アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第15章 心と意識 ⑥第四の意識

2011-11-11 06:29:30 | 第15章 心と意識
人間には4種類の意識の状態があるという。即ち、眠っている状態、夢を見ている状態、眼を覚ましている状態、それに加えてトゥーリヤ(純粋意識状態とも云う)という状態である。この第四の意識、トゥーリヤに就いては、実のところ既に第13章⑩第二イニシエーションにおいて概略を説明している。この意識状態には、同イニシエーションで伝授される非常に重要な技法の内の一つであるヨーガ・ニドラー(ヨーガの休息と一般的に言われる)において到達できると言われている。以下、第13章⑩よりその部分を再掲する。

「“ヨーガの休息”と訳される“ヨーガ・ニドラー”の実践は、通常の睡眠を不要にする。ヨーガの教えによると意識には次の4つの状態がある。

1.肉体意識:日常的な活動に従事しているときの意識・
2.夢の意識:アストラル体での体験や、目が覚めた状態でメンタルな活動に従事して
いるときの意識。
3.夢を見ない熟睡時の意識。
4.純粋意識:“トゥーリヤ”と呼ばれる、先の3つの意識を超えた第4の意識。
他の意識の源であり、永遠にして歪みのない無限の意識。

ヨーガ・ニドラーの実践によって、この第4の意識状態に至ることができる。ヨーガ・ニドラーを実践するためには、瞑想の実践を充実させることが必要である。また、深い休息の状態に至るためには、全ての欲望、感情、思考を分析・解明する必要がある。肉体が眠る一方で意識が完全に目覚めている“ヨーガの休息”は、一般的な睡眠とは異なる。これによって得られる休息の質は瞑想によって得られる状態にも勝るものである。潜在意識も休息を必要とするが、潜在意識を含む意識の全体に休息を与えることができるのは、瞑想とこのヨーガ・ニドラーである。睡眠においては自覚の状態が失われてしまう。また瞑想は熟睡時の意識状態の維持を目的として行われるものではない。この意味において、“ヨーガの休息”は瞑想時の意識状態とも異なっている。ヨーガ・ニドラーの実践を通して、ヨーガの実践者は4つの意識状態の違いを学ぶことができる。ヨーガ・ニドラーの実践方法は、前述の“スピリチュアル・リトリート”(筆者註:第二段階のイニシエーションのこと)において示される。」

この技法を行っていると、眠くなりがちであるが、眠ってはいけないとされている(それはヘミシンクの場合も同じである)。筆者は(第二イニシエーションで本技法の伝授を受ける際)何とか眠りに落ちることなく、持ちこたえることが出来たが、このヨーガ・ニドラーは、筆者の印象ではヘミシンクのF10にかなり近い状態のように思われた(但しこのヨーガ・ニドラーはかなり難しい技法と言われており、筆者がその目指す純粋意識状態に到達出来たかどうかの確証は残念ながら無い。一方ヘミシンクのF10は、少し練習すれば誰でも比較的簡単に到達出来る状態である。筆者の推測であるが、ヘミシンクの場合は、ヘミシンク音の助けがあるため、比較的容易にこの状態に到達できるのかも知れない)。

ヨーガ・ニドラーに関する引用は以上であるが、実は第二イニシエーションでこの技法を伝授されてから半年近く、筆者はこの技法の練習を怠っていた。理由は、週末以外で余り練習の時間を取る余裕が無かったことと、逆にこの練習を週末に行うと(週末は昼寝する癖があるので)眠ってしまうかも知れないというやや消極的な先入観を持っていた為である。しかしその後この夏に第三イニシエーションを受講し、改めてこのヨーガ・ニドラーを練習しなければならないと思い立ち、最近改めて練習を始めてみた(朝時間的な余裕があるとき、18番目のポーズ、プルナ・シャヴァ・シャンティ・アーサナに続けて行う)ところ、思ったよりも簡単にこの意識状態に到達出来る(と筆者は少なくも思っている)ことに気付いた。

