アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第18章 真理 ①仏教の中のヨーガ

2012-09-21 06:11:15 | 第18章 真理
世の中には多くの宗教があるが、本来真理は一つであるべきであり、筆者はそのように信じている。本ブログでも第12章万教帰一はそのことをテーマとして書き進めた物であるし、第13章世界宗教で取り上げたインドの偉大な聖人、ラーマクリシュナも、全ての宗教の教え、方法を通じて神人合一の境地に到ることが出来ること、即ち全ての宗教の真髄は同一であることを、身を以って証明した人物である。そして筆者が信じる通りであれば、夫々の宗教の教え(法)を言葉で現わした聖典、即ち聖書、仏典、ギーター等に語られている内容も、基本に於いては同じ趣旨の筈である。本章(最終章になると思う)では、改めてそうした諸聖典が述べている内容を比較するとともに、真理とは何かという究極のテーマに迫りたい。

① 仏教の中のヨーガ

筆者が第15章「心と意識」を書き始めた当時、正直なところ未だ『唯識』という言葉は余り深く理解していなかった。無論『唯物論』に対する処の『唯心論』があるということは認識していたし、鶴田佐保治先生の『解説 ヨーガ・スートラ』に阿頼耶識とか、宇宙根本心といった言葉がでてくることに気付いてはいたが、それとて深く掘り下げて見ることはなかった。しかし、第15章①で主張したように、「心が世界を作っている」という以上は、それをもう少し学問的に説明する必要があるのではないかと思っていたところ、横山紘一氏(以下、著者)による『やさしい唯識』という本を偶々見つけた。早速購入して読んで見たところ、心(識)の働きが詳細に説明されているのみならず、日本の仏教の中にも「唯識瑜伽行派」という宗派があることを初めて知って驚いた。先ずは同派が誕生した経緯を同書から引用する。

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このような(筆者註:衆生の救済という仏教本来の目的を忘れ、自分ひとりの解脱を目指す自利行のみに専念する部派仏教を指す)仏教界への反動として、紀元前後に、自己の解脱より他者の救済を目的とする釈尊への復帰運動が起こりました。これが大乗仏教です。大乗仏教ではまず『般若経』に基づく「空思想」が、続いて『解深密教』などに基づく「唯識思想」が起こりました。宗派名でいえば、前者が「中観派」、後者が「瑜伽行派」です(バラモン教にヨーガ行派があるため、それと区別するのに唯識瑜伽行派という場合がありますが、ここでは判り易く「唯識派」と呼ぶことにします)。

ところで、あらゆる存在は心の現れにすぎないという、いわば唯心論的な思想がインドの仏教史上においてなぜ生じたのでしょうか。それは結論から言えば、空を強調するあまり、ともすれば虚無主義に陥る可能性のある般若の空思想を是正するために、特に瑜伽すなわちヨーガをこのんで実践した人々によって、まずは少なくとも心はあると認める思想が打ち立てられたのです。般若の空思想の空も決して虚無の無ではなく、非有非無とでもいうべき存在の究極の真理を目指す思想であり、この意味で唯識思想と全く同じ立場です。
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次に、唯識派の説く「八つの識」に就いて、説明している部分を引用する。

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心の中に「感覚」と「思い」と「言葉」とによって種々の映像が織りなされるといいましたが、これを唯識思想が説く八種の識との関係でもう少し詳しく考えてみます。八識とは、<眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、未那識、阿頼耶識>の八つをいいます。このうち眼識から意識までの六識は、部派仏教さらには大乗の般若の空思想までに説かれたものですが、唯識派はヨーガという実践を通して真相に働く二つの心、未那識と阿頼耶識とを発見し、全部で八つの識を立てるに至りました。
(1) 五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)
(2) 意識 (イ)五識と共に働いて感覚を明瞭にする、(ロ)言葉を用いて概念的に思考する
(3) 未那識 深層に働く自我執着心。表層の心が常にエゴで汚れている原因となる
(4) 阿頼耶識 一切を生み出す可能力を有した根本の心。

