ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

カーニバル

2011-02-13 18:20:16 | ウィーン
ちょうど今くらいの厳寒の時期、ヨーロッパの各地ではカーニバルのシーズンを迎えます。

カーニバルは日本語では「謝肉祭」という言葉が一般的だったような気がしますが、最近では東京浅草のカーニバルなども認知度を増し、そこに宗教色を含めない形でカーニバルと呼んでいるようです。

ドイツ語圏では地域により、Karneval, Fastnacht、Faschingと呼ばれます。

Fastnachtは文字通り「断食を前にした晩」という意味です。

ドイツ語圏の南の地域、特にミュンヒェン、またオーストリアでは Fasching という言葉が使われますがこれについては後で書きます。

北のドイツではもっぱら Karneval が使われます。「カーニバル」という言葉が初めてみられるのは17世紀末になってからで、ラインラント地方では1728年になって初出の例が確認されます。

語源は必ずしも明確ではありません。

19世紀半ばから20世紀初めまでは1855年のカール・ジムロック (Karl Simrock) による説明 ― ラテン語のcarrus navalis (ドイツ語でSchiffskarren) に由来する。これは車輪のついた船という意味で、毎年船の航行が再開されるにあたって行列をしたときに街を練り歩いた山車のこと ― が学術書でも使われてきました。ここからNarrenschiff  (愚者の船) の伝統が造られていったようだと説明されていました。現在ではこの説明は否定されています。キリスト教以前の古代ローマ時代の文献にも中世の文献にもcarrus navalis という言葉の使用例が実証されておらず、Simrockがつくった言葉だろうとされたからです。

今日最も受け入れられている語源としては、中世の carne levare から由来するという説明で、その意味は Fleisch wegnehmen (肉を断つ)、Fastenzeit (断食期間) ということです。Carne vale、が Fleisch, lebe wohl (肉とお別れ) を表すという説明はシャレからきたものです。

期間は地域により異なるようですが、多くは1週間です。しかし最終日はつねに火曜日(灰の水曜日の前日)です。一部の地域では、この火曜日をマルディグラ(肥沃な火曜日)と呼んでいます。パンケーキを食べる習慣は、四旬節に入る前に卵を残さないようにしているのです。

カーニバル期間のクライマックスはパラの月曜日です。ライン地方ではバラの月曜の行列が行われます。行列は「カメレ」という叫び声をあげる人々に向けてお菓子を投げます。

バラの月曜日に先だって、カーネーションの土曜日、チューリップの日曜日があり、断食前の火曜日 (マルディグラ) へと続きます。この火曜日はスミレの火曜日とも呼ばれます。

バラの月曜日の行列は、もともと花のバラ (Rosen) に関係しているのではなくて、rasen (荒れ狂う) という動詞からきたものでした。またバラの日曜日である断食期第4の日曜日からこの名が由来するという説もあるようです。

☆ ☆ ☆

カーニバルの時期は復活祭から逆算して出てくる日程です。

復活祭の日曜日の46日前は灰の水曜日 (Aschermittwoch) と呼ばれます。2011年で言えば復活祭が4月24日なので、その46日前の3月9日が灰の水曜日です。

四旬節の初日を灰の水曜日と呼ぶのは、その祝別に前年の椰子の枝を燃やした灰が使われる習慣からきたものです。

ガリアでは、重い罪を犯した人々が、聖書の楽園追放に倣って、贖罪に先だって教会から追放され、贖罪の衣に身を包み灰を振りかけられましたが、その習慣は10世紀初めころにはなくなり、代わって罪びとたちとの連帯から人々が身に灰を振りかけさせたことから、一般にこの習慣が引き継がれていったようです。
*前年の椰子の枝を燃やした灰を使うように定められたのは12世紀です。
この祝別では「汝が塵であり、塵に帰るものであることに思いをせよ」 „Memento homo, quia pulvis es, et in pulverem reverteris“ と祈りの言葉が述べられます。

灰の水曜日に始まる断食は肉を絶ち、精神生活と神に思いを馳せる意義を持つものです。
ドイツでは灰の水曜日は祝日ではないのですが、雇用主は雇用者が教会に行き祝別を受けることが出来るよう配慮しているようです。またカトリック地方の学校では生徒がミサに出席できるよう授業が休みとされます。

