アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第6章 世界劇場 ③世界劇場

2009-12-18 05:55:47 | 第6章 世界劇場
③ 世界劇場
筆者は元々哲学青年でも何でもなく、大学時代を余り勉強せずに過ごし、会社に就職した普通のビジネスマンであるが、古東哲明氏の『ハイデガー=存在神秘の哲学』(著作P)は、偶々ある事情があって筆者が三鷹の街をブラブラしているときに、ふと立ち寄った古本屋の棚に並んでいた中で、“存在神秘”という題字の言葉に惹かれて衝動買いした本である。哲学の本なので無論それなりに難解な個所はあるものの、比較的判り易いうえに著者がユーモアを交えた表現で説明してくれているので、読んでいて楽しく、然も大変示唆に富んでいた。哲学的な思索の詳細は著作Pに譲るとして、ここでは世界劇場論に関連する箇所を古東先生には申し訳ないが筆者の独断と偏見で抽出し、多少順序を組み替えたうえで簡単に紹介したい。以下の「」内は、別途断り書きがしてない限り、著作Pの引用である。

ハイデガーの著作には世界劇場論に関する幾つかの言及個所がある、と古東氏は言う。「・・・『根拠とはなにか』(筆者註:ハイデガーの著作)には‘演劇人間論’が登場。‘世界とは日常的現存在が演じている“演劇”と明言する。」 そして演劇と同様に、「ぼくたち人間が生きる生の現場には必ず、ある一定の‘世界’がつむぎだされてくる。目にはみえないがたしかに、ぼくたちの生の営みの辺り一面(周囲)に、まるで大気のように深くひろく、時々の場面に応じた重層的で可動的で濃密な、意味と情動のネットワークとしての‘世界’が分泌されてくる。つまり、生(現存在)と世界(周囲世界)とは、分離不可能な仕方で錯合しあっている、ということである。世界は生に依拠し、生との深い相関性のなかで初めて成立する。・・・生と世界は一体二重的に生起する。そういうことである。
「世界は、個人の生と、密接にむすびついて成立する。しかしだからといって、その世界が、個人的な世界だというわけではない。個人がつむぎだす世界は、同時にすでに最初から、共同世界的ななりたちをしているからだ。たとえば、サラリーマン劇を演じるあなたの会社世界。たとえそれがどんなにあなた個人の創意と工夫をこらした世界だとしても、同時に最初から、他の同僚との共演舞台でもあるはずだ。」
「総じて、大小の舞台装置、役柄、場面、シナリオなどが複雑にからみあう生活コンテキスト(世界性)が刻一刻形成され、その不可視のコンテキストに多面的重層的に織り込まれるようにしてはじめて、ぼくたち個々人の生存活動(現存在)が、実現されていく。世界は同時に共同世界だということを、ハイデガーがなんども強調するのもそのためである。逆にいえば、‘世界’とはある意味ではその程度のものだということである。だから、あなたご自身の存在それ自体(自己自身)を体現した次元ではないということだ。もっといえば、自己自身など消すことではじめて世界はなりたつ。役者が生身の自分を舞台上から消し、役柄になりきることではじめて、演劇世界が成立しえているように。つまりこの世は‘お芝居’なのだ。」
「奇妙なすがたとは、ほかでもない。ぼくたちが、役者同様の二重分裂構造と自己消去構造を生きている、ということである。どなたもだ。どんな立派な人もである。役者は、あるときは王様を、あるときは老人を、あるいは善良な市民や犯罪者を演じよう。それと同様ぼくたちもみな、時々のスケーネー(生活場面・状況)とドラーマ(活動様式・言動・任務)に応じて配定される、様々なペルソナ(役柄・仮面)を演じて生きている。妻にとっては夫として、学校にゆけば教師として、バスにのれば乗客として、時々の状況とふるまい方から相関的に規定される時々の役柄になって生きる。むしろ生きざるをえない仕組みに、人間社会はできあがっているこの仕組み、現代思想の文脈では‘演劇体制論’(エヴレイノフ)とか‘役割存在論’(ゴフマン)として、よく知られたことである。そのさい、演じている役柄上の自分と、それを演じている生身の役者なる自分自身とは、別々の自分だということは、説明するまでもないだろう。・・・考えてみると役柄上の自分など、あたえられた状況下で一過的にひきうけているたんなる仮面でしかない。・・・だがにもかかわらず、ぼくたちはついそのことを忘れてしまう。忘れてしまうどころか、忘れつづける。忘れつづけていることも、忘れる。つまりこういうことである。」
