ウィーンわが夢の街

ウィーンに魅せられてはや30年、ウィーンとその周辺のこと、あれこれを気ままに綴ってまいります

ウィーンのファッシング ―オーパンバルの歴史

2011-02-24 10:00:38 | ウィーン
◎ ファッシングと舞踏会

ウィーンではカーニバルのことをファッシングと呼びます。

この言葉 Vaschang/ Vaschanc はすでに13世紀に使われ始めました。語源は Fastenschank という言葉で、当時まだ厳格に守られていた断食期間を前にしての最後のお酒の販売 (Ausschank) を表しています。

このファッシングの期間がウィーンではまた舞踏会のハイ・シーズンでもあります。
毎年この舞踏会シーズンにウィーンを訪れる人々の数は4,700人ほど、その半数は外国からのお客さんです。オーストリアの観光産業にとって舞踏会が持つ広告効果は欠くことのできない経済要因の一つになっているのです。

ちなみにウィーンでは年間400以上の舞踏会が開かれています。参加者の人数を合算すれば年30万人以上の人が舞踏会に参加している計算です。


◎ ウィーンの舞踏会

それにしてもなぜ舞踏会をパルと呼ぶのか不思議ですが、簡単に言ってしまえば、フランス語のバレエと同じ語源からきたものです。

ドイツ語圏では舞踏会は先ずは Dantz と呼ばれていました。しかし17世紀にフランス語の bal ―ラテン語の ballare (踊る) からフランス語 baller が生まれ、そこから bal (舞踏会)、ballet (バレエ) が造られました ― が入ってきて、18世紀には一般にあらたまった舞踏会をパル (Ball) と呼ぶようになったのです。

ウィーン舞踏会公式暦を見ると、さまざまな舞踏会が行われていることが分かります。《フロリッツドルフ水難救助隊舞踏会》なんていうのもありますが、そんなので驚いてはいけません、《ホームレス舞踏会》、《難民舞踏会》っていうのもあるのですから。

舞踏会が始まる時間は夜、通常20時くらいです。ガーデンパーティで軽い飲み物から始まってパルに移っていくようなケースだと17時とか18時に始まることもあります。しかし開始時間は季節がいつかにもよって変わります。


◎ オーパンバル

ウィーンのファッシングで現在も大きな社交イベントのひとつに数えられるのがウィーン国立歌劇場で開催されるオーパンパル (Opernball オペラ舞踏会) です。入場者が12,000人ほどを数えるくらい、国の内外から芸術家、企業家、政治家を一堂に集めてのオーストリア最大の行事と呼んでよいものです。

オーパンパルの伝統は1814/15年のウィーン会議の時代にさかのぼります。この政治的な出来ごとに合わせホーフオーパー (宮廷歌劇場) の芸術家たちがダンスの会を催したのです。初めて今日の場所でオーパンパルが開催されたのは1877年12月11日の夕べでした。
帝政が終焉した後も、この伝統は直ぐに復活されました。1921年1月21日には第一共和政下での最初のオペラ舞踏会 (Opernredoute) が開かれています。

オーパンパルの名で開かれた最初の舞踏会は慈善を目的に開催されました。
以来オーパンパルは(ほぼ)毎年ファッシング期間中の最後の木曜日にウィーン国立歌劇場で開催されてきました。例外は第二次大戦時のような戦時下でした。しかし1939年には開戦が差し迫るなか、ドイツ帝国政府の命令によって挙行されています。

1956年2月9日に第二次大戦後初めて再会されます。その後のことで言えば湾岸危機を理由に1991年にも中止されました。大勢の国の内外からの来賓客をお招き出来る保障がなかったためでした。

ウィーン国立歌劇場はこの舞踏会の日地下室から天井裏まで至るところが開放され、すべての人が通り、また踊ることができます。
また毎年カジノ・オーストリアがオーパンパルのために館内に運だめしのためのカジノコーナーを開設しています。
レストラン、シャンペンバー、牡蠣バーのほか、ホイリガーも開設されます。ケータリングのサービスのほとんどを受け負っているのはウィーンの宮廷御用達菓子店カフェ・ゲルストナー (K.u.K. Hofzuckerbäckerei Café Gerstner )です。

2005年に初めてオーパンパルでの禁煙が宣言されましたが、この頃にはまだ喫煙者のために2つサロンが用意されたりしていました。2008/2009年のシーズンから全面禁煙となり、喫煙者用に小さなバーがいくつか設置されました。

2007年には初めて盲導犬がオーパンパルに入ることが許可されるようになりました。

☆ ☆ ☆

オーパンパル (オペラ舞踏会) のオープニングには180組ほどのデビュタントたち (das Jungdamen- und Herrenkomitee) が参加します。彼らにとってこの日が社交会デビューとなり、大人社会に仲間入りが許されるという次第です。したがってここで大切なことはダンスの上手い下手ではなくて、社交の場にふさわしいマナーを身につけていることです。