例えばここで、心の中に「憎い人」という映像が出来上がるまでの過程を、この八識との関係で考えてみましょう。

1. まずある人と出会うとします。するとその人の映像が自分の意思とは関係なく心の中に生じます。そして、それはそれを見ようと思って見るのではなく、見せられたのです。だから、そこには「自分」ではない何か別の力が働いていることに気付きます。以上が眼識、すなわち視覚が関与した出来ごとです(デッサン)。
2. 次に憎いという「思い」が生じ、その映像に憎さを付与していわば色づけします。この憎いという思いは煩悩ですが、これは意識と共に働く細かい心作用です(これを心所といいます)。このように、憎いという思いが生じるのは、その奥に「自分」にこだわる心があるからです。だから「自分はあの人が憎い」と思うようになるのです。この「自分」をするもの、これが深層に働く自我執着心、即ち未那識です(色付け)。
3. そして最後に、「言葉」でもって「~さんは憎い人だ」と決めつけてしまいます。この言葉を発する心、それが意識です(仕上げ)。
4. 以上眼識から始まって、意識ないしは未那識、さらには憎いという煩悩、これら全てを生じるのが根本心、すなわち阿頼耶識です。

以上のように、心の中に起こる様々な要因の複雑な共同的働きによって、「憎い人」という存在が心の中に形成されます。
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その後著者は、「空の定義」に就いて解説している。正直なところ少々難解で、筆者などはどうしてもっと単純に説明してくれないのか(と言うのも、既に何度か本ブログで説明してきたように、筆者は「空」=「ブラフマン」=「実在」の立場を取る)もどかしい感じがするのであるが、その部分を同書から適宜引用する。

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では「空」とはいったいどういうことでしょうか。空の言語はゼロを意味するシューンヤであり、漢訳が「空」であることから、一見なにもない虚無の状態を創造しますが、決してそうではありません。次に紹介する唯識派が好んで用いる「空」の定義を検討すると、空がそのようなものでないことが判ります。

「あるもの(A)の中に、有るもの(B)がないとき、それ(A)はそれ(B)として空であると如実に見る。さらにそこ(A)に残れるもの(C)はあると如実に知る」(『瑜伽師地論』36巻)

「空」といえば、一切が虚無であるとニヒリズム的に考える人が当時いたようです。それを悪取空者、すなわち間違って「空」を理解する人と『瑜伽師地論』の中で非難されています。これに対して「空」を善く正しく理解する人のことを善取空者と呼んでいます。右の一文は、このうち後者の善取空者が理解する「空」を定義したものです。これは「空」の定義としては有名で『瑜伽師地論』だけではなくて、唯識の論書に散見でき、『小空経』という経典の中にあるものを唯識の人々が好んで引用したものです。

・・・さて、後半は(筆者註:前半の解釈は割愛)「さらにそこ(A)に残れるもの(C)はあると如実に知る」と定義されています。すなわち、全ての相を否定し、除去したときにも、「そこ」、すなわち心の中には「残れるもの」はあると如実に知る、というのです。ここが唯識思想の悪取空者に対して強調したい点であり、これは体験に基づいた言明であります。この「残れるもの」が先ほどに述べた「真如」であります。心の中を空じ、空じ切った否定の極限に真如が顕現してくる、と唯識瑜伽行派の人々は強調するのです。「真如」、これがいかなるものであるのか、体験していない人には判りませんが、すくなくともこの空の定義を論理的に派理解することができるでしょう。
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つまり、著者は空とは全てを空じ切った後に残る何かであり、これこそが真如であると言っている訳であるが、言葉を換えれば真如とはブラフマン(梵)であり、これこそが実在であるという筆者の主張と何ら変わらないと考えて良いと思う。因みに、同書67頁において、著者は「心、すなわち識は必ず認識対象を持つものであり、したがって認識対象がなければ認識する主体、すなわち識もなくなる。すなわち識は『あるようでなく、ないようである』ものである」と解説している。