四旬節とは10×4で40日間のことです。なぜそれが46日になるかと言うと、その間の日曜日がカウントされないからです。ラテン語で Quadragesima クワドラゲシマと呼ばれる復活祭に至る期間であるこの四旬節は、「大斎節」と呼ばれたり、またプロテスタントの教派によっては「受難節」と呼ばれるように、キリストの受難に倣い、信者が節制の精神で自らを振り返る期間、とされています。日曜日はキリストの復活を祝う喜びの日なのでその日数に加えられないのです。
注) 復活祭前の6度の日曜日が断食から外されたのは1091年のベネヴェントの宗教会議においてでした。

初代キリスト教会では40時間断食をしたようです。それが、やがてキリスト教が普及していくにともない一般の信者にも復活祭前に節制を求めるようになり、期間も長くなり今日の四旬節になりました。
注) 600年に大聖グレゴリウスによって復活祭前の40日間の断食が定められました。

どこからこの数字が出てくるのかというと、モーセが民を率いて40年荒野を彷徨った、あるいはイエスが40日間荒野で過ごし、断食したという話からきているようです。

四旬節中に食事の節制を行う慣習には実践的な意味もあったようでよ。というのも、昔は秋に収穫されたものが春を迎える頃には少なくなってくるので、この時期食事を質素なものにして乗り切らなければならなかったからです。

そして、その言わば耐乏生活が始まる灰の水曜日を前に、人々はカーニバルをしたのです。どんちゃん騒ぎをして、さあ、四旬節を迎えよう、という感じですかね。


☆ ☆ ☆

カーニバルの想い出

カーニバルと復活祭の関係はクリスチャンの方にはいまさら説明も不要なことでしょうが、日本ではクリスマス同様、カーニバルも宗教行事ではなくて、ただのどんちゃん騒ぎとしか受け止められていません。
またそれは日本に限ったことではなく、カーニバルが世界に広まるにつれ、仮面をつけたり、仮装したりのどんちゃん騒ぎとしてのカーニバルは世界各地で見られます。

わたしたちもクリスマスと同じように、ヨーロッパでこの冬の時期を過ごす機会に恵まれたときにはカーニバルに出くわしましたし、意識してそのお祭り騒ぎを見に出かけたこともありました。


◎ 1984年ウィーン

ウィーン滞在も年が改まり1984年を迎え、残りわずかとなってきたころ街ではカーニバルのパレードが行われました。

わたしたちが過ごした頃のウィーン、普段は本当に人が少なくて、落ち着いているというか、寂しい感じの街でした。
しかし、この日ばかりはリンクもご覧のようにパレードで華やかに彩られました。

なにせ昔の写真のため、ネガも既に相当劣化してしまいました。


リンクでのパレード (1984年撮影)


国会議事堂前 (1984年撮影)

1983年/84年の滞在期間、ヨハンは夏学期、冬学期とウィーン大学の語学教室に通いました。最初の頃は授業が終わってクラス仲間とカフェにいっても、話に加わることもできずに、聞いているばかりでした。

冬のクラスでは、ふたりのクラスメートと最初から友達になることができ、ようやくいろんな話に花を咲かせることができました。

一人はポーランドからきていた女性のBさん。今、彼女はオーストリア国籍を取り、自然史博物館で働いています。

もう一人はエジプトからきていたS君。彼は一緒にカフェに行くと、ヨハンがしゃべらざるを得ないように、いろいろ質問をしかけてくれました。ありがたきものは友かな。S君はエジプトに戻って観光案内の仕事をするのだと言っていました。

1984年ヨハンはいったん帰国後、ウィーンに残してきたロザーリウムを迎えるために、その夏ウィーンを再訪しました。ポーランド女性のBさんが声をかけてくれてS君も交えて再会を果たしました。が、それがS君と会った最後になりました。その後Bさんとも音信不通状態に陥ってしまったのです。

