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毎日の読書 「教会の祈り」

私たちはキリストの体の一部 「聖務日課(読書)」より

聖アンプロジオ み顔の光は私たちの中にしるされている

2012-07-26 00:00:52 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年)ミラノの司教
『詩篇解説』
「なぜ、み顔を背けられるのですか。※1」 自分が苦悩の中にいて、心が闇に覆われ、目がふさがれ、真理の輝きを見ることが出ないとき、私たちは神が顔を背けられたと思っている。事実、神が私たちの理性に目を向け、私たちの精神を訪れてくださるならば、何事も私たちを闇で覆うことはできないと確信している。人間の顔は体の他の部分よりも輝いており、私たちが誰かを注視するとき、私たちの視線を逃れることができないその人は、知っている人か知らない人かを見分ける。まして神の顔は、神が見ておられる人を照らすのである。

使徒パウロの言葉はすべて優れているが、この問題についてもみごとな事を言っている。彼はキリストのことをよく説明する人であり、そのキリストをできるだけふさわしい言葉で私たちに理解させようとしている。彼は言う。「『闇から光が輝き出よ』とお命じになった神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました。※2」 こうして、私たちの中のどこにキリストが輝いておられるのかを、私たちは聞いたのである。キリストは人々の心の永遠の輝きである。父がキリストを地上に遣わされたのは、以前は地上の闇に覆われていた私たちが、天上の永遠のことがらを眺めることができるように、その顔によって私たちを照らすためであった。

使徒ペトロが、生まれながら足の不自由な人に、「私たちを見なさい※3」と言い、その人がペトロを注視して信仰の恵みによって照らされたのだから、キリストについて何を語ればよいのであろうか。確かに、あの人は心から信じなかったとしたら、癒されることもなかったであろう。

・・・

「なぜ、み顔を背けられるのですか」と歌われているが、主よ、たとえあなたが私たちから顔を背けても、「主よ、み顔の光は私たちの中にしるされている。※5」 私たちはその光を心の中に保ち、光は心の深みに輝いている。あなたが顔を背けるならば、だれも存在し続けることはできないからである。


年間第十六木曜日
第一朗読 2コリント4:5-18 使徒の弱さと強さ
第二朗読 聖アンプロジオ 『詩篇解説』

※1 詩編44:25
なぜ、御顔を隠しておられるのですか。我らが貧しく、虐げられていることを忘れてしまわれたのですか。

※2 2コリント4:6
「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

※3 使徒言行録 3:4
ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

※5 詩編4:7
恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
http://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=120701
ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm

聖アンブロジオ キリストの言葉によって実現される

2012-07-21 00:00:02 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
[エリシャが行った奇跡※1から]わかるように、恵みは自然よりも強力です。しかも、それはまだ預言者による祝福の恵みにすぎなかったのです。それでは、もし人間である預言者による祝福が自然の働きを変えるほどの力をもっていたならば、救い主の言葉そのものが働くところの神による祝福については、何と言ったらよいでしょうか。実に、あなたが受けるこの秘跡は、キリストのことばによって実現されるのです。エリヤの言葉が天から火を降らせるほど大きな力であったのに、キリストの言葉は物体を別の者に変えることができないのでしょうか。天地万物については、「主が仰せになると、そのようになり、主が命じられると、そのように創造された※2」と書かれています。そこで、存在しなかったものを無から作り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしようか。ものの本性を変化させるよりは、ものに存在を与える方がやさしいわけではないのです。

ところで、論証よりも実例をあげて、受肉の諸秘義によって[聖体の]秘義の真実性を証明しましょう。主イエスがマリアから生まれたとき、自然の段取りが先行したのでしょうか。自然の秩序によるならば、女は男と結ばれた後に子を産むのが常です。ですから、処女が子を産んだことは明らかに自然の秩序とは異なります。私たちが実現させるものは、まさに処女マリアから生まれたからだです。主イエスご自身が自然の秩序とは異なる方法で処女からお生まれになったのに、聖体に関しては、なぜキリストのからだのうちに自然の秩序を見いだそうとするのですか。十字架につけられ、葬られたのは真にキリストの肉です。したがって[この聖体の秘跡は]真にキリストの肉の秘跡なのです。

