アセンションへの道 PartⅠ その理論と技法

2012年には銀河の中心と太陽系そして地球が整列し時代の節目を迎えます。アセンションの理論と技法について考えます。

第13章 世界宗教 ⑮バクティ・ヨーガ

2011-06-10 06:30:15 | 第13章 世界宗教
カルマ・ヨーガの説明に続き、ヴィヴェーカナンダ(以下、著者)の説くバクティ・ヨーガを同名の著書(以下、同書)から引用しながら説明したい。著者はその定義をこのように説き始める。

「バクティ・ヨーガは、真の、純粋な主の探求です。愛に始まり、愛で続き、愛に終わる探求です。たった一瞬間の神への愛の狂気は、我々に永遠の自由をもたらします。ナーラダ(筆者註:ヒンズー神話中の偉大な聖者。バクティの道を説いた)は、彼のバクティ格言集の説明の中でこう言っています。“バクティは神への強烈な愛である”“人がそれを得ると、彼は全てを愛し、何者をも憎まない。彼は永久に満足してしまう”“この愛は、如何なる個の世の利益の期待にも格下げされるものではない”なぜなら世俗の願望が残っている限り、この類の愛は生まれないのですから。“バクティはカルマより偉大であり、ヨーガより偉大である。これらはある目的のために行われるのだが、バクティはそれ自身、成果であり、それ自身、手段であり、またそれ自身、目的であるのだから”」

そして、バクティがその準備段階(入門或いは入信して間もない状態)において狂信に陥る危険性に触れた後、成熟して至高の(パラー)と呼ばれる境地に入れば、そのような危険は無くなると説く。又、知識との関係において、次のように説明する。

「今生で完全に調和のとれた人格を形成するということは、我々の全てにできることではありません。それでも我々は、これらの三つ ―知識、愛、及びヨーガ― が調和をもって融合しているタイプの人格が最も高貴なものである、ということは知っています。鳥が飛ぶには三つのもの ―二枚の翼と、方向を定める舵の役をする尾― が必要です。ジュニヤーナ(知識)は一翼、バクティ(愛)はもう一つの翼、そしてヨーガはバランスを保つ尾です。これら三つの形の礼拝を調和をもって併せ行うことができず、従ってバクティだけを自分の道として取り上げる人々は、形や儀式は進歩しつつある魂にとっては絶対に必要なものであるけれど、神に対して最も強烈な愛を感じる、という境地に我々を連れて行く以外の価値は、持つものではない、ということを常に心にとめておくべきです。」

そして、愛の対象は神、それもイシュワラ(至高の人格神、イシュヴァラとも云う)に対するものでなければならないと言う。

「愛!誰のための? 至高の主、イシュワラのための。どんなに偉大であろうと、他のものへの愛はバクティではありません。・・・我々ははっきりと、バクティというのは普通の礼拝に始まってイシュワラへの強烈な至高の愛に終わる、宗教的悟りを目指す一連の心の努力だということを知るのです。」
「イシュワラとは誰か? “彼によって宇宙は生まれ、続き、そして崩壊する、その彼” ― 彼がイシュワラであります ― “不滅なる者、純粋なる者、つねに永遠に自由なる者、全能なる者、全知なる者、慈悲そのもの、全ての教師たちの師”・・・これらは確かに、人格神の定義です。 それでは哲学者(筆者註:ギャーナ・ヨギのことか?)が言う、“これではない、これではない”、サット・チット・アーナンダ、つまり“存在・知識・至福”と、バクタのこの愛の神と、二つの神が存在するのでしょうか。いいえ、それは愛なく神でもあられる同じ“サット・チット・アーナンダ”、超人格であり同時に人格である、一つの存在なのです。バクタが礼拝する人格神はブラフマンと別のものでも異なるものでもない、ということは、常に理解されていなければなりません。全てがブラフマン、第二なるものなき一者なのです。ただ、単一の、又は絶対なるブラフマンは、愛され礼拝されるにはあまりに抽象的なので、バクタはブラフマンの相対的な面、即ち最高の支配者イシュワラを選ぶのです。」