ファンファーレとともに連邦大統領がロージェに到着します。連邦国歌、第九合唱 (Freude, schöner Götterfunken) の演奏後、カール・ミヒャエル・ツィーラー作曲の扇のポロネーズが演奏される中デビュタントたちがホールに入場してきます。

注) 2006年に山本大輔氏が自ら取材され紹介している「デビュタント」たちの記事 (ウィーン発BOE、VOL.20ウィーンの舞踏会) では入場の曲としてショパンの軍隊ポロネーズが演奏されたと紹介されています。必ずしもデビュタント入場の曲は毎年同じと決まっているわけではないようです。

2008年のオペラ舞踏会の模様を ORF がライブ中継したものが YouTubeに 画像 up されていましたのでご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=ZFSAdRM-yh4&feature=fvst

デビュタントの入場シーンです。アナウンサーが音楽は Fächerpolonäse と紹介していますね。

検索画面にはこの曲 Fächerpolonäse そのものも up されていましたので、あわせてご紹介しておきます。

http://www.youtube.com/watch?v=PQ_l5OVdHH4&feature=related


デビュタント全員によるダンスが終わると開会宣言。それを受けてデビュタントたちが最初のワルツを踊ります。最後にデビュタントを指導したダンス学校の先生が「皆様ワルツをどうぞ」 ― 伝統的にヨハン・シュトラウスに倣い <Alles Walzer> と声がかけられます ― の呼びかけにより、舞踏会がスタートします。(一部山本大輔氏からの引用)

真夜中0時に真夜中のカドリユが始まり、朝3時には次のカドリユが始まります。

舞踏会の終了時刻は朝五時きっかりです。きっかりという言葉はPunkt 5です。オペレッタ 《こうもり》 では6時の鐘がなるとアイゼンシュタインが大慌てしましたね。

舞踏会の終了にあたってはオーケストラが次の三曲を演奏するのが伝統です。

ワルツ 《美しき青きドナウ》、《ラデツキー行進曲》、そしてフェルディナント・ランムントの『百万長者になった農夫』(1826年初演) という作品に出てくる 《かわいい兄弟》 ( „Brüderlein fein“ )です。

*この曲は歌詞からして《蛍の光》のようにお別れの曲として選ばれているようですね。

Brüderlein fein, Brüderlein fein, zärtlich muß geschieden sein,
Brüderlein fein, Brüderlein fein, s' muß geschieden sein.
Denk manchmal an mich zurück, schimpf nicht auf der Jugend Glück.
Brüderlein fein, Brüderlein fein, schlag zum Abschied ein.

かわいい兄弟よ、静かにお別れしよう
かわいい兄弟よ、お別れは避けがたい
ときに私のことを思い出してくれ、青春の運に悪態をついてはならぬ
かわいい兄弟よ、さあ旅立って行け

☆  ☆  ☆

オーパンパルは国立歌劇場で開催されるとしても通常のオペラ公演のように一般の私たちにとって、チケットを購入すれば誰でも入場が許されているというものでありません。

ウィーンのオーパンパルには複雑な招待システムがあるようです。

1Aランクの人々、ここには名士がランクされます。V.I.P.ですね。この方々は舞踏会を輝かしいものにする招待客です。

Aランクの人々。やはり招待で舞踏会に花を添えていただく存在です。

一般の名士には慇懃な招待状の形でチケットに値が付けられたものが送られます。

これ以外の人々にはパルが支援するチャリティに寄付をするという形でチケットを手に入れる方法が残されています。

年間を通して寄付を幾度か重ねることで、ひょっとして一つ上のランクの形式招待状 (チケットを購入する招待状) を送られるようになる可能性があります。その場合でもチケットは2枚が限度と厳しく定められています。

いずれにせよこうした場合コネが最大のポイントらしいようです。催しのスポンサーにはチケットの割り当てがあり、彼らはまた独自の選択基準によってビジネス・パートナーなどにチケットを譲っています。

書面による招待状は遅くとも2、3週間前には送られ、舞踏会の趣旨のほか、服装についての注意が書かれています。

☆  ☆ ☆

最後に Brüderlein fein も検索してみましたのでご紹介しておきます。

最初の動画はウィーン少年合唱団です。来日公演の画像でしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=H3cUz7WzBBg&NR=1

タイトル字幕は「かわいい兄弟」ヨーゼフ・ドレヒスラーとなっています。たぶん NHK の中継を録画したものと思われます。

しかし、別のところでも書きましたが、NHK には相当優秀なスタッフと潤沢な予算があるはずなのに、どうしてドイツ語の発音をチェックしないのでしょうかね? 本当に不思議です。

