アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第17章 ヨーガ・スートラ 22 真我独存

2012-09-14 06:47:34 | 第17章 ヨーガ・スートラ
愈々スートラの最終段階、真我独存の説明である。これを説明する為には、サーンキャ哲学に立ち帰って、始原において自性がどのように展開してきたのかを説明する必要がある。実は本章②ヨーガとサーンキャ哲学で、既にそれを詳しく説明しているのだが、今回は特に‘覚’(ブッディ)という概念の説明も含め、関連部分を『解説 ヨーガ・スートラ』(以下、同書)から再掲する。


◇◇◇
それでは、真我は何のためにあり、どんな役目をするのか? 真我はいかなる作業もせず、永久不変であるから、心理作用の主体ですらない。真我はただ対象を見るはたらきを持つだけである。いな、見ることは真我の働きというよりも、寧ろ唯真我の在り方に過ぎない。真我は見るという能力だけからなる純粋精神だといってもよい。しかし、真我は自性から世界、万象が展開するのに無関係ではない。自性から世界が展開するには、真我と自性の出会いということが必要であるからである。この出会いにおいて、自性は自分の方から、真我の経験と解脱のために自らを展開するという任務を買って出た形になっている。
このようにして、自性は自分の中から万象を展開するのであるが、この展開のメカニズムは、自性が三つの徳(グナ)からなる合成物であるという点から説明される。三つの徳(グナ)とは、それぞれ違った性格、傾向を持ったエネルギー的な存在である。

(1) 喜徳(サットヴァ)は微細、軽快で、ものを照らし表す傾向をもち、心理的には快の
性格を帯びている。
(2) 憂徳(ラジャス)は活動の傾向を有し、心理的には不安の性格を帯びている。
(3) 闇徳(タマス)は粗荒で、ものをおおいかくす傾向を持ち心理的には鈍重の性格を
帯びている。

これらの傾向、性格の比較によって判るように、三者は互いに相反する関係に立つべきものであるが、しかも背き離れないで、互いに相依り、影響し合って、永遠に結びついてゆく。三つの徳の間のこのダイナミックな結び合いの上に自性は成り立っている。だから、自性には一瞬間も、静止とか不変とかいう状態はない。しかし、この瞬間瞬間の変化が、持続して同じ変化のくりかえしであれば、たとえば、平衡を保って廻っているコマのように、静止、不変の相を呈するであろう。そのように、三つの徳のダイナミックな相互関連が互いに平衡した力で行われていると、自性は静止した観を呈し世界万象の展開は起こらない。この時には自性は未分化の状態にあるから未顕現(アヴィアクタ)と呼ばれる。この未顕現の自性が、真我と出会う時、展開して顕現(ヴィクリティ)となるのは、自性の基礎因子である三徳の相互間における力のバランスが破れるからである。力のバランスが破れた結果、三徳の中のどれかが優勢になって他の徳を制圧する時に、未顕現の状態もまたやぶれる。かくして、世界の開闢がくるのである。世界開闢の初めには喜徳(サットヴァ)がまず優勢を占める。この時自性から展開したのが覚(ブッディ)である。覚は世界原理としては大(マハット)とも呼ばれる。それから憂徳や闇徳が優勢となるにつれて、覚以下の存在が順次に展開する。それらの存在は諦(タットヴァ)と呼ばれる。諦とは形而上学的存在とでもいうべきものである。その展開の順序を図解すると、

 自性→覚(大)→我慢(アハンカーラ)→意(マナス)→十根(インドリヤ)
                   →五唯(タンマートラ)→五大(ブータ)
   (筆者註:同書本分中の図において、我慢は意と五唯に分岐して繋がっている)
◇◇◇

つまり、覚(ブッディ)は、世界の始原に自性が展開した最初の状態であり、通常知性などとも訳されるが、我々が通常考える知性とはかなり異なるようなので、以下、覚或いはブッディとしてそのまま表記する。そしてスートラは、真我独存とはこの覚のサットヴァと真我の清浄さが均しくなった状態だと定義している。同書から、スートラと佐保田鶴治先生の解説を引用する。