「・・・だが気持は、目前に展開する劇世界にひきよせられ、そこで演じられている自分の役柄や相手の役目や立場や生活シーンに、つぎつぎと奪われてしまう(これが好奇心)。だから自分自身のことなど忘失する。むしろ自己消失(自己忘却)こそ、役柄や世界劇をみごとに生きるための前提。そのためいつのまにか、役柄存在者である自分をほんとうの自分だと思いこむ。・・・まさに不安の正体は、この自己分裂構造である。」
「不安をおぼえるとはその意味で、舞台上で悦にいっている自分(ダス・マン自己)にたいし、本来の自分(生身の役者自身)が、‘それはわたしではない’という自己疎外の声を、しずかにあげていることの、別表現である。この自己疎外のしずかな声。‘それはわたしではない’というズレの軋み音。それが、有名な良心の無言の声にほかならない。・・・その意味で不安は、自己自身をとりもどす絶好のチャンスなわけだ。いかなる世界舞台からも乖離し、いかなる役柄にも拘束をうけない‘俳優的自由’(ジンメル)に気づく扉なわけだ。」
「・・・この生活世界(世界劇場)全体をみえない背面からささえ、ぼくたち(登場人物)をひそかにマリオネット(組み立て人形)化し、ことのなりゆき(舞台)を取り仕切る深層シナリオがあるのではないか。・・・少なくともハイデガーはそう洞察し、その超絶力や根本の仕組みのことを、‘ニヒリズムの本質’とか、あるいはその現代形である‘ゲシュテル’(組み立て構造)と名づけた。そしてこの地球規模でくりひろげられる組み立て劇に、‘惑星帝国主義’というタイトルを付す。」
「その醜悪な表づらに圧倒されて、その結果、存在の素顔(存在の真理)に及ばず、存在は存在それ自体としては、否認され続ける。存在の素顔(存在神秘)に気づかないそのことが‘歴史的な根なし草の状況’をうみだす。世界や人生や思考の全体がすべて、確固たるベース(根拠・規範・理由・目標)を欠落させたまま営まれているという、すっかりぼくたちになじみの現代生活の風景がこうして発病する。」
「・・・なかでも、なにより根深い固定観念がある。それが従来の存在観。それは存在を、‘目前に在ること’とみてしまう存在観である。‘目前に在ること’とは、内的な生動性を欠落させた、まるで延べ板のようにダラーッと現前し存続しているとする存在観。ふつう存在といえば、そんな<恒常的現前性>を考えるのがつねだ。この思考習慣こそ『存在と時間』(筆者註:ハイデガーの代表的著作)の最大の標的である。その存在イメージの前提には、ある特定の時間観念が固着している。時を、川の流れのような直線時間とみる、あの根深い偏見がそれだ。つまり、存在の理解の仕方が、時の見方に規定されている。時をどう刻むかというその時の刻み方(刻時性)が存在をどう理解するかの前提アプリケーションになっているということである。」
それでは、ハイデガーが言う‘存在’とか‘存在の素顔’或いは‘存在神秘’とは何なのであろうか。古東氏が言うには、「最後の神。『哲学への寄与』の言い方をかりれば、むろんそれはもう、特定の宗教宗派の神ではない。複数か単数かもどうでもいい。だからもちろん、存在の起源に神をおこうというのでもない。・・・むしろ、議論は逆である。存在が神なるものを存在させる。・・・だから存在が神の起源。‘最後の神’ということでいわれていることの、それがエッセンスである。・・・よくいわれてきたように、‘神が存在である’ということでは、だからない。・・・さきにひきあいにだしたエックハルトなら、Istic-heitというところだ。その意味合いで晩年にハイデガーも、エックハルトを踏襲し、‘存在が神である’(存在が神をあらしめる)とふと漏らしている。」