その後著者は、「心」の働きを詳細に分類・解説しているので、同書から関連する部分を適宜引用する。

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・・・心はほんとうに複合体です。この心のありようを分析して、仏教は心を<心と心所>とに大きく二分します。このうち「心」とは心の中心体で、部派仏教までは六つの識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)が考えられていましたが、唯識派はこれに深層に働く未那識と阿頼耶識とを加えて全部で八識を立てるに到りました。この「心」の言語は「チッタ」で、王という語はありませんが、心の中心であるから王に例えて「心王」ともいわれます(以下、心所と対比される場合の心は心王と表現することにします)。後者の「心所」とは、詳しくは「心所有法」といい、心、すなわち心王が所有する心という意味で、王に多くの臣下が従うように心王に付随して働く(それを相応という)心の微細な作用をいいます(以下、心所有法を省略した心所という表現を使うことにします)。
心所に関する分析は原始仏教から始まり、部派仏教に到ってますます精密となり、それを受け継いで唯識派は全部で51の心所を立て、次の六つのグループに分類しました。

(1) 遍行   触・作意・受・想・思
(2) 別境   欲・勝解・念・定・慧
(3) 善    信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害
(4) 煩悩   貪・瞋・癡・慢・疑・悪見
(5) 随煩悩  忿・恨・覆・悩・嫉・・・害・無慙・無愧・・・不信・懈怠・放逸・失念・散乱
(6) 不定   悔・眠・尋・伺

この六つのグループの違いを簡潔に定義してみます。

(1) 遍行   八種の心王すべてと相応する心所
(2) 別境   それぞれ特別の固有の対象を持つ心所
(3) 善    善の心所
(4) 煩悩   心を濁す根本的な心所、根本煩悩とも言う
(5) 随煩悩  根本煩悩から派生する心所
(6) 不定   一切の心王と相応する場合もあり相応しない場合もある。或いは、善にも
       悪にも無記(善でも悪でもない)にもなりうるという意味で不定という。

このように、仏教はインドのほかの学派には見られない精密な心理分析をつくり上げましたが、これは現代にも通じる心理学の側面を持っています。しかし、それは学問的興味からなされたのではなく、あくまでも「無我」を証明するための、或いは迷いから悟りに到る為の真理分析なのです。
右の心所の一つ一つの説明は割愛し、ここでは六群の中の最初の「遍行の心所」についてのみ解説します。 ・・・その前に、迷いから悟りに到る為の心理分析という観点から、多くの心所に分析した意義を考えてみましょう。

(ア)明鏡止水という語が示すように、波立つ心(散心)を静めて初めて存在をありのままに観ることができるようになります。その心の波を静め、静かな定まった心(定心)にする最初の心所が「念」であります(筆者註:別境参照)。例えば出る息、入る息に成り切り、集中する、この息を念ずる心が「念の心所」です。次にその「念」の働きによって心の乱れがおさまり、そこに定まった心、すなわち「定」心が生じてきます。そして最後に、その定まった心に存在がありのままに映しだされます。それが「慧」という働きです。このように、「念」を起こせば必然的に「定」が、そして「定」が生じればまた必然的に「慧」が結果します。
   A→B→C
いま例に挙げた念→定→慧と展開する心所の流れだけではありません。自己向上を目指して努力するさいに、A→B→Cと展開するどのような心所を起こしたらよいのか、迷いから悟りに到るためにはどのような心所の流れに乗ることが必要なのか、そのために心所の因果の流れを把握し、これを解明することも仏教が行ってきた心理分析の一つの目的です。

(イ)次に心所を因果の流れの中で捉えるのではなく、善心と悪心の対比の中で捉える心理分析について考えてみましょう。例えば、あるものを貪るという心、即ち「貪」の心所が生じたとします。そのとき、その反対の貪らないという心、即ち「無貪」の心所を起こすならば、その「貪」の心所はなくなってしまいます。このように、悪心は善心によって退治することが出来るという観察から、唯識思想は悪心と善心を対立的に分析して次のようにまとめました(筆者註:下記の心所の上下が夫々対応している)。
・所対治: 不信  無慚  無愧  貪   瞋   懈怠 ・・・
・能対治: 信   慚   愧   不貪  不瞋  勤  ・・・

「対治」の原語は「プラチパクシャ」で、反対、反対党、対立者というのが原意です。除、除遣、断除などとも漢訳されるように、悪なるものを除くものという意味で「対治」と訳されます。そして、それをさらに「除かれるもの」と「除く働きをするもの」に分けて、それぞれ「所対治」、「能対治」といいます。ところで「所」と「能」とは同時的なものです。だから悪心が滅した後に善心が生じるのではなく、光をともすと同時に闇が消えるように、善心を起こせばそれと同時に悪心が消滅してしまうのです・・・。