でも、こんなことってありますね。2005年の夏、ウィーンを訪れたわたしたちがリンクで路面電車に乗り込み、ホテルに戻ろうとしたとき、私たちのそばに近よってきて、声をかける女性がいました。Bさんでした。もうそのとき彼女は自然史博物館で働いていたので、その路線を利用していたのです。でも、S君のことは彼女ももはや音信不通とのことでした。

Sは今、デモに参加しているんだろうか? エジプトのニュースを聴くとわたしは彼のことを思い出します。


◎ 1994年ヴェネチア

私たちは1993年再び1年を外国で暮らす機会に恵まれ、このときは壁が崩壊して間もないベルリンに行きました。

住まいとなった市営住宅は旧西ベルリンのヴェディングという地区でしたが、歩いて1分もかからない場所に壁があったところで、どちらかと言えば東ベルリンに住んだようなものでした。

東ベルリンの中心地であったフリードリヒ街に出るにも徒歩で済む場所。S バーンのフリードリヒ街の目の前にあったメトロポール劇場でオペレッタを観劇したあとは歩いてアパートに帰ることも可能でした。

冬になり、年が明けて滞在期間も残りわずかとなった頃、2月にヴェネチアで催されるカーニバルを見物するためのバスツアーがベルリンから出ることを知り、普段ツアーで旅行はしない私たちですが、この同じ時期ミュンヒェンに滞在していた友K君夫妻と連絡をとり、ヴェネチアで落ち合う約束をして、バスツアーに参加することにしました。

2月12日夜8時半ベルリンを発ちました。バスですから、ブレンナーは鉄道のようにトンネルをくぐっていくわけではなく、まさにアウトバーンを峠越えです。でも、夜中でしたから残念ながら視界はききませんでした。それに真冬ですから本当に寒くて、ブレンナーに近づくに従って窓も凍りついていきました。

私たちがこのバスツアーをする気になったのは、宿泊ホテルがヴェネチアのリド (以前夏にこの島で海水浴をしたことがあり、なつかしく思いました) にあるということと、ちょうどそのときにはライプチヒで知り合ったイタリア人がヴェネチアの人だったので、手紙で何月何日に行くこと、私たちの宿泊ホテルはリドにあることなどを知らせ、その人との再会も楽しみでした。

ブレンナーを越えればイタリアです。たぶん東独時代には西側世界に個人的な楽しみで旅行するなんてことは夢のまた夢だったであろう満席のツアー客を乗せたバスはいよいよ夜が白み、朝を迎えるころヴェネチアに近づきました。

しかし、どんどんバスはあらぬ方に走っていきます。あれ、ヴェネチアから遠ざかっていく、とヨハンは窓外に確認できる標識に書かれた地名を見て思ったものでした。

リドという地名がもう一つあることには全くそのときまで知りませんでした。

しかし、このもうひとつのリド、豪華なホテルが立ち並ぶリゾート地です。それは嬉しい気持ちにさせてくれたのですが、近づくにつれ、がっかりです。こんなシーズンは訪れる人もいないのでしょうね。ホテルはどこも休眠状態でした。わずかにベルリンのツアー会社が押さえたホテルがなんとか営業していたような感じ、私たちを迎えてくれました。

ここに二晩泊まることになったのですが、暖房が利かず、ツアー客は「コートを着たまま寝たんだ」と不満爆発でした。二晩とも部屋には暖房が入ることはありませんでした。

その代わり、このリドからはヴァポレットに乗り込み、われわれは海からカーニバル真っ最中のヴェネチアに入ったのです。


途中の停泊所からこのように仮面と衣装に身を飾ったカーニバルモードフル回転のお客さんたちが乗り込んできて、ヴァポレットの中が既にカーニバル状態でした (1994年2月13日撮影)

リドに2泊しましたから、寒い一晩を過ごした翌日、わたしたちは、K君夫妻と、さらにイタリア人の知人のカップルとも無事サン・マルコで再会することができました。


このサン・マルコには写真のように顔にペインティングをしてくれる人たちがたくさんいました (1994年2月13日撮影)