作曲家 Joseph Drechsler (1782-1852) も今は検索で簡単に調べることが可能です。発音はもちろんヨーゼフ・ドレクスラー です。

次にご紹介する画像はお芝居の舞台で歌われているシーンです。字幕が残念ながら中国語です

http://www.youtube.com/watch?v=y2UCFdQm5hg



☆ ☆ ☆


現在のウィーン・オペラ舞踏会は見てきましたように、連邦大統領はじめ、すべての政府関係者が出席し、国内外の賓客を招き、正装の上勲章を身につけ集まる催しであることからして、政治的な意味を持つ国家イベントであることは明らかです。このことはそもそものオペラ舞踏会の成り立ちからしてはっきりしていました。
オーパンバルのもとになったホーフパル(宮廷舞踏会) が開催されていた時期は12月でした。しかし教会側からAdvent (待降節) の精神世界に思いをすべき大切な時期に宮廷が舞踏会 (それもこの時期一度だけではありませんでした) を開いてどんちゃん騒ぎ (という言葉で教会が非難したかは別ですが) をしているのはいかがなものか、とクレームが激しくなってきたのです。

そこでホーフパルは表向き断念され、リング* に8年前に新しく建設された今日の歌劇場**に場所を移し、Opernsoirée (オペラ座の夜会) という形で公式の舞踏会を再会した (1877年12月11日) のが今日のオーパンバルの起源です。

ライプチヒ挿絵新聞は翌1878年1月18日の記事でオーパンバルがオーパンソワレと姿を変えはしているものの実態は元通り。しかし教会は主張が聞き入れられたことに満足し、他方舞踏会なくしては生きられないウィーンの血 (Wiener Blut) も満足するというまことにウィーンらしい解決法、と紹介しています。(Bartel F. Sinhuber 《Alles Walzer》, Europaverlag) 

そして翌年にはカーニバルの時期にあわせ3月2日に歌劇場で最初の《Redoute》 ***(舞踏会)が開催され、今日のオーパンバルの形がきまったのです。

(*リング: 1858年にウィーンの都市改造が始まり、街をとり囲んで来た城壁が壊され、リング通りが造られていきました)

(**ウィーン国立歌劇場: 1869年5月25日がこけらおとしでした、ちなみにこの歌劇場はもちろん当時は宮廷歌劇場と呼ばれていました。第一次大戦後の共和制下では単にオペラ劇場と呼ばれ、国立歌劇場 (Staatsoper) はそれまで通称として使われていましたが、正式呼称となるのは1938年のナチスに併合された時代です)

(***Redouteという言葉はもともと城塞の四角い堡のことでしたが、それが舞踏会場に使われ、舞踏会そのものにも使われるようになりました)


☆ ☆ ☆


カーニバルについて調べ始めると、その宗教的な意義に踏み込んでいかざるを得ませんでした。しかし面白いことに、さらに歴史をたどると今度はまたカーニバルには、なんとかその宗教的な意味を薄めてというか、むしろ排除して世俗化していこうというエネルギーが実は昔からあったことも分かってきます。
ヘルマン・シュライバーの『ヴェネチア人』にはこの街の文化そのものであったカーニバルについて、このように記述されています。

「十月の最初の日曜日に、ヴェネチアでは毎年カーニバルが始まった。クリスマスでちょっと、四旬節でもう少し長く中断されたが、御昇天の大祝日のあとでなお二週間のカーニバルがつづき、それから貴族たちは田舎へ出かけた。こういうわけで、つまるところヴェネチアにいればいつでもカーニバルであって、ほかのところではカーニバルの数週間のあいだだけ忘れられるきびしい習俗を回復するのに、この短い中断期間では足りなかった。
人生のこういうすごしかたは十八世紀とともに始まった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著、関楠生訳、河出書房新社)

ドイツ、ライン河畔の内陸部にみられる宗教と強く結びついた催しであり続けるカーニバルと、海洋都市ヴェネチアとではカーニバルもまったく別の色彩を帯びて見えるのです。

世界に開かれた都市国家ヴェネチアが貿易で栄えるためには、もちろん宗教によって交易相手が排除されるなどということはあってはならないことです。この街では寛容が支配したのです。
楽しいことは一日でも多い方がいい。それは宗教的には堕落の非難を浴びることかもしれませんが、それは経済活動を活発にするための潤滑剤でした。シュライバーによって記述されるこの十八世紀ヴェネチア型の開かれた文化は、やがて十九世紀フランスへと伝播していきます。それがパリの万博であり、オペラ舞踏会の世界でした。オペラ舞踏会からすっかり宗教色は抜け落ちてしまうのです。

