本日のランチはヤキスバ。
いきなり梅雨明け?昨日はバケツひっくり返したような雨だったのに、うって変わって本日は沖縄日和。
屋外のゆんたくテーブルで食べようと思ったけどジリジリ暑過ぎ、縁側で頂きました。
何だか殆どお客さんのように昼からビール飲んで、食後にアイス食ってとノンビリ過ごしてます。
今日のチェックインは2組、どちらも20時過ぎのゆっくり到着。
琉球新報を眺めると、新進気鋭のルポライター竹中労が初めて沖縄へ行った頃(1969年)の記事が載ってました。彼が約40年前に沖縄音楽のすばしさを本土に知らしめた功績は、計り知れないものがありますね。
「多額の赤字を背負って、フェスティバルを強行しなくてはならなかった、中止できなかった、なぜならそれは、“興業”ではなく、運動だったから」(「島うた通信-冬」)
竹中の情熱と行動力は、多くの貴重な音源や著作を残し、その後の島唄ブームの種火となりました。
トムバーラインやパティースミスがパンクの導火線に火を付けようとしていた70年代初頭、日本では嘉手苅林昌や大城美佐子が本土へ渡って、その特異な音色で皆を驚かしていたのでした。
いきなり梅雨明け?昨日はバケツひっくり返したような雨だったのに、うって変わって本日は沖縄日和。
屋外のゆんたくテーブルで食べようと思ったけどジリジリ暑過ぎ、縁側で頂きました。
何だか殆どお客さんのように昼からビール飲んで、食後にアイス食ってとノンビリ過ごしてます。
今日のチェックインは2組、どちらも20時過ぎのゆっくり到着。
琉球新報を眺めると、新進気鋭のルポライター竹中労が初めて沖縄へ行った頃(1969年)の記事が載ってました。彼が約40年前に沖縄音楽のすばしさを本土に知らしめた功績は、計り知れないものがありますね。
「多額の赤字を背負って、フェスティバルを強行しなくてはならなかった、中止できなかった、なぜならそれは、“興業”ではなく、運動だったから」(「島うた通信-冬」)
竹中の情熱と行動力は、多くの貴重な音源や著作を残し、その後の島唄ブームの種火となりました。
トムバーラインやパティースミスがパンクの導火線に火を付けようとしていた70年代初頭、日本では嘉手苅林昌や大城美佐子が本土へ渡って、その特異な音色で皆を驚かしていたのでした。