さて、そうした中で、筆者は『あるヨギの自叙伝』(以下、同書)において、シュリ・ユクテスワ師(以下、同師)が蚊の大群の中にいて、平然と眠ることが出来るので、ヨガナンダがその理由を知ろうと同師に近付いて見たところ、呼吸は止まりながら意識は覚醒している状態であったというエピソードを思い出し、てっきりそれはトゥーリヤ(ヨーガ・ニドラー)の状態だったのだと思い込んでいた。そしてその話をここに掲載しようとして同書を読み返して見たところ、次のように書かれていた。

「先生(筆者註:同師のこと)のところに通いはじめてから数カ月たったころ、私は先生から“蚊の征服法”に関する実用的な教訓を受けた。私の家では、夜は蚊帳をつるのが習慣だったが、困ったことに、このセランポールではこのような習慣は不名誉なこととされていた。しかも、蚊の数は夥しかった。私は頭の上から足の先まで食われてしまった。先生は同情して言われた“蚊帳を買ってきなさい。ついでに私の分も一つ”そして笑いながら付け加えた。“お前が自分の分だけ買うと、蚊がみんな私の方に集まって来るからな”」
「私はこの申し出に有り難く従った。私がセランポールで泊まる晩はいつも、先生は私に蚊帳を吊るように命じられた。或る晩、例によって蚊の大群が我々を取り巻いていたが、先生は私にいつもの命令を出すのを忘れたのかそのまま寝てしまわれた。私は蚊の唸り声を聞きながらいらいらしていた。そして床にはいると、飛びまわっている蚊にむかって和解の祈りを放送した。しかし30分ほどたつと、私はついにたまりかねて、先生の注意を引くために、わざと大きな咳払いをした。刺されたかゆみと、血に飢えて飛び狂う蚊の唸り声に、私は気が変になりそうだったからである。しかし先生は何の反応も示されなかった。私はそっと先生のベッドに忍び寄ってみた。すると驚いたことに、先生は全然呼吸をしておられなかった。ヨギの恍惚境に浸っておられる先生を目の当たりに見たのはこのときが始めてだった。‘心臓が止まったのではないか!’私は先生の鼻の下に鏡を近づけてみた。鏡は全然曇らなかった。私はなおも確かめるために、先生の口と鼻の穴を指で数分間ふさいだ。からだは冷たく動かなかった。私は茫然として、助けを呼ぶためにドアの方へ行きかけた。‘どうしたね。豆実験屋。私の鼻がかわいそうじゃないか’先生の声は笑いで揺れていた。‘ベッドへ戻りなさい。世界中がお前の為に変わってくれるかね?お前自身を変えなさい。蚊の意識から抜け出すのだ。私はすごすごとベッドに戻った。ところが、なんと蚊は一匹も寄って来なくなった! 私は、先生が私に蚊帳を買わせたのはただ私のためのみであったことを知った。先生自身は、蚊など全然気にしてはおられなかったのである。・・・真のヨギは、絶えず自分に襲いかかる無数の感覚的刺激に煩わされることなく超意識に入り、かつ、それを持続することができる。蚊の唸り声や厚さ寒さなど、もとより問題ではない。ヨギはサマーディの始めの段階(サヴィカルパ・サマーディ)で、外界の感覚的刺激をすべて締め出し、かわりに、かのエデンの園よりもはるかに美しい内的世界の音や光景を楽しむのである。」

つまり、シュリ・ユクテスワが浸っていた恍惚境は、トゥーリヤではなくて、サヴィカルパ・サマーディであるというのである。ということで、てっきり筆者はこの二つを混同していたのだと内心がっかりしていたのであるが、ラマナ・マハルシ(以下、同師)の『あるがままに』を読んでいたところ、次の文章に出会った。質問者から、「サマーディはトゥーリヤ、第四の状態と同じなのでしょうか」と聞かれ、同師はこう答えている。

「サマーディ、トゥーリヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している。それは真我の自覚である。トゥーリヤの文字通りの意味は‘第四の状態’であり、第四の状態とは目覚め、夢見、眠りの三つの状態から区別された至高の意識のことである。第四の状態は永遠であり、他の三つの状態はそのなかで来ては去って行く。トゥーリヤの中ではいくらかの想念が未だに侵入し、感覚も或る程度活動しているが、心が源のなかで溶け合ったという自覚がある。ニルヴィカルパのなかでは感覚の活動はなく、想念は完全に不在の状態である。それゆえ、この状態での純粋意識の体験は強烈で至福に満ちたものである。トゥーリヤはサヴィカルパ・サマーディのなかで達成することができる。」