(ウ)次に一つの心、即ち心王に、例えば視覚(眼識)にどれだけの細かく微細な心作用が相応して働くかという観点から心所の分析がなされています。これまで述べて来た(ア)と(イ)との観点からの分析よりも、この観点からの分析が大切です。前述したように、視覚は視覚だけでは働きません。眼識は、好きや嫌いといった心作用が付随して具体的に働きます。だから見るという感覚、即ち眼識は、相応する心所のありようによって善か悪か、濁っているか清らかであるかが決まってきます。できればいつも清らかな善き心所と共に見聞覚知したいものです。見聞覚知でいつも思い出すのは、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の中の次の一節です。
「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」
「あらゆることに自分を勘定に入れずに見聞覚知する」、まさに人間の生きる理想の姿です。
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次に、ヨーガの瞑想の中でも非常に重要な「触」という概念(心の働き)である。必要最小限のポイントのみ引用する。

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・・・人間は「触れ合い」によって成長していきます。まずは家庭内での親や兄弟との触れ合い、そしてそれは友だち、教師、知人、同僚という社会的接触に発展し、もう無量無数の触れ合いによって生かされていきます。人間同士の触れあいこそがいのちであり、最高の生きがいであるといえるでしょう。触れ合いは人間とだけではありません。花鳥風月という美しい自然との触れ合いによって豊かな優しい心が育まれています。ところで人間であれ自然であれ、このような触れ合いが起こり得る最初の原動力がこの「触」という心所です。
「触」とは心王と心所とを対象に触れしめる心作用です。ある一つの認識が成立するためには「根」(感覚器官)と「境」(認識対象)と「識」(認識する心)との三つが一つの場の中で相互に関係し、結合しなければなりません。この三者が結合するいことを「三和合」と呼び、この三つが和合したときに生じ、逆に三つを和合せしめるような心作用を「触」といいます。
ところで、「根」である感覚器官は身体の一部であり、原子・分子から構成された「もの」であり、「境」という対象、例えばここにある鉛筆もまた同じく原子・分子から成り立っている「もの」です。この二つの「もの」が心・心所という「心」と結合関係を持つようになるために必要なのが、この「触」という心所です。
しかし、このような「触」の定義を聞いても、そのような働きをする「触」が具体的にどのようなものであるのかはなかなかわかりません。でも、「触が無ければ心は屍の如し」と『婆沙論』などに力説されている一文を心に刻み込み、そして、眼を開いて見えるということ、即ち目という感覚器官も「もの」その対象も「もの」であり、この二つのものが認識関係に入った途端に視覚という「心」が生じることは驚異的な出来ごとであると気付き、心の内に住して、見る、聞くなどの感覚を静かに観察してみるとき、この「触」の働きに気付くのではないでしょうか。
ところでいま、ものか心かとその両者を簡単に言葉で分けてしまいましたが、本当に分けられた「もの」と「心」は別々に存在するのでしょうか。もしも個々の実体として存在するとするならば、眼という「もの」と鉛筆という「もの」とが向かい合うとき、そこに鉛筆を見るという視覚、すなわち「心」が生じるという事実に対して、「ものとものとの触れ合いから、心という全く別の存在がなぜ生じてくるのか」という一大問題に対して、どのように答えることができるでしょうか。ある人は、「心は脳の機能である」と唯脳論的に答えるかもしれません。でも、これは答えになっていません。なぜなら、更に「ではなぜ脳波心を発生することができるのか」と同じように質問できるからです。脳の神経細胞の研究を通して、意識が発生してくるメカニズムを解明しようとする大脳生理学者の努力は、いまだ満足な成果を得ていません。この「なぜものが心をしょうじさせるのか」という問いに人類は永遠に答えることができないでしょう。
なぜなら「もの」と「心」とは、あの「自分」と同じく(筆者註:著者は、普通の人が考える「自分」とは、身心を構成する要素である「五蘊」を、誤って自分と認識しているものと説く)、唯だ言葉の響きがあるだけなのですから。ここでも私たちは言葉に惑わされています。眼を開けた瞬間の、もとのも心とも分別されない「生の存在」の中に、静かにじゅうしてみましょう。そして「念」の力でそこにっ繰り返し繰り返し住していくうちに、ものとも心とも分別しない無分別智が養成されてきます。そしてさらに、念の力と無分別智との力とが強まれば強まるほど「生の存在」の置く深くに突き進み、最後に「存在そのもの」の中に突入し、ものでも心でもない世界に住します。そこをあえて言葉で語れば、「唯だ、唯だの世界」です。そしてこの世界からみれば、はじめて「唯識」の「識」はほんとうはどうでもよく、「唯」が大切であることが判ってきます(筆者註:ここで「唯」とは実在、即ち真如を指していると思われる)。そうなってきますと「唯識」とも「唯境」でも「唯心」でも「唯物」でもよいのです。この「ものでも心でもない」という見方が重要です。・・・
科学者の眼、特に物理学の量子論者の目も「生の存在」に向けられはじめているのではないかと思います。もしそれが「存在そのもの」に達したとき、どのような理論が成立するでしょうか。
唯識の経論のなかに「非有非無」「不一不異」「不生不滅」「不増不減」などの語が多く出て来ます。これはすべて「生の存在」、そして「存在そのもの」から見た表現です。
◇◇◇