次はバクティ・ヨーガの方法と手段である。

「バクティ・ヨーガの方法と手段については、バガヴァーン・ラーマーヌジャ(筆者註:南インドの高名な聖者、哲学者であり、限定非二元論の創設者)のヴェーダーンタ・スートラの注釈書にはこう書いてあります。“それは、識別、欲情の制御、修行、犠牲供養、清らかさ、強さ、及び度を超えた喜びの抑制によって悟られる”と。ヴィヴェーカ即ち識別は、ラーマーヌジャによると、一つには不純な食物から純粋なものを識別することです。彼によると、食物は三つの原因から不純になります。①ニンニクのように、食物自体の性質から、②邪な、非難されている人々から来たために、③ごみや毛髪のような、物質的な不純物が混じっているために。“食物が清らかであるとサットワの要素が清められ、記憶力が確実になる”とヴェーダは言っており、ラーマーヌジャは、チャーンドギャ・ウパニシャッドからこの言葉を引用しています。食物の問題はつねに、バクタたちにとっては最も重要なものでした。あるバクティの宗派がのめりこんだ行きすぎは別として、この食物の問題の底流には深い真理が含まれています。サーンキヤ哲学によると、均質の平衡状態でプラクリティ(自然の根源力、プルシャに合一して宇宙をつくる)を形成し、異質の不安定状態で宇宙を形成するサットワ(調和、安定、叡智)とラジャス(活動、不安定)とタマス(惰性、不活発)はプラクリティの本質であり、また性質なのである、ということを、私達は覚えていなければなりません。そういうわけでそれらは、あらゆる人間の形を作り上げてる材料であります(筆者註:本章⑫‘プルシャとプラクリティ’の後段を参照)。そして霊性の発達にはサットワの素質が優勢であることが絶対に必要です。私達が食物を通じて肉体構造の中に受け入れる素材は、心の性質を大きく決定します。ですから、摂る食物には特に気をつけなければなりません。しかしながら、他の場合にもよくあるようにこの問題で弟子たちが必ず落ち込む狂信は、師たちの所為にすべきではありません。」

尚、その後著者はシャンカラの注釈書も引用しながら、この食物の識別は、結局は第二義的な重要性を持つものだと述べているが、“初心者は、信頼すべき教師たちによって代々伝えられてきた、全ての食物の掟には特別の注意を払うべきです”とし、次のように続ける。“しかし、我々の宗派(筆者註:ヒンズー教のことか)の多くの中に見られるような、宗教を完全に台所に追い込んでしまった行きすぎの、無意味な狂信は、独特の形の、正真正銘の唯物論です”と言う。

続いて‘欲情の制御’と‘清らかさ’である。

「欲情の制御は、次に注意を払わなければならないことです。感覚の対象に向かって行こうとするインドリヤス(諸器官)を抑制すること、それらを支配して意思の導きのもとに置くことは、宗教的教養のまさに中心をなす徳であります。それから自己制御及び自己否定の修行が来るのです。魂の内の神性自覚の莫大な可能性のすべては、奮闘努力がなければ、求道者によって右のような修行が実践されるのでなければ実現は不可能です。」
「清らかさは絶対に、バクティの全建築がその上にすえられるべき土台です。肉体を清潔にすることと食物を選ぶことはどちらもたやすいのですが、内部の清らかさと純粋さがなければ、これら外面のしきたりを守っても、何の価値もありません。浄化を助ける様々な性質の中で、ラーマーヌジャは次の項目を挙げています。 ― サティヤ(誠実)、アールジャヴァ(真摯)、ダヤー(報いを期待することなく、他者に善を施す)、アヒンサー(思いでも言葉でも他者を傷付けない)、アナビディヤー(他者の持ち物を欲しがらない、空しいことを思わない、そして他から受けた害のことをいつまでも考えない)。このリストの中で、特に心を留める必要があるのはアヒンサー、他者を害さない、という項目についてです。この義務は、云わば全ての生き物との関係において、我々に課せられているものです。それは人々に見られるように、人間は害さないが、もっと低い動物たちには無慈悲である、というものではないし、又別のある人々に見られるように、犬やネコは大切にし、蟻には砂糖をやるが、兄弟である人間をあらゆる恐ろしい方法で害して平気でいる、というものでもないのです!この世の殆ど全ての良い考えは、極端に実行されると厭わしいものになる、というのは注目すべきことです。

‘強さ’に就いては、少々意外ではあるが、次のように述べている。

「バクティ・ヨーガ達成のための、次の手段は強さ(アナヴァサーダ)です。“このアートマンは、弱い者は悟ることができない”とヴェーダは述べています。ここには、肉体の弱さと心の弱さの両方が含まれるのです。“強い、試練に耐えられる人”だけが、相応しい生徒です。・・・成功できるのは“若い、健康な、強い人々”だけです。肉体の強さは、それゆえ絶対に必要です。感覚器官制御の努力から生じる反動の衝撃に耐えることができるのは、強健な肉体だけなのです。バクタになりたいと欲する人は、強くなければなりません。健康でなければなりません。・・・心の弱い人々も、アートマンの悟りに成功することは出来ません。」