又同師は、眠りのなかで楽しまれた至福とトゥーリヤのなかで楽しまれた至福の違いとは何かと聞かれ、次のように答えている。

「至福そのものに違いはない。ただ一つの至福があるだけであり、それは目覚めの状態のなかで楽しまれる至福、最下位の生物から最高位のブラフマン迄のあらゆる存在の至福も含んでいる。眠りのなかで無意識の内に楽しまれている至福が意識的に楽しまれたときトゥーリヤと呼ばれ、両者の違いはそこにしかない。目覚めの状態のなかで楽しまれた至福は間接的なもので、それは真の至福に付随したものでしかない。」

つまりこの第四の意識、トゥーリヤには幾つかの段階があるようである。そして実際筆者はそれを実感することが出来るようになってきた。というのも、第二イニシエーションで伝授されるヨーガ・ニドラーで経験されるトゥーリヤ、それを初めて体験した時に、その状態は以前ヘミシンクで経験したことのあるF10の状態に近いものであったと、本ブログの記録に残しており(第13章⑩)、その時呼吸停止は無かった。ところが、筆者は最近このヨーガ・ニドラーで暫くの間(僅か数秒ではあるが)呼吸停止も経験できるようになってきた、即ちサヴィカルパ・サマーディに入っている可能性がある(とは言っても、恐らくはサヴィカルパの初期段階であり、とても蚊の大群を撃退できる境地まで達していると言い切れる自信はないが)。と言うことは、やはり同師の云う通り、「サマーディ、トゥーリヤ、ニルヴィカルパはみな同じ意味を示している」ということなのであろう。

尚、筆者の場合ヘミシンクはF27迄到達した(第10章⑦輪廻の中継点を参照)のち、練習を止めてしまったが、これを更に続けて一生懸命練習していれば(必ずしもクリヤー・クンダリニ・ヨーガに拠らなくとも)、サマーディ同様、高い境地に達する可能性が有ったのかもしれない。そういう意味から、ヘミシンクにはそれなりの意味と効果があることは間違いないと思っているのであるが、ここで少し筆者がヘミシンクを断念した経緯を説明しておきたい。
筆者は、2010年の5月の連休に初めてヘミシンクのF10とF12を夫々1日のコース(エクスカージョン)で体験し、自分でも驚くような体験をした(第9章⑨量子的自己を参照)。その後間もなく、思い切ってF21(所謂‘三途の川’がある場所で、この世とあの世との境界)を体験してみようと思って、これも週末にF21探索コースを受講し、自分では何とか三途の川の手前まで到達できたと思っている(第10章②マカバとフォーカス21体験を参照)。余りにも順調にことが運ぶので、次は三途の川の先にあると言われている輪廻の中継点迄行くコースを選び、自分の‘別荘’もそこに作ったつもり(第10章⑦)なのであるが、更に先に行こうとして、思いがけないことを見落としていたことに気付いた。つまり、これら3回の受講体験はいずれも週末に1-2日かけて行われるものであるが、これらはあくまでも興味をもった初心者に対する‘お試し版’のようなコースであり、更に先のスターラインズ(F49まで体験可能)のコースを受講する為には、改めて ‘モンロー研プログラム’という正規のプログラム(夫々1週間から10日程度を要する)を、最初のF10から少なくとも3-4回は受講し直さなければならないことを知り、そこで躊躇してしまった。というのも、会社勤めを続けながら、そんなに長期間、しかも回を重ねて休暇を取ってはいられないからである。しかも2012年の12月までに何とか全てのコースを受講しておきたいという日程上の制約もあった(現在スターラインズは日本でも受講可能だが、当時はアメリカまで行く必要があったと記憶している)。そうこうしている内に『完全アセンションマニュアル』やパラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』を読み、クリヤー・クンダリニ・ヨーガを何とか習得したいと情熱が、ヘミシンクに対する思い入れを上回ってしまった次第である。
結論として、筆者は真我実現(解脱)を最終目標に置いたのであるから、そこまでの道筋をはっきりと示してくれるクリヤー・クンダリニ・ヨーガを選択したことは間違っていなかったと思っている。

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