以上を纏めて見ると、著者は「唯識」を説きながら、最終的には「識」もなく、「生の存在」だけがあると主張している。「生の存在」とは「存在そのもの」であり、実在であるから「空」と言っても良いのではないかと思う。つまり全ての現象は「空」であると言っているのと同じであり、筆者はこれ即ち般若心経が伝える仏教の奥義、「色即是空」と異ならないと考える。

次に筆者は第六章「すべてのものは心が生み出す」において、阿頼耶識が一切の事象を生じていると説く。要点のみ引用する。

◇◇◇
・・・神のような超越者を立てない唯識派は、深層の阿頼耶識からすべてのもの、一切のものが生じると説くのです。一切のものには、自分の身体、未の回りの生活道具、山や川などの自然、さらには遠くにある星々などの、いわゆる「もの」と言われる存在、さらには視覚ないし触覚の五感覚(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)と思考する心(意識)など、すなわち「心」といわれるもの、」これらすべが含まれます。さらには、迷いも悟りもこの阿頼耶識から生じると説きます。そのように一切の存在を生じる力、それを植物の趣旨に例えて種子(しゅうじ)と呼び、阿頼耶識はそのような種子を有しているから、別名<一切種子識>とも命名しました。
阿頼耶識を「宇宙を形成する根本心」と定義することもできますが、この場合の宇宙とは、自然科学でいう宇宙ではなく、一人一宇宙、阿頼耶識から、一切種子識から作られた宇宙、その中に自分が閉じ込められている、自分にとっての具体的な宇宙を意味します。先ず阿頼耶識の働きを項目別に挙げておきましょう。
(イ) 過去の業の結果を貯蔵する。
(ロ) 現在と未来とのすべての存在を生じる
(ハ) 肉体をつくり出し、それを生理的に維持している
(ニ) 自然をつくり出し、それを認識し続けている
(ホ) 生死輪廻の主体となる
◇◇◇

この後、著者はこれらの項目に就いて詳細に説明しているが、本稿では最後の項目、輪廻の主体とは本当に阿頼耶識なのか、これは仏教で言うところの我(アートマン)の存在を認めるかどうかの大問題とも関係するのであるが、この点に就いて著者が説くところを引用する。

