7 テトス3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

※8 ヨハネ3:8
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

※9 マタイ25:21
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

※10 詩篇7:10
あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方/神は正しくいます。

※11 2コリント6:2
なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

※12 ローマ12:3
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

※13 マタイ6:14-15
「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

ベネディクト十六世が、連続講話で「エルサレムのチリロ」について解説しました。
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エルサレムの聖チリロ 生きた水である聖霊

2013-05-13 00:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315~386年) エルサレムの司教、教会博士
教話
 「私が与える水はその人のうちで泉となり、永遠のいのちに至る生きた水が湧き出る。※1」それは新しい生きた水であり、湧き出る水です。しかも、その水を受けるに相応しい人々のために湧き出る水です。主はなぜ聖霊の恵みを、「水」と呼ばれたのでしょうか。それは、水が万物の根底であるからです。水は草木を生えさせ、いのちを与え、空から雨となって下り、雨というただ一つの姿で下っても様々な姿で働きます。水は、やしの木とぶどうの木の中に別々の姿となります。水は、すべてのものの中にすべてとなります。それでも、そのものの姿は一つであって、それ自体の姿は変わりません。ここに降っても、あそこに降っても、雨の姿は変わりません。しかし、雨を受けるもののありさまに自分を合わせ、それぞれのものに適したものを生じさせます。

 これと同様に、聖霊もそれ自体唯一で、その姿はいつも同じで分かたれないものでありながら、望みのままに様々な賜物を一人ひとりに分け与えられるのです※2。 枯れたような木は、水を注がれると芽を出します。同様に、罪深い魂が悔い改めて聖霊を受けることができるようになると、義の実を結びます。いつも同じ姿である聖霊は、神の命令により、キリストの名において数多くの徳を育てます。

 すなわち、聖性は知恵を語るためにある人の口を用い、ある人の魂を預言を述べるように照らし、ある人に悪魔を追い出す力を与え、ある人には聖書を解釈する能力を与えます。また、ある人の節制を強め、ある人には施しの仕方を教え、またある人には断食と禁欲を教えます。また、ある人に肉体の利害を軽視することを教え、ある人に殉教する心構えを与えます。つまり聖霊は様々な人のうちで違っていながら、自らは別々のものではありません。「一人ひとりに霊の働きが現れるのは、その利益となるためです※3」と聖書に書かれているとおりです。

 聖霊は静かに私たちの中に入って来ます。芳しく感じ取られます。その軛は非常に負いやすいものです※4。聖霊の到来を告げて先に来るのは、光りと知識の光線です。聖霊は真実の保護者としてのいつくしみを持っています。事実、聖霊は、救い、いやし、教え、勧告し、強め、慰め、治世を照らしに来ます。まず聖霊を受け取る本人の中でこれらの働きをし、次いで、聖霊を受けたその人を通して他の人々の中で同じ働きをします。

 そして、以前は闇の中にいた人が突然、太陽を見て目に光を受け、それまで見えなかったものをはっきりと見るようになるのと同様に、聖霊を与えられた人の魂は照らされ、彼はそれまで知らなかったものを、人間の力を超えた方法で見るようになります。



復活節第七月曜日 読書
第一朗読 1ヨハネ4:1-10
第二朗読 エルサレムの聖チリロ司教の教話

※1 ヨハネ4:13-14
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

※2 1コリント12:11
これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

※3:1コリント12:7
一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

※4 マタイ11:30
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

ベネディクト十六世が、連続講話で「エルサレムのチリロ」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message224.htm

エルサレムの聖チリロ 十字架を喜びとしなさい

2013-02-07 00:00:00 | エルサレムの聖チリロ
エルサレムの聖チリロ(315-386) エルサレムの司教
教話
キリストのすべての行為を普遍の教会は誇りとしますが、何よりも誇りとしているのは十字架です。パウロはこのことをよく知っていて、「わたしには、キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません※1」と言っています。

確かにシロアムの池で生まれつきの盲人が視力を回復させられたことは驚くべきことでした※2。しかし、世界中の盲人の数と比べると、それはわずかな助けにすぎなかったのです。また、ラザロが四日経って復活したことも偉大なことであり※3。、自然の力を超えたことです。しかし、この恵みは彼一人だけに与えられたものです。しかもそれは、罪の故に死んだも同然の状態にあった世界中の人々の数と比べると、わずかなことです。五つのパンが泉のようになって、五千人のための食事となったことも驚くべき事です※4。しかし、これは無知という飢えに苦しんでいる世界中の人々の数と比べると、取るに足りないことです。十八年もの間サタンに縛られていた女性を、束縛から解放したことも驚くべき事でした※5。しかし、罪の絆によって縛られている私たち皆と比べると、それは小さな事です。

だから、十字架の勝利は、無知が盲目にしてしまった人々を照らし、罪にとらわれていたすべての人々を解放し、全世界を贖ったのです。

したがって、私たちは救い主の十字架を恥じてはなりません。むしろ、それを誇りとしましょう。十字架の言葉は、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが※6、私たちには救いです。それは滅んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる私たちにとっては神の力です※7。事実、私たちのために死なれたのは、ただの人間ではなく、神の子、人となられた神なのです。

・・・

平和なときにだけ十字架を喜んではなりません。迫害の時にも同じ信仰を保ちなさい。平和の時にイエスの友でありながら、戦いの時にその敵となってはなりません。今あなたは罪のゆるしを受け、王である方が豊かに与えて下さる賜物を受けています。戦いが始まるとき、あなたの王のために勇敢に戦いなさい。



年間第四木曜日
第一朗読 2テサロニケ 1:1-12
第二朗読 聖チリロ 教話

聖チリロは紀元315年に生まれましたが、奇しくもローマ帝国における十字架刑が廃止された年にあたります。聖チリロの十字架についての教話です。

※1 ガラテヤ6:14
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

※2 ヨハネ9:1-12参照
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

※3 ヨハネ11:39-44参照
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

※4 マタイ14:13-21参照
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。
すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。
食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

※5 ルカ13:11-13参照
そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

※6 1コリント1:23参照
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、

※7 1コリント1:18参照
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。



エルサレムの聖チリロ
315年にキリスト者の両親の間に生まれ、348年 マクシモの後任としてエルサレム教会の司教となる。アレイオス派との論争に参加し、アレイオス派を指示する皇帝によって何度か追放された。正しい教義、聖書、そして伝統的な信仰について説くその説教は、司牧者としての熱意を物語っている。(Wikipediaではエルサレムのキュリロス)

女子パウロ会 聖人カレンダー 聖チリロ(エルサレム)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031801

ベネディクト十六世が、連続講話で「エルサレムのチリロ」について解説しました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message224.htm