ヨハンもロザーリウムもこの写真の人のように、翌14日サン・マルコを訪れたときには、ペインティングをしてもらい、少し、カーニバル気分に浸りました。

しかし、この時は本当に寒くて、さすがにイタリアでも冬は寒いんだと実感させられました。外にしばらくいるだけで手がじーんとしてきます。ベルリンだってこんな寒い思いはしなかったのに。

記憶に残るカーニバルでした。


2泊目を過ごし、バスツアーがベルリンに戻る日、わたしたちは、帰りのバスを放棄して、ここから鉄道でウィーンに向かうことにしたのです。駅に向かう途中のスナップ写真。これはヨハンのお気に入りの写真です。(1994年2月15日撮影)


◎ 2009年ローザンヌ


(2009年5月3日撮影)


*スイス、レマン湖畔のこの街、発音は「ロザン」です。
どうして日本語では「ローザンヌ」と長読みするかと言えば、au が長い「オー」と意識されてるんでしょうね。
二か月住み、毎日地下鉄に乗ってこの駅名を聴きましたから、「ローザンヌ」と書くのはなんだか別の街のように感じられて、気持ち悪いのですが ― たとえば、そうですね、「横浜」を「よーこはま」って読んだら、気持ち悪いのと同じです ― でも、「ロザン」じゃなあ、誰も理解してくれないから、「ローザンヌ」とします。
でも「カフェ・オー・レ」と言う人は、幸い最近は少なくなりました。

前書きが長くなりました。
2009年わたしは半年海外に出て勉強することを許されました。
ローザンヌには1982年以来の知人Aさん夫妻が暮らしています。遊びに行くたびに、「今度長期に研究休暇がもらえるのはいつか?」と聞かれます。

真っ先にローザンヌの知人が頭に浮かびました。「よし、この機会に今まで何度もチャレンジしては仕事のため断念して、常に中途半端で元の木阿弥になってきたフランス語、この際現地の学校に通ってみよう」と思い、それについては、パリとか、ドイツに近いストラスブールとか、考えるなか、友達が「来い」と返事をくれたら、ローザンヌにいこう、と決めたのです。

友達A夫妻は、夏は海外に旅行してしまいます。そんなことで、インターネットで検索したフランス語学校の春のコースを選び、4月上旬はヨハンとしてもどうしても日程を曲げるわけにはいかないほど、今まで書いてきましたように、スイス、ドイツの劇場を駆け回って、珍しいオペレッタを観劇し、いったん日本から遅れてくるロザーリウムを迎えにウィーンに戻り、4月末までウィーンで過ごして、5月1日の飛行機でウィーンからジュネーブに移動することにしました。

しかし、自分の都合だけで日程をあれこれ考え、よく出来た、と自画自賛していても、大変な落とし穴があることに、移動日が間近に迫ってきたときに、気づかせられました。

5月1日の移動日。

そうです。日本ではもう「メーデー」なんて死語同然ですが、オーストリアは今でも労働者の権利は尊重されています。メーデーの日は公共交通機関に相当な影響がでることが分かったんです。

ヨハンたちはウィーンの路面電車が大好き、移動日は低床のこの路面電車を使って空港バスが出るバス停まで行くことにしていたのですが、ひょっとしたら路面電車そのものが動かないかもしれないと不安になってきたものです。

まあ、タクシーを使えばそんなことは悩む問題ではないのですが、ねっからの貧乏性で、どうしてもタクシーは贅沢という観念から逃れられないヨハンたちなのです。

しかし、なんとか路面電車は当日も動いてくれました。

そして5月1日無事オーストリアからスイスに移動。

ロザーリウムが再び日本に一時帰国する5月10日までの間わたしたちはA夫妻のマンションに泊めていただき、その間、学校の場所を確認したり、ロザーリウムが帰国した後はわたしは郊外のエパランジュのB&Bに泊まることにしていましたから、そこにも連れて行ってもらい、オーナーに挨拶。1日、2日、3日とあわただしく過ぎました。そしてエバランジュから地下鉄!!! (アルプスの国スイスで唯一ローザンヌには地下鉄が走っております。しかも、現在2路線!!! Aさんは、これを言いながら、頬をほんのり染めました^^) でローザンヌの街に戻ってきたときに、今回のタイトルのカーニバルです。
*ちなみにローザンヌの地下鉄、すべて無人運転です。スイスの実力をなめるなよ。誰もなめてはいないか。


