時 代 を 視 る
WIN WIN代表 赤松良子
ニュースレター No.183
2015.6.11
6月はじめ、関西へ旅をした。堺と京都へ。私は大阪に生まれ、育ったからなじみ深く、良い旅だった。
堺といえば、与謝野晶子。ティーンエージャーのはじめ頃からインプットした歌はいくつもあるが、
最近になってこんな歌を知った。「男をば罵(ののし)る 彼ら子を生まず 生命を賭けず 暇(いとま)
あるかな」すごい、こわい。13人も子供を生んだ人だから、ずっと安産だったのだろうと思っていた。
大きな間違いで、「体中の骨が折れるかと思うほど苦しく、猪が吠えるような泣き声をあげて産んだ」
のだという。
やれやれ明治時代~大正時代だもの、産児制限の知識も無ければ、中絶なんてとんでもない、
子供を生むのは命がけ。それなのに男は? ののしりたくもなるでしょう。
堺市の女性が、晶子の像に捧げたもう一つの詩、「山の動く日、来る」はフェミニストとしての晶子への
オマージュ。「女が目ざめて動く」の思想の源泉は、女性差別への怒りでしょう。パリへ行ったのは
とても良かった。ヨーロッパの女性達の姿をその目で見た。第一次世界大戦の前ではあっても、
日本の女性と比べたらずっと自立し、生き生きと学び働いていたのだ。婦人参政権運動の勇ましさ
も見て感じるところがあったのではないか。それを見た目で帰国後日本の女性達を眺めて、これは
いけないと思ったのではないか、それがなかったら、いくら平塚らいてうから「青鞜」への寄稿を依頼
されても、「山の動く日来る」が書けるわけはなかった。日本の女性よ、動き出せ、とフェミニズムの
洗礼を受けた彼女は思ったのだ!
そして最後に(作った時代は早いが)「君死に給うこと勿れ」の思いの源流は?これは生命の大切さ、
戦争への嫌悪といえるであろう。国民の多くが、旅順の城の攻撃のために生命を落としていくのが
耐え難いのである。
「ああ弟よ、君を哭く」は何も一人の弟の身だけを云っているのではない。
だから明治の人達は怒った。平成の我々は、大いにこの詩を讃えようではないか。
それでも彼女は、失業してイトマをもてあまし、うつ病っぽくなった夫 寛を元気づけようと、当時誰もが
あこがれた(今もかな)パリへ送り出す。そうしたら、今度は淋しくてたまらず、七人の子供を置いて、
独りフランスへ向かう。家も育児も「かせぎ」も肩にかかっていたのに、よく放り出せたと思う。
だが、これは始めてのことではない。二十歳(はたち)の頃の堺を捨てた時の旅。恋人を追って東京へ、
知らない土地へ。新幹線なんか勿論ない、何十時間かかったのだろう。
生まれて初めての汽車の旅! この女性のこのエネルギーの源泉は何だったのだろう、と私は幾度も
考えこんだものだ。「美」に対するあこがれかなと思っていた時があった。
「清水へ 祇園をよぎる桜月夜 今宵会う人 みな美しき」が一番始めに覚えた歌だから無理もない。
でもこの人はもっと激しいと知り、その激しさの源泉は?と考えた。
それは「恋」でしょう。或いは「寂しさ」か?
「情欲」とよんだ方が正確な表現になるか?