第一次防衛線は突破したものの、第二次防衛線は20キロほど先の山の中腹にあった。
それを攻撃するためにはジャングルの山道を登っていかんとあかんかった。
しかも、昼間は敵の目につきやすいので、行動はすべて夜間あった。
尻の上のバンドに白い手拭いをぶらさげて、それを目印にして、はぐれんように闇の中を行軍した。
ほんでもって、適当な場所を見つけてジャングルの中で寝たんや。
キキッ、ギャーギャーと、名前も知らん鳥の鳴き声で目が覚めた。
眠たい目をこすりながら山の中腹を見てびっくりしたがな!
山の上から白旗をかかげたアメリカ兵が、蟻の行列のように降りてくるやないかい。
一人、二人・・・十人、二十人・・・百人、二百人・・・、千人、二千人・・・?!
小便ちびるほどびっくりした!
わしら日本兵を見つけると「グモーニン」やら言うて、ニコニコ笑いながらチョコレートやらキャラメルやらをくれよった。
こいつら死んでも戦い抜こうという気持ちがないんかいなと唖然としたわ!
せやけど、放っとくわけにはいかんというので、二百人ほどのところで区切って、日本兵が一人ついて、後方本部へ送り届けることになったんや。
武器は持っていないとはいえ、一人で二百人のアメリカ兵を連れていくんや。
わしら日本兵あったら、ドットかかっていって押し倒して殺してしまうやろう・・・そない想像したら、炭小屋で四十七士に取り囲まれた吉良上野介のような心地あった。
広報本部へ送り届けてほっとしたのもつかの間、すぐに来た道を戻った。
しかし、途中で集中砲火が始まって、第二次防衛線は陥落した。
一週間後には、米比軍最大の陣地マリベレス山の頂上に日の丸が立てられて、万歳の声が響きわたった。
ところが、さっき言うた大問題が起きたんや!
降伏して捕虜となったアメリカ・フィリピン人の数が7万6千人もいたんや。
日本兵ですらろくなもん食べてないのに、こんな大勢の捕虜に食べさす食糧はないがな!
収容施設もないし、移動させるトラックもない。
とにかく、捕虜を食糧補給の可能なバターン半島の北方にまで、徒歩で三日間かけて連行しようということになった。
バターン半島の最南端から東海岸に沿って北へ、7万6千人の行列が続いた。
降伏前からまともには食べてないうえに、炎天下の中を飲まず食わずに三日間も歩かされた。
心身ともに衰弱していた捕虜が、途中で次々と道端に倒れて、起き上がろうとはせんかった。
最終点まで到達したのは5万3千人ということやが、死者の正確な数はわからん。
これが世にいう「バターン半島死の行進」や!
➆につづく
※『写真週報』(国立公文書館デジタルアーカイブ)