以上が準備段階のバクティの説明であり、次に著者はパラー・バクティ(最高の帰依)の考察に入るが、これもギーター等の聖典で説かれている放棄(或いは無執着)と深く関わっている。

「私たちは、このパラー・バクティの実践への一つの準備について語らなければなりません。このような準備の全ては、魂の浄化だけを目指すものです。称名、儀式、像及びシンボル、これら様々のもの全ては、魂の浄化の為にあるのです。このようなもの全ての中の最大の浄化者、それなしには誰もこのより高い帰依(パラー・バクティ)の領域に派入れない、という浄化者は放棄です。このことは多くの人を怖がらせます。しかし、それなしには霊的成長はあり得ないのです。我々のヨーガの全てに、この放棄は必要です。放棄 ― これは全ての霊的文化のふみ石(足がかり)であり、真の中心であり、真のハートです。放棄 ― これが宗教なのです。」
「人間の社会では人がけものに近ければ近いほど、彼の感覚の楽しみは強く、人がもっと高く、教養がもっと豊かであればあるほど、知的な、又他のそのような、もっと洗練された営みに喜びを感じます。そのようにして、人が知性の段階よりさらに高く、単なる思考の段階よりも高く登るとき、彼が霊性の段階、神的霊感の段階に達するときには、彼はそこに至福の境地を見出します。それに比べたら全ての感覚の楽しみは、いや知性の楽しみさえ、無に等しいのです。月が光り輝くと星々の姿はかすかになります。そして太陽が輝くと月そのものがかすかになります。バクティを得るために必要な放棄は、決して何かを殺すことによって得られるものではなく、ごく自然な形でやってきます。丁度、もっと強い光の前では弱い光は次々にかすかになってゆき、ついには全部が消えてしまうようなものです。ですから、この感覚の楽しみや知性の喜びへの愛は全て、神ご自身への愛によって影が薄くなり、かげの方に投げ捨てられてしまうのです。」
「・・・バクティが彼のハートを、神ご自身であるところの愛の大海の、神聖な水で満たすのです。そこに、小さな愛の入る場所などはありません。要するに、バクタの放棄はあのバイラーギャ、つまり神でない全てのものへの無執着であって、それはアヌラーガ、つまり神への深い愛着から生まれるのです。これが至高のバクティに至る為の理想的な準備です。この放棄が生まれると、その魂の為に、そこを通って至高の帰依(信仰)、つまりパラー・バクティという高遠な領域に入る為の、門が開かれます。」

続いて、著者はアプラーティクリヤという理想的な心境について語るが、その為に先ずサマシュティとヴィヤシュティという概念を説明している。

「最初にサマシュティ、普遍なるものを愛することなしに、どうしてヴィヤシュティ、個別化されたものを愛することが出来ますか。神はサマシュティ、総合された存在であり、抽象的な、普遍の全体です。そして我々が見る宇宙はヴィヤシュティ、個別化されたものです。宇宙全体をあいすることはサマシュティ、― 不変なるもの ― 即ち、云わばその中に無数の小さな単一体の見出される唯一の単一体、を愛することによってのみ可能なのです。・・・宇宙の全ての愛の総和が神である。自由な人々であれ、縛られた人々であれ、又は解脱を求めて努力しつつある人々であれ、宇宙の全ての魂の渇仰の総和が神である、という中心思想に到達したとき、そのときにはじめて、誰でも、普遍的な愛を愛することができるようになるのです。・・・もしこの総和を愛するなら、我々は一切のものを愛するのです。世を愛し世の為に善をなす、ということは、そのとき初めて楽に出来るようになるでしょう。・・・あらゆるものがバクタにとっては神聖です。全てのものは彼(筆者註:神、イシュワラのこと)のものなのですから。全ての人は彼の子供たち、彼のからだ、彼の現れです。どうして彼を傷つけることなどができましょう。どうして、愛さないでいることなどが出来ましょう。神を愛するなら、それの確実な結果として、宇宙間のあらゆるものを愛するようになるでしょう。」
「この種の強烈な心を奪う愛の結果として、完全な自己放棄(おまかせ)、何ひとつ自分にとって悪いことは起こらないと言う確信、即ちアプラーティクリヤが生まれます。・・・神と彼のものであるすべてのものへの強烈な愛から生まれる完全なお任せのこの境地に達したバクタは、自分が受ける影響に関して、楽しみと苦しみとを区別することをやめます。・・・(例えば飢えたトラに自身の肉体を差し出すような行為)それは愛の宗教の頂点であって、まことに目のくらむような高さであり、この世ではごくまれにしか、そこまで昇った人はいません。しかし、人がいつでも喜んで身を捧げるという、自己犠牲の最高の頂点に達するまでは、彼は完全なバクタにはなれないのです。他者への奉仕のためにその肉体を捧げる人々の幸いなるかな。“富、そして生命そのものまでも、賢者はつねに、他者への奉仕に捧げる用意をしている。この世で一つのこと、即ち死は確実なのだから、この肉体は悪いことのためより、良いことの為に死ぬ方がはるかによい”我々は50年、又は100年、生命をひきずって行くかも知れませんが、そのあとにおこるのは何ですか。結合の結果であるものは悉く、分解されて死ななければなりません。それが分解されるときは、来なければならないし、必ず来ます。イエスも仏陀もマホメットも皆死にました。・・・“あらゆるものが粉々になるこの儚い世の中で、私たちは与えられた時を最も有効に使わなければならない”とバクタはいいます。そして実は、人生の最高の生き方は、それを全ての人の為に捧げることなのです。」