◇◇◇
次に、阿頼耶識が輪廻の主体となるということについて考えてみます。
仏教にはもともと一つのジレンマがありました。それは無我(筆者註:アートマンは存在しないとの主張であるが、筆者は釈尊の真意が必ずしも正しく伝わらなかったことに因る誤解だと思っている)を説きながら同時に生死輪廻を認めるならば、その輪廻する主体は何かという問いかけが起こるからです。これに対して、原始仏教は「業」が相続すると答えました。これはいわば科学的な目でもって考えた輪廻説であります。仏教以外のバラモン教に属する諸派、或いは外道といわれる思想の中には、霊魂(ジーヴァ)、或いは我(アートマン)の存在を認め、それが輪廻の主体であるという考えが多く認められます。その霊魂、あるいは我は、あくまでもありてあるもので、同一なるものとして存在し続け、しかも自分で自分を統御できる力のあるものと考えられたのです。これを、<常一主宰の我>といいます。これに対して釈尊はそのような我、自分というものは無いと言う無我説を主張しました。たしかにこの具体的ないのち、心を観察するとき、そのような自分はどこを探しても発見できません。肉体は一見同じ肉体としてあり続けるようにみえますが、衰えた細胞に代わって新しい細胞が次々とできています。・・・また、「肉体よ衰えないで」と願っても、その無常を止める力は自分にはありません。心も意思とは無関係に次々と雑念が起こってきます。そこに自分で自分を統御できる、すなわち主宰できる、そのような自分はありません。(筆者註:この部分に対して筆者は異論がある)
このように、「常一にして主宰なる我」などどこにも存在しないから無我である。しかし、生じては滅していく業お相続体があり、それがこの一生を生き、それが未来にも続いて行くと釈尊は説かれたのです。
例えば、無風の場所で燃えるろうそくを見ると、そこに同じ一つの火があると思いますが、実は一瞬一瞬に生じては消えていく不連続の連続体があるだけです。事実を事実として見たとき、「刹那に生滅する業の存続体がある」と言わざるをえないし、このような見方のほうが、プラトンが霊魂はある、デカルトが精神はあるとみる見方よりも、より科学的な見方ではないでしょうか。
このように、実は科学的であるにしても、業の相続体が輪廻の主体であるということは、なかなか納得できません。・・・そのため、唯識派が阿頼耶識こそが輪廻の主体であると主張することによって、この問題に一応の結論が得られたのです。
しかしここでまた、阿頼耶識が輪廻の主体であれば、それは「我」のようなものであり、無我説に反するのではないかという問題が生じます。・・・
ではどうして阿頼耶識は我(アートマン)ではないか。これに対して『解深密教』では「瀑流の如し」と、また『唯識三十頌』では「暴流の如し」という例えで答えています。即ち川の流れを目で見れば、常に流れている「水」があるように思いますが、それは視覚による思い間違いです。川の流れに手を浸けてみましょう。すると水は刻々新しい水になっていきます。すなわち、そこには刹那に生滅する不連続の連続体としての水があるだけなのです。これと同じく、阿頼耶識も実体として常にあり続けるのではなく、刹那に生滅する不連続の連続体としての心があるだけであるというのです。後に『成唯識論』(筆者註:大唐西域記で有名な玄奘三蔵の著書)では阿頼耶識の中の種子がそのように刹那生滅しながら相続すると捉え、それを種子生種子(種子が種子を生じる)と表現するようになりました。これによって、唯識派は、表層心のみならず、深層心をも含めて、心全体を一大エネルギーの変化体であると捉えていることが判明しましたが、この心のありようを的確に表現したのが、世親が『唯識三十頌』の中で用いた「識の転変」という語です。
◇◇◇

本稿はかなり長くなってしまったので、この辺りで区切りを付けたいと思うが、最後の輪廻の主体の部分で、阿頼耶識が輪廻の主体であるという部分に就いては、筆者がこれまで考えてきた「行」(サンスカーラ、即ち業、煩悩、薫習などの総体)と重なる部分が多く、特に違和感を感じてはいない。そして我(アートマン)が輪廻の主体でないと言う点も頷ける。しかし、それはアートマンの存在を否定することにはならないというのが筆者の見解である。筆者の見解は、阿頼耶識はあくまでも意識の一部であってプラクリティから構成されるものであり、般若心教においても「無受想行識」という形でその実在性は否定されているものである(実際に著者も前段で「識」は無く、「生の存在」或いは「唯」だけがあると言っている)。その阿頼耶識が我々の本体であれば我々は実在していないことになってしまう。我々の本体(実相)はあくまでも「実在」であり、阿頼耶識の更に奥にあるプルシャ即ちアートマンであると筆者は考える。

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