「Ⅲ-55 覚のサットヴァと真我との清浄さが均しくなった時、真我独存の境地は現れる。」

「覚のサットヴァの清浄さというのは、ヨーガの三昧によって得た真智によって、覚からラジャスとタマスの性格が拭いさられた結果、煩悩の種子が消え、したがって行(筆者註:サンスカーラを指す)はあっても、心の働きは起こらず、ただ覚と真我の二元性についての弁別智だけが想念として残る。一方の真我は本来清浄であって、ただ、経験の享受者という擬態を帯びていたままである。覚のサットヴァの清浄さと、真我本来の清浄さとが全く相等しい状態になると、覚の本体である心(チッタ)は、その保有する行をそのまま抱いて、根元自性(ムーラ・プラクリティ)の中へ還元的に滅没してしまう。それと同時に、真我はその擬態から解放されて、本来の光明赫々たる無垢の独存者(絶対自主的存在)たる姿を取り戻す。」

「ここで我々は、この経典の作者が何故に、Ⅲ-16以後ながながと種々雑多な超能力を紹介して来たかを考えてみなければならない。作者はその途中で、ハッキリと、これらの霊能は三昧心にとってつまずきの因となりかねないものであることを注意している。ヨーガの目的は決して、霊力や呪力の取得にあるのではないのである。それでは、いままでに列挙せられた、いわゆる悉地(シッディ)なるものはヨーガにとってどんな意味があるのか? 註釈家によれば、これらの悉地は、覚と真我との弁別智をも含めて、全てがサットヴァ浄化のためであった、ということがこの経文で明らかにされたのだという。しかし、私は、この解釈に多少の異論がある。なるほど、多くの悉地(超自然的能力)の中には、確かに覚を浄化し、三昧を成就するのに役立つものもあるけれども、例えば空中を飛行するとか、身体を縮小して岩壁を通過するなどということが覚の浄化にどういう利益をもたらすというのか? 私の考えるところでは、悉地とか自在力とかいわれるものの意味は、ヨーガにおいては、いわゆる綜制の心理操作の錬成の進歩の試金石たるにあると思われる。雑念散動の心境を抑えて、三昧の心境が深まり、対象をより鮮明に、より不動に直観することができるにつれて、対象支配の力が発現する。だから、対象を支配する超自然的な力は、ヨーガ修行の途中における景品であると同時に、その心地がいかに錬成されたかの証拠になる。これによって行者は励まされ、自信を高めるであろう。事実、これ程の三昧力がなければ、解脱の直接原因たる真智を得ることはできないのである。かような考え方はサーンキャ学派や仏教の場合にもあてはまる。サーンキャでは、覚のサットヴァの現象態(法)として法・智慧・離欲・自在の四つを上げている。(一)法はヨーガの禁欲、勧戒、(二)智慧には内外あって、内智はまさしく弁別智、(三)離欲は上下あって、ヨーガの場合と同じく(四)自在は前に述べた八自在である(筆者註:Ⅲ-46、同書ではⅢ-45を指す)。この最後の自在によって、人はこの世界において無碍(何ものにも妨げられない)であることはできるが、解脱は得られない。解脱の正因は内智と呼ばれる弁別智である。仏教でも、禅定の段階の中の一つとして神通(三明六通)が説かれている。このように、インドの諸宗教において、神通や自在力が取り上げられているのは、それが経験的事実として認められていたということに基づいているのではあろうが、同時に禅定、三昧の心境のかなり高度の段階を示すものとかいされていたことを示している。このことは、宗教学上で大きな意味を持っている。それは、インドの宗教は、原則的にいって、霊媒の宗教ではないということである。霊媒的宗教においては、霊媒はただ神霊が憑依する道具に過ぎない。霊媒そのものの能力は問題にならないのである。ところが、インドの宗教では、教祖は覚者(ブッダ)でなければ権化(アヴァターラ)であって、神と人間とに仲介者たる霊媒ではない。キリスト教や回教と、仏教やヨーガとの根本相違はここにあるのである。」

このスートラに対する解説の最終部分(インドの宗教がキリスト教や回教と異なるという点)に就いて、筆者はコメントできないが、それ以前の解説はその通りであると思う。尚、同書においては、解脱に関連する別の説明があるので、引用しておきたい。尚、以下の出だしは前稿と重複する。

「・・・以上のような超自然的な心霊能力が真剣なヨーガ修行者に約束されているが、しかし、これらの心霊的能力は必ずしもヨーガの究極目的たる解脱(モクシャ)に結び付くものではない。これらの超能力の素晴らしさに眩惑されて、それらの力の行使に有頂天になると、折角の三昧は坐節してしまうことになる。だから、スートラⅢ-37には、これらの超能力は雑念に捉われている人間にとっては素晴らしい霊力であるが、三昧の境地に達したヨーガ行者にとっては修行の障害になると説かれている。仏教でこういう超自然的な現象を魔事とか魔境というのと同じ趣向である。解脱を開く最後の鍵は何と言っても離欲の法なのである。」