著者はパラー・バクティ、即ち神への至高の愛の形を幾つかに分類している。初歩的なものから、シャーンタ(平和の道)、ダーシャ(召使の型)、サキヤ(友情)、そしてワーツサリヤ(自分の子供のように愛する型)などを挙げているが、最後に神聖な愛の理想の人間的な表現としてマドゥラ(甘美)という型を示している。これは、神を我々の夫として見る愛し方であり、『インドの光』(P111)の中でも言及されていて、「妻が夫を愛するように人の魂が神を愛することが出来るときに、愛の最高点に達するのである。」とし、この境地を体験する為にラーマクリシュナは女装をし、全く女になりきったように振る舞い、周囲の人を困惑させたこと、そして最後にはその至高の境地に達したこと等が書いてあるので興味のある方は参考にされたい。但し、これはラーマクリシュナであるからこそ可能であった話であり、通常の人がこのバクティ・ヨーガで解脱することは、極めて困難なことであると思う。

そして最後に著者は次のように結論付けている。

「我々は全て、愛の宗教では二元論者として出発しなければなりません。神は我々にとって離れた存在であり、我々は自分達もまた、互いに離れた存在であると感じます。やがてその間に愛が入って来て、人は神に近付きはじめ、神も次第々々に、人に近付いて来られます。人は、人生の様々の関係の全て、父親としての、母親としての、息子としての、友としての、主人としての、愛人としての関係を取り上げ、それらを彼の愛の理想、彼の神に投影します。彼にとって、神はこれらのすべてとして存在します。そして彼の進歩の終着点には、彼が、自分は完全に礼拝の対象に溶け込んだ、と感じるときに到達するのです。我々は全て、自分への愛から出発し、小さな自己の不当な要求は、愛さえも利己的にします。然しながらついに、光の目もくらむ輝きがやってきて、その中でこの小さな自己は、無限者と一つになったのが見られます。人自身がこの愛の光の前で変容を遂げ、彼はついに、愛と愛する者と愛される者とは一体である、というあの美しい、そして霊感を与える真理を悟るのです。」

本稿の締め括りに、田中嫺玉氏訳の『神の詩』(ギーター)から、バクティ・ヨーガに関連する数節を引用しておきたい。因みに‘わたし’とはクリシュナのことである。

「だが ‘わたし’に厚い信仰をもって 
全ての行為を‘わたし’の為に行い 
常に‘わたし’を想い 念じ 
常に‘わたし’を礼拝し 瞑想する者たち

常に心を‘わたし’に結び付けている者たちを 
プリターの息子よ 
‘わたし’は速やかに
生死の海から救い出す

常に‘わたし’のことのみを想い 
知性(ブッディ)の全てを‘わたし’に委ねよ
そうすることによって疑いなく 
君は‘わたし’のなかに住んでいるのだ

富の征服者 アルジュナよ もし
‘わたし’に不動の信心決定ができないなら 
信愛行(バクティ・ヨーガ)の実習に努めよ 
これによって‘わたし’への愛が目覚めるのだ

友も敵も等しく扱い、名誉不名誉に関心なく 
寒暑 苦楽 また賞讃 非難に心動かさず 
常に無益な交際をせず 無益な口をきかず 
何事にも満足し 住所住居に執着なく 
断固たる決心で心を‘わたし’に結び付け 
信愛行(バクティ・ヨーガ)にはげむ人を‘わたし’は愛する

‘わたし’を信じ 愛慕し ‘わたし’を究極至上の目的として 
この永遠不滅の法道を行く‘わたし’の信者を 
‘わたし’はこの上なく愛している」
 
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