ここまでずっと著作Pの引用で説明を続けてきたが、世界劇場の説明にこれで納得頂けただろうか。ここで少し目先を変えて、筆者が、おや、彼も世界劇場論の影響を受けているのかなと思える文章を思いがけない本の中で発見したので、次に少し紹介したい。それは他ならぬ『バシャール』の第8巻(著作S)のあとがきとして、VOICE社の喜多見龍一氏が書いた文章であるが、彼自身が世界劇場論を意識していたのかどうかは無論本人に聞いてみないと判らない、即ち筆者の勝手な推測である。
「・・・水面になげられた小石は波紋をひろげる。これはわたしたちが日々体験している日常生活の似姿である。生活の中で体験する‘波紋’、そしてその波紋がどこかに向かう。収束したり、なにかを明らかにしたり。こうした状況を見るにつけ、わたしには、そこにいる人々が、なにか舞台の役者さんのようにおもえるときがあって、その役者さんそれぞれが、いいとか悪いとかいうより、重要なのは全員がその状況にコミットしているのであり、どのひとりもその状況を創りだすことに貢献している、という感覚である。グルジェフは、このことをなんども言及しており、その構造を際立たせるために‘わたしたちには波紋を投げかける者が必要なのだ’とまで言い切っている。」

筆者は以前、キリスト教徒が汎神論を否定する理由、即ち「森羅万象を神と定義づけてしまうと人間の中にも神が宿っていることとなり、それはすなわち人間が犯す罪は神が犯した罪ということになるからであるとされる。」は誤りであるとの意見を述べた。そして、その理由は世界劇場の部分で明らかにすると述べたが、それはたった今引用した、喜多見龍一氏の意見、或いはグルジェフの意見に近いものがある。グルジェフは‘波紋を投げかける者’と控えめに述べているが、はっきり言えば悪人、罪人もそれぞれ世界劇場の中で、それぞれの役割を一生懸命演じてくれているのである。それも真剣にである。そして悪人自身は罪を犯したのち、罪の意識を経験し、仮にその生において罪を償う機会が無かったにせよ、その来世でそのカルマを引き受ける。そうして輪廻転生を通じてその魂が浄化されてゆく。悪人によって殺されたり、傷つけられたりする人達も、そういう事件に巻き込まれることで、前世のカルマを解消してゆくのではないだろうか。そして、その周囲の人達も、直接事件に関わらなくなくとも、悲惨な光景を見ることで自らの戒めとする。このように、人間の霊魂は、世界劇場で個々の役割を真剣に演じながら、且つ輪廻転生を繰り返すことで磨かれてゆくものであり、又それが宇宙(即ち神)の意思である、と筆者は思っている。
しかし、ここで良く考えなければいけないことは、本当に人間は死ぬまで、世界劇場の役者で終わって良いのだろうか、という点である。更に言えば、この輪廻転生は永遠に続いて行くのだろうか。ハイデガーは、人が自分自身をこの劇場での役柄と取り違えることを耽落(たんらく)と呼んで戒めている。人間とは何か、存在とは何か、時間とは何か、神とは何か、世界劇場の仕組みはどうなっているのか。自分の役柄を演じながらも時として本来の自己(自我ではない)に立ち返り、これらの疑問を明らかにすることも人生の重要な目的の一つであり、これから論じて行くアセンションの前提になるのではなかろうか。


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