主イエスご自身が、「これは私の体である※3」と宣言されます。天的なことばによる祝福以前には、人はそれを別の名で呼びますが、聖別の後にはからだと呼びます。また、主ご自身が、ご自分の血であると言われます。聖別の前に、人はそれを別の名で呼びますが、聖別の後には血と呼びます。そしてあなたは、「アーメン」、すなわち「そうです」と言います。口が言うことを精神が認めますように。言葉が表すことを心が受け取りますように。



年間第十五土曜日
第一朗読 列王記下 2:1-15 エリヤ、天に上げられる
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』

エウカリスチア=聖体の秘跡は今日の典礼学者によれば、「キリストの言葉と聖霊」によって実現すると考えられています。聖霊か、キリストの言葉かという問題は四世紀ころから議論があったとのことです。東方教会は、「聖霊」によって、西方教会は「キリストのことば」によってという信仰が強いと思いますが、西方教会の聖アンプロジオのこの『秘義についての講話』にも、その傾向が見られます。東西教会のどちらかに一方が真理であるというのではなく、双方が正しいのでしょう。

※1 列王記下 6:5-6
そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、「ああ、御主人よ、あれは借り物なのです」と叫んだ。
神の人は、「どこに落ちたのか」と尋ね、その場所が示されると、枝を切り取ってそこに投げた。すると鉄の斧が浮き上がった。

※2 詩篇33:9
主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ。

※3 マルコ 14:22
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
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聖アンプロジオ 受洗者に対する聖体の秘義の説明

2012-07-20 00:00:05 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
このように洗われ、霊の豊かな賜物で飾られた民は、「神の祭壇に私は近づき、私の若さを喜ばせる神のもとに行きましょう※1」と言いながら、キリストの祭壇に近づきます。その民は古い過ちを脱皮し、鷲のように若さを取り戻して※2、あの天の宴に急いで駆けつけます。そして、来て、綺麗に準備された聖なる祭壇を見て、「あなたは私の目の前に食卓を整えてくださる。※3」と叫びます。ダビデはこの民に次のように言わせます。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導いてくださった※4。」さらに続けて、「死の陰の中を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私とともにいてください。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。私を苦しめる者を前にしても、あなたは私の目の前に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ、人を酔わせるあなたの杯はなんとすばらしい。※5」

神が先祖たちにマナを降らして、日ごとに天の糧で養われた事は感嘆すべき事です。それで、「人は天使たちのパンを食べた※6」と聖書に言われています。しかし、そのパンを食べた人々は皆、砂漠で死にました※7。ところが、あなたが受ける食べ物、すなわち、「天から降ってきた生きたパン※8」は永遠のいのちの支えであり、それを食べる人は「永遠に死なない※9」のです。それはキリストの体であるからです。

さて、天使達のパンと、いのちを与えるからだであるキリストの肉とでは、どちらがより優れているか、考えてみなさい。あのマナは天から降りましたが、キリストの体は天を超えるものです。前者は天のものですが、後者は天の主のものです。前者は翌日まで保存すると腐敗しましたが、後者は全く腐敗することがなく、敬虔にいただく者はだれでも腐敗を免れます。イスラエル人のためには岩から水が流れ出ましたが、あなたのためにはキリストから血が流れ出ます。水はイスラエル人の渇きを一時的にいやしましたが、血はあなたを永遠に洗います。ユダヤ人は飲んでからまた渇きを覚えましたが、あなたは飲めばもはや渇くことがありません。あれは影であったのですが、これは真理です。

・・・

あなたはより貴重なものが何であるかを理解したでしょう。光は影に、真理は前例に、創造主のからだは天からのマナにまさるのです。


年間第十五金曜日
第一朗読 歴代誌下 20:1-24
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』

※1 詩篇 43:4
神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。

※2 詩篇 103:5
長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。

※3 詩篇 23:5
わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎわたしの杯を溢れさせてくださる。