「しかし、三昧の境地にあって生ずる心霊的能力のなかには、解脱につらなるものもある。サーンキャ・ヨーガの立場からいえば、解脱が実現するための根本条件は真我(プルシャ)と自性(プラクリティ)の絶対的二元性の体認であるところの弁別智である。この智は我々の考える知識や認識とは全く別種のものであって、ことばや概念で表現されたり、構成されたりしたものではない。それは厳しい瞑想修行の結果として出現した三昧の境地において、自己存在の内面から湧き出てくるものなのである。この最後の解脱智が発現するまでの予備段階として、いろいろの超自然的な英智が発現する。スートラはこれらの英智を特殊な名称で区別している。これらの英智の内容とその間の序列については不明確な点もあるが、大体次のような順序に価値づけされている。

(1) リタムバラー・プラジュナー(真理のみを保有する英智) スートラの説明(Ⅰ-49)
  によると、この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理による智ではないと
  説かれる。この説明はこの英智がまさしく直観智の一種であることを語っている。
  インドの認識論では通例認識の方法(量)を現量、比量、聖教量の三種に分けるが、
  表記の英智はここで比量(推理)や聖教量(伝承)の智ではないと定義されているか
  ら、現量と似ていることになる。現量は通例経験的な直観なのである。経験的直観に
  おいて言葉と概念が用をなさないように、三昧境おける主客両観の対立を超えた直観
  においても概念と言葉は役に立たないのである。この英智が事象の特殊性を対象とす
  ることが指摘されていることも、この智が経験的直観に似ていることを推知させる。
  現代哲学の用語を借りれば、「純粋直観」または「知的直観」というべきところである。
(2) ヴァシーカーラ(支配力) 物質世界の極微から極大にわたって知る知性(Ⅰ-40)
(3) ヴィショーカ・シッディ(離憂霊能) 世界の一切の事象を知る英智(Ⅲ-49、Ⅰ-36)
(4) ターラカ・プラティバー(救済者・照明智) すべてのもののすべての在り方を一度
  に知る英智(Ⅲ-49、52、54)
(5) プラサンキャーナ(最高直観智) あらゆる存在の配置の順序、それらの間の差別、
  その本質を知る英智(Ⅳ-29)
(6) ダルマ・メガ・サマーディ(法雲三昧) 前記(5)の最高英智に対してさえ執着の念を
  起こさず、あらゆる形の弁別智を展開した後に発現する三昧であって、この三昧の
  境地においてすべての煩悩と業は滅び去る(Ⅳ-29)。その結果無限の英智が発現して
  知らねばならないことはすべてなくなる。仏教でも菩薩の最高の修習位を法雲地と
  呼んでいる。

ここに到って自性の三徳(筆者註:トリグナ)が転変する目的は完了したので、これまで不断に続けてきた転変に終止符が打たれ、そこに解脱すなわち真我独存(カイヴァリヤ)の状態が実現する。解脱ということばは二重の意味に理解される。一つは三つのグナが転変をやめて世界の根源たる根本自性(ムーラ・プラクリティ)のなかへ没入し去ることであり(自性解脱)、他の一つは真我がそれ自身の本来の在り方に安住すること(真我解脱)である。」

こうして見ると、一口に解脱と言ってもそう簡単なことではないことが良く判る。筆者は現在『大乗起信論』を読んでいるが、この最終的な解脱に到るためには、悟りを開いた後も何度か生まれ変わって(つまり転生を繰り返して)菩薩としての修行を続ける必要があるということである。しかし、ギーターに拠れば、ヨーガの修行者は仮に修行の途中で死ぬようなことがあったとしても、より恵まれた境涯に生まれ変わり、更に高い境地から修行を開始することができるとされているので、必ずしも今生での解脱に執着することは無い、というよりも、執着してはいけないのであろう(離欲と無執着)。

以上22回にわたってスートラの概要を説明してきたので、取敢えずここで本章は終了とし、次章ではギーターやスートラ等ヒンズーの聖典と、仏教の経典や聖書との比較を行うと共に、これまでに展開してきた筆者の理論を更に掘り下げてみたい。

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