(2009年5月3日撮影)

Aさんは、「全く宗教とは関係ないお祭り、街おこし」と冷ややかでしたが、お祭り好きのわたしたちは、街でAさんたちといったんバイバイして、このお祭りを見学いたしました。

出店もいっぱいでて、目の前でラクレットを作ってくれるお店には食いしん坊のわたしたちも誘惑にあらがうことはできませんでした


(2009年5月3日撮影)

帰途みつけた母子連れ


私たちのお気に入りの一枚です (2009年5月3日ロザーリウム撮影)


ちなみに、ローザンヌには靴屋さんが多いです。それはなぜか、この写真でお分かりでしょう?
坂ばっかりの街ローザンヌではこのお嬢ちゃんが使っている片足でこぐスケーターおおはやりです。そりぁあ、その分キックする方の靴の底が早く減りますよ

☆ ☆ ☆

ところで私たちが1983年/84年、ウィーンで一年過ごしたとき、実は11月に住んでいた地元のカーニバルに少しばかり参加した記憶があります。カーニバルの意味合いも分からず、仮装して大騒ぎをする日と記憶しただけでした。

考えてみると年が明けて1月(だったと思いますが、写真に日付もないので今は不明です)にまたカーニバルのパレードをリンクに見に行ってるわけですから、なぜカーニバルが2回あるのか、その時に追及しておくべきでした。

11月のカーニバルは写真も撮らなかったのか、思い起こすすべとしては記憶だけです。その記憶が、これまた妙なこととのつながりを見せるのです。
11月11日はヨハンとロザーリウムの結婚記念日なのです。

式にご出席いただいたドイツ暮らしの長かったT先生からは、この日が近づくと何度か、「そういえば君の結婚式はカーニバルと同じ日だったね」と言われたものです。本人たちより、列席していただいた方に覚えてもらうに都合のよい日となったようでした。

そこでなぜカーニバルが年に2回もやってくるのかも調べました。

謝肉祭(カーニバル)期間はドイツ語圏においては伝統的に1月6日の公現祭 (Dreikönigstag、三王ご公現の祝日) から始まるとされています。

しかし、19世紀から多くの地域で加えて11月11日11時11分をもっていくつかの催事が執り行われるようになりました。とりわけプリンスのカップルがお披露目されたのもその一つです。

とは言っても、11月12日から1月5日までの期間はライン流域のもろもろの地域においても、依然としてカーニバル期間から外れていたことは、クリスマス前が断食期間 ―354年にキリスト誕生のお祝いが確定された直後から、それに先だって40日間の断食期間が置かれました― で、11月は哀悼月、したがって待降節には沈思的な性格が与えられていたことから明らかです。

ですからカーニバルの開始時期が前送りされ、11月11日をシーズンの幕開けと説明してしまうと、誤解を招いてしまいます。

むしろ成立の経緯から言えば、11月11日はむしろ「プチ」カーニバルをあらわすもので、1823年ケルンの「祝祭規定委員会」により法的に規定が出来たカーニバルの行列の準備の開始日にこのずらずらと1が並ぶ馬鹿げた日付を選んだということらしいようです。

☆ ☆ ☆

カーニバルについて調べ始めたら、正直知らないことだらけで、ヨハンにはいい勉強になりましたが、無知ゆえの誤りを犯していることが大いに考えられます。


これを書いていた2月6日、ヨハンの誕生日にウィーンのOさんからお祝いの電話をもらいましたので、カーニバルをはじめ、いくつか最近これらの記事を書いていて疑問に思っていたことを尋ねてみました。

11月11日にプチ・カーニバルをすることは、Oさんも知っていました。ウィーンではどこでもそうなのか、との問いについては明確な答えはありませんでしたが、私たちが当時住んだ14区で経験した、という話には、ありうるとの答えでした。ドイツのライン地方だけの風習ではないことは確かのようです。


ヨハン (2011/02/13)



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