※4 詩篇 23:1-2
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

※5 詩篇 23:4-5
死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖それが私を力づける。
私を苦しめる者を前にしてもあなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ私の杯を溢れさせてくださる。

※6 詩篇 78:25
人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた。

※7 民数記 14:16
主は、与えると誓われた土地にこの民を連れて行くことができないので、荒れ野で彼らを殺したのだ、と。

※8 ヨハネ6:50
しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。

※9 ヨハネ6:51
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)
聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
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聖アンプロジオ 洗礼後の儀式についての教話

2012-07-19 00:00:13 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
水から上がってから、あなたは祭司の前に来ました。続いて行われたことを考えてご覧なさい。それはダビデが、「油が頭に注がれ、ひげに滴り、アロンのひげに滴ったように」※1 と言っていることではありませんか。それはソロモンが、「流れる香油のようにあなたの名は芳しい。そのため、乙女たちはあなたを愛し、誘いました」※2 と言った油です。主イエスよ、どれほど多くの新しくされた魂が、今日あなたを愛して言ったことでしょう。「お誘いください、私たちを。あなたの衣の香りの後を急ぎます。」※3 それは主の復活の香りをかぐためです。

なぜ塗油が行われるのですか。「賢者の目はその頭に」※4 にあるからです。それで油はひげに滴ります。ひげは若者の飾りです。また、油がアロンのひげに滴るのは、あなたが「選ばれた民」、祭司的で尊い民になるためです。実に、私たちは皆、神の国と司祭団に加えられるために、霊的恵みによって塗油されます。

それが済んでから、あなたは白衣を受けました。それは罪の覆いを脱ぎ捨て、潔白の清い衣を着ることのしるしです。そのことについて、預言者は次のように言っています。「ヒソプで水を振りかけてください。私が清くなるように。私を洗って下さい。行きよりも白くなるように。※6」事実、洗礼を受ける人は、律法に従っても、福音に従っても、清められた者です。律法に従ってと言うのは、モーセは一束のヒソプで小羊の血をふりかけたからである※7、福音に従ってと言うのは、キリストが復活の栄光を表されたとき、その吹くが雪よりも白くなります。「たとえ、お前達の罪が緋のようでも、雪のように白くしよう※9」

「新しく生まれさせる洗いを通して※10」この衣を身につけた教会は、雅歌の言葉で言います。「エルサレムの乙女たちよ、私は黒いけれども愛らしい※11。」教会は人間の本性の弱さゆえに黒いけれども、恵みの故に愛らしい。罪人たちが集まったゆえに教会は黒いけれども、信仰の秘跡のゆえに愛らしい。エルサレムのおとめたちはこの衣を見て驚き、「白くされて上がってくるおとめは誰か※12」と言います。黒かった彼女がどうして突然白くなったのでしょうか。



年間第十五木曜日
第一朗読 列王記上 22:1-38
第二朗読 聖アンプロジオ 『秘義についての講話』

※1 詩篇133:2
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のようにシオンの山々に滴り落ちる。

※2 雅歌 1:3
あなたの香油、流れるその香油のようにあなたの名はかぐわしい。おとめたちはあなたを慕っています。
※3 雅歌 1:3

※4 コヘレト2:14
賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。

※5 1ペトロ2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

※6 詩篇 51:9
ヒソプの枝で私の罪を払ってください私が清くなるように。私を洗ってください雪よりも白くなるように。

※7 出エジプト 12:22
そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。

※8 マタイ17:2
イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

※9 イザヤ1:18
論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。

※10 テトス3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

※11 雅歌1:5
エルサレムのおとめたちよ私は黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。

※12 雅歌 8:5
荒れ野から上って来るおとめは誰か恋人の腕に寄りかかって。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

聖アンブロジオ(女子パウロ会の聖人カレンダーへ)
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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm

聖アンブロジオ 水は聖霊なくしては人を癒すことは出来ない

2012-07-18 00:00:20 | 聖アンブロジオ
聖アンブロジオ(340~397年) ミラノの司教
『秘義についての講話』
目で見たことだけを信じることのないように、と前にあなたに言っておいたのは、あなたが次のように言わないためです。「このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった※1』あの大いなる秘義なのか。ここで見ている水は、毎日よく見ている水と同じだ。私はたびたびそのような水につかったけれども、決して癒されはしなかった。この水が私を癒すことができるのだろうか。」前の話から、水は霊なくしては人を癒すことはできないことを学びなさい。

このことを知るために、洗礼において証しするのは三者で、水と血と霊であり※2、「この三者は一致している※3」ことをあなたは読みました。この三者のうち一つでも取り除くならば、洗礼の秘跡は成立しないのです。事実、キリストの十字架なしに、水は秘跡のために何の訳にも立たない普通の液体に過ぎません。他方、水無にも新たな誕生の秘義は成立しません。「だれでも水と霊とによって新たに生まれなければ、神の国に入ることは出来ない※4」からです。洗礼志願者も、主イエスの十字架を信じ、十字架のしるしをつけられます。しかし、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けなければ、罪のゆるしを受けることも霊的恵みの賜物をくみ取ることもできません。

あのシリア人[ナアマン]は律法のもとで七度水につかりましたが※5、あなたは三位の名によって洗礼を受けました。自分がしたことを思い出しなさい。あなたは父を宣言しました。子を宣言しました。聖霊を宣言しました。ものごとの順序を理解しなさい。この信仰において、あなたは世に対して死に、神に復活しました。そして、あたかも世の元素の一つ、すなわち、水の中に葬られて罪に対して死に、永遠の命に復活しました。ですから、水から力のないものではないことを信じなさい。

・・・

人間の功績ではなく、祭司の役目を考えなさい。もし功績を考慮したければ、エリヤのそれを評価するように、ペトロやパウロの功績のことを考えなさい。彼らは主イエスからこの秘義をいただいて、私たちに伝えました。昔のイスラエル人たちには、信じるようにと目に見える火が送られましたが、信じている私たちには見えない火が働きかけています。彼らにとってはそれは前例であったのですが、私たちにとってそれは忠告になります。ですから、祭司たちの祈りによって呼び求められれば、主イエスがそこにおられることを信じなさい。主イエスは、「二人または三人がいるところには、わたしもその中にいる※13」と言われました。まして教会の集まりがあるところ、秘義があるところには、必ず主がおられるはずです。

さて、あなたは水の中に下ったのです。あなたは何と答えたかを思い出しなさい。父を信じる、子を信じる、聖霊を信じると答えました。あなたは、より大きな方と小さい方と最後の方を信じるといったのではなく、あなたが述べた同様の言葉によって、父を信じるのと等しく子を信じ、子を信じるのと等しく聖霊を信じることを義務づけられました。父と子と聖霊を等しく信じることに関して特別なことは、ただ十字架にかけられたのは主イエスだけであることを信じると、あなたが宣言したことです。



年間第十五水曜日
第一朗読 列王記上 21:1-29
第二朗読 聖アンブロジオ 『秘義についての講話』

※1 1コリント2:9
しかし、このことは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。

※2 1ヨハネ5:7-8
証しするのは三者で、 “霊”と水と血です。

※3 1ヨハネ5:8
この三者は一致しています。

※4 ヨハネ3:5
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

※5 列王記下 5:14
ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

※13 マタイ18:20
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。



聖アンブロジオ
340年頃、ドイツのトリールでローマ人の家庭に生まれる。ローマで勉学に励み、シルミウムで執政官になる。374年にミラノ在住の折、突然同市の司教に選出される。12/7に司教叙階を受けた。司教の職務を誠実に果たし、すべての人に大きないつくしみを示し、信者たちを見事に指導し、教えた。また、教会の権利を皇帝に対して力強く擁護し、アレイオス派に対して著作と行動で正統信仰を守った。397年の聖土曜日にあたる4月4日に死去。
正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会の聖人(聖アンブロジウス、聖アムブロシイ)

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ベネディクト十六世の「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話でアンブロジオについて話されました。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message256.htm