しかしそのことに話を進める前にヴェネチアから生まれた世界的な二人の人物を思い出しておくことにしましょう。

一人はもちろん『東方見聞録』のマルコ・ポーロ (1254-1324)です。

そしてもう一人はジャコモ・カサノヴァ (1725-1798)。17世紀スペインの伝説上の人物ドン・ファンにひけをとることのないプレイ・ボーイの代名詞のようなこの人物こそはまさに18世紀ヴェネチア型の代表人物でした。

「自由思想家の原型として、カザノヴァは自由な物の考えかたをする同時代人の見識ある人々にとって、決してネガティヴな人間ではなく、ある発展の最終生産物であった。十六世紀には、ルネサンスの「全能人」が他の男たちを圧倒した。十七世紀には、廷臣が最も輝かしい光を放ち、十八世紀には、宮廷と社会の退廃が、独立のアウトサイダーを、半ばは嘲笑し半ばは感嘆しながらみずからの没落を映し出す像として析出し、それを山師、賭博師、いかさま師というさまざまのかたちで刻印したのであった。
この種の男たちが、周囲や家族や仕事への配慮にしばられた定住の市民よりも女にもてたことは、ディドロの診断を俟たずとも明らかであろう。」

「アヴァンチュールの世紀があるとすればそれは十八世紀であり、アヴァンチュールの町があるとすればそれはヴェネチアである。つまりヴェネチア人カザノヴァには、同じような心を持つ同国人、同時代人がいたのである。しかもその数はたいそう多くて、まるまる一世紀が過ぎてみないと、ジャコモ・カザノヴァがそれらのだれよりもすぐれていた―(略)―ことがはっきりとわからないほどであった」(『ヴェネチア人』ヘルマン・シュライバー著)

このカサノヴァの回想録、まるでレポレロが披露する主人ドン・ジョヴァンニのカタログのような書物、それは1820年にライプチヒのブロックハウスから出版されました。


ジャコモ・カサノヴァ


前回ライプチヒ挿絵新聞の1878年1月18日の記事について触れました。そこにWiener Blut (ウィーンの血*) という言葉が使われていることがヨハンにはまたまたとても気になり始めました。もちろんヨハン・シュトラウスの死後完成され、上演されたオペレッタのことでないのは間違いありません。しかし、新聞が独自にこの言葉を初めて使っているとは到底考え難いことです。
調べてみるとこのワルツWiener Blut (op.354) は1873年に、オーストリア大公女ギーゼラとバイエルン王子レーオポルトの婚礼祝賀舞踏会のために作曲されたものでした。新聞の記事が書かれる5年前です。これはウィーンのことをあらわすのに最適な言葉になると広がった当時ホットな言葉だったのでしょうね。

(*Wiener Blutはウィーン気質という訳がすっかり定着しています。あまりいちゃもんばかりつけているとクレームおじさんになりそうなのですが、この訳語もヨハンは気にいらない訳語です。どうしても職人気質のようにあとから身に付けた性格という感じに受け取られるからです。これは、どうしても生まれつき体の中を流れる「血」でなくてはいけないのです。江戸っ子だって、たしか3代続かないと江戸っ子って呼ばれないのではなかったんじゃないでしょうか? そんな訳でヨハンはウィーン気質という言い方は採用しません)

オペレッタ『ウィーンの血』の方はヨハン・シュトラウスの死後、アードルフ・ミュラーによって完成され、1899年にカール劇場で上演されました (台本ヴィクトール・レオン&レオ・シュタイン)。

このオペレッタ、バルドゥインの妻ガブリエーレはその登場の歌《Grüß dich, Gott, du liebes Nesterl》でこのように歌っています。

Die Bibliothek! Mancher Roman,
Den man wohl liest,
Doch nicht erleben kann!
Homer, Wieland, Klopstock, Euch hielt ich mir
Als Aufputz hier!
Was seh ich da?
Da schau, ei, ei,
Casanova? Das ist mir neu!

蔵書、たくさんの本
読むことはあっても
経験することはない話
ホメロス、ヴィーラント、クロップシュトック、
部屋を飾るにはぴったし
これは何かしら
おや、おや
カサノヴァ? 見たことがない本だわ


気にもとめることなく聞き過ごしてしまいそうですが、ヨハンはずっとこの部分引っかかっていました。ガブリエーレが覚えのない書物のタイトルに目をとめるところです。堅物のロイス-シュライツ-グライツの公使ツェードラウ伯爵の夫バルドゥインが蔵書に買い求めた以外にあり得ないことです。このオペレッタの時代設定はウィーン会議の頃とされています。カサノヴァの『回想録』が出版されるよりも少し時代を早く設定してしまったことは、台本作家のご愛嬌ということにしておきましょう。


ヨハン (この記事は2011/02/13と2011/02/19に投稿したものをまとめたものです)



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