Cool Flame Blog

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安楽死の合法性、賛否両論の次元

2011-08-28 20:26:56 | Thought

不治の病からの解放などを目的として安楽死が合法的に認められる国がある、ということを、つい先日、とあるサイトのコラムで知ったんです。そしてそうした法律に対して賛成している国民が何パーセントなのか、というデータもありました。

いきなりこんな重いテーマをこのブログで書くべきかと悩んだのですが、もっと自分を出してみようと思って、率直に書いてみようと思いました。

いろんな人が、安楽死の是非について論じているんですが。

関心を持たないよりはいいのかもしれませんけどね。

実は私は、ボランティアという考え方が好きではありません。意味が分からないんです、ボランティアって。

それが安楽死とどういう関係があるかというとですね、、、

結局、私たちが今こうしてブログを読んだり書いたりしているこの瞬間にも、恐怖のどん底にいる人、苦しみに耐えている人、死をただただ待っているだけの人っていうのはたくさん存在するんですよね。自分の前に居ないから、とか、自分とは直接関係ないから、ということでほとんどの時間帯にそういうことを考えることは少ないのではないでしょうか。

でも、この瞬間にも、苦しんでいる人がいるわけです。

で、安楽死の是非について論じている本人は、実はあまり苦しんでいない。苦しんでいる本人ではなかったりする。

大切なのは、安楽死の是非を論じるよりも前に、苦しんでいる人が存在するということを日常的に意識して生きていくということだと思うんです。そうやって生きていると、今の自分がそれなりに恵まれているということを理解できて、とにかく明日が無事にやってくることを疑わずにいられることだけでも感謝できる。

自分が生きていられること、死に面する苦しみの渦中にはいないことを、もっともっと感謝できると思うんです。

ところが、周囲の多くの人たちを見ていると、裕福になることやレジャーを楽しむことや他人の持っているものをうらやむことに思いが向いていて、感謝どころがいがみ合い。競争。

なんて悲しいんでしょう。

そして苦しんでいる人を助けに行くということを「ボランティア」と称して、結局は自分の人生の「糧」になるそうした活動を無償の奉仕と勘違いしている。

世の中の多くの「ボランティア」と称するものは、実際には、社会勉強になることばかり。自分が普段、経験しないことを、賃金目的ではなく経験できる。つまりそれって社会勉強。

本当のボランティアって、困っている人を助けることなんでしょうか。

困っている人を助けることって、ボランティアとかの次元じゃなく、当たり前のことではないんでしょうか。

被災地支援のボランティア?

被災した人たちのことも心配ですが、もっと身近にも、助けを必要としている人はいるんじゃないですか?病気の人、虐待を受けている人、悩んでいる人。そういう人を無視しておいて、社会的に取り上げられて注目されている被災者を助けに行くこと「ボランティア」と称して自己満足している人が、実際にはかなりいるように思えるんです。

被災地には行くけど、親族の介護はしない。被災地には行くけど、うつ病やノイローゼの友人・知人には見向きもしない。被災地には行くけど、家族や親族はほったらかし。

結局、ボランティアが自己満足に過ぎないように思えるんです。

安楽死の合法性のニュースも、ボランティアのニュースも、根底に流れている悲しい現実は共通だと思います。

結局、自分が苦しい思いをしないと、他人事。対岸の火事。普段は何も考えていないのに、話題に上ったときだけ考えるとか議論するとか参加するとか。

今この瞬間にも、苦しんでいる人がいる。死の淵にいる人がいる。絶望している人がいる。

それを意識することから始めないと、人間は自己中になっていくのだと思うんです。

そういう私はどうかって?

少なくともここに書いたことぐらいは当たり前のようにやってますよ。被災地には行きませんけどね。だって、もっと近くにも苦しい思いをしていて助けを必要としている人がいて、そっちに時間とお金を使っているんですから。被災地に寄付もしたことがありません。だって、身近の苦しんでいる人にお金を使っていますから。



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