現在ウィーン南駅が大改造のさなかですね。
今より西側のズュートティローラー・プラッツ側に建物全体が移動して、2012年から部分的に営業を始め、2015年最終的にウィーン中央駅として完成、再出発させるという計画です。
(*メモ Südtiroler Platz、ウ~ン、カナ表記するとなんとなく間が抜ける。意味は南チロル広場ということですが、これはナチの時代、開戦にあたって同盟国イタリアの支援を得るため、ヒトラーがオーストリア固有の領土であった南チロル地方をイタリアに割譲してしまい、現在に至っているもので、オーストリアの人々はそのことを忘れないように、今もあちらこちらに名前として残しているのです。)
ところで、ウィーン南駅ですが、中に入っていくと、南部鉄道線 (Südbahn) だけではなくて、東部鉄道線 (Ostbahn) もここを発着場所としていることに気がつきます。構造的に三階建てになっていて、2階に東部鉄道のホーム、さらに上がると、3階に東部鉄道ホームを90度回転させた形で南部鉄道のホームがあるという格好です。このこともこの駅を利用するたびに不思議に思っていました。
ウィーンにはもともと、東西南北すべての駅がありました。
わたしたちが暮らしていた頃、プラーターにある駅は、たしかウィーン北駅 (Wien Nord) って言ってたはずなのに、いつの間にか建物も立派になり、現在はプラーターシュテルン駅と称しています。1838年に完成したウィーン北駅はヨーロッパ屈指の大駅舎 (写真) だったようです。第一次大戦のときにはここから兵士が戦場に向かい、また、第二次大戦末期にはユダヤ人が強制収容所に送られるという暗い過去もありました。しかし空襲で破壊され、また戦後は東西冷戦構造のもと、国際列車を発着させる駅としての役割を終え、南駅に機能が吸収されていったようです (帝政時代この北駅と結ばれていたメーレン地方のブリュンという街も、第一次大戦後の独立により、メーレン地方はチェコスロヴァキアという国に、ブリュンはブルノと名前を変えました。このブルノ方面に向かう列車も東駅から発着するようになったのです)。

ウィーン北駅 (1908年、出典ウィキペディア)
このように、ウィーン西駅を除いて、北、東、南の三駅が現在のウィーン南駅に統合されているのです。
問題の東駅と南駅、これももともとは隣接する別の駅でしたが、どちらも同じ年、1846年に完成、営業を始めました。隣接していましたので、エントランス・ホールを共有する形に設計されたのです。ちなみに両鉄道は私鉄 (株式会社による経営) でしたが、1924年に国営化されました。
2015年の中央駅完成にともない、やがて取り壊される現在の南駅の建物、これは1956年に建てられたもので、駅舎として3代目になります。
ところでウィーン南駅には以前写真のライオンがエントランス・ホールにでん、と構え、乗客を出迎えていました。この姿記憶にある方も多いと思います。いつのまにか姿を消してしまいましたね。ウィーンの友達にときどき、「あれ、どうしたの?」って聞いたりしましたが、誰からも明確な返答は得られず仕舞で謎のままでした。

ウィーン南駅のライオン (2002年撮影)
このほど、ようやくわかりました。
このライオン、名前はマルクスのライオン (Markuslöwe) と言います。マルクスはイタリア語ではマルコ、ヴェニスのサン・マルコのマルコです。南駅は1866年までハープスブルクの領土だったヴェニス、アドリア海方面に向かう鉄道の起点として、ヴェニスのシンボルのこのライオンが1874年に建てられた駅舎の屋根に8体、据えられたようです。1875年に撮影された駅舎の写真、目をこらしてよく見ると、それらしい彫像がわかります。

ウィーン南駅 (2代目、1875年、出典ウィキペディア)
北駅とは違って、南駅は言われるほど第二次大戦の空襲による被害損傷はなかったようですが、1956年に今日のモダンな建物に建て替えられました。そのとき、マルクスのライオンは2体だけ、保存されることになり、その一体が新駅舎のエントランスに設置されたのです。姿を消しているのは、大改造のためで、どうやら、中央駅が完成したら、また、戻ってくるようですよ。
ヨハン
今より西側のズュートティローラー・プラッツ側に建物全体が移動して、2012年から部分的に営業を始め、2015年最終的にウィーン中央駅として完成、再出発させるという計画です。
(*メモ Südtiroler Platz、ウ~ン、カナ表記するとなんとなく間が抜ける。意味は南チロル広場ということですが、これはナチの時代、開戦にあたって同盟国イタリアの支援を得るため、ヒトラーがオーストリア固有の領土であった南チロル地方をイタリアに割譲してしまい、現在に至っているもので、オーストリアの人々はそのことを忘れないように、今もあちらこちらに名前として残しているのです。)
ところで、ウィーン南駅ですが、中に入っていくと、南部鉄道線 (Südbahn) だけではなくて、東部鉄道線 (Ostbahn) もここを発着場所としていることに気がつきます。構造的に三階建てになっていて、2階に東部鉄道のホーム、さらに上がると、3階に東部鉄道ホームを90度回転させた形で南部鉄道のホームがあるという格好です。このこともこの駅を利用するたびに不思議に思っていました。
ウィーンにはもともと、東西南北すべての駅がありました。
わたしたちが暮らしていた頃、プラーターにある駅は、たしかウィーン北駅 (Wien Nord) って言ってたはずなのに、いつの間にか建物も立派になり、現在はプラーターシュテルン駅と称しています。1838年に完成したウィーン北駅はヨーロッパ屈指の大駅舎 (写真) だったようです。第一次大戦のときにはここから兵士が戦場に向かい、また、第二次大戦末期にはユダヤ人が強制収容所に送られるという暗い過去もありました。しかし空襲で破壊され、また戦後は東西冷戦構造のもと、国際列車を発着させる駅としての役割を終え、南駅に機能が吸収されていったようです (帝政時代この北駅と結ばれていたメーレン地方のブリュンという街も、第一次大戦後の独立により、メーレン地方はチェコスロヴァキアという国に、ブリュンはブルノと名前を変えました。このブルノ方面に向かう列車も東駅から発着するようになったのです)。

ウィーン北駅 (1908年、出典ウィキペディア)
このように、ウィーン西駅を除いて、北、東、南の三駅が現在のウィーン南駅に統合されているのです。
問題の東駅と南駅、これももともとは隣接する別の駅でしたが、どちらも同じ年、1846年に完成、営業を始めました。隣接していましたので、エントランス・ホールを共有する形に設計されたのです。ちなみに両鉄道は私鉄 (株式会社による経営) でしたが、1924年に国営化されました。
2015年の中央駅完成にともない、やがて取り壊される現在の南駅の建物、これは1956年に建てられたもので、駅舎として3代目になります。
ところでウィーン南駅には以前写真のライオンがエントランス・ホールにでん、と構え、乗客を出迎えていました。この姿記憶にある方も多いと思います。いつのまにか姿を消してしまいましたね。ウィーンの友達にときどき、「あれ、どうしたの?」って聞いたりしましたが、誰からも明確な返答は得られず仕舞で謎のままでした。

ウィーン南駅のライオン (2002年撮影)
このほど、ようやくわかりました。
このライオン、名前はマルクスのライオン (Markuslöwe) と言います。マルクスはイタリア語ではマルコ、ヴェニスのサン・マルコのマルコです。南駅は1866年までハープスブルクの領土だったヴェニス、アドリア海方面に向かう鉄道の起点として、ヴェニスのシンボルのこのライオンが1874年に建てられた駅舎の屋根に8体、据えられたようです。1875年に撮影された駅舎の写真、目をこらしてよく見ると、それらしい彫像がわかります。

ウィーン南駅 (2代目、1875年、出典ウィキペディア)
北駅とは違って、南駅は言われるほど第二次大戦の空襲による被害損傷はなかったようですが、1956年に今日のモダンな建物に建て替えられました。そのとき、マルクスのライオンは2体だけ、保存されることになり、その一体が新駅舎のエントランスに設置されたのです。姿を消しているのは、大改造のためで、どうやら、中央駅が完成したら、また、戻ってくるようですよ。
ヨハン