「【ペリリュー島(パラオ共和国)=前田啓介】太平洋戦争の激戦地として知られる西太平洋・パラオ共和国のペリリュー島で15日、米軍の上陸開始から70年を記念した式典が開かれた。
式典には、無条件降伏を知らずに終戦後も戦い続けた旧日本軍34人のうちの1人、土田喜代一(きよかず)さん(94)(福岡県筑後市)の姿も。かつて死闘を繰り広げた元米兵と抱き合った後、「悲惨な戦いだった。二度と戦争を起こしてはいけない」とかみしめるように語った。
ペリリュー州と米政府の主催による式典には、米軍関係者や島民ら約300人が参加した。米国と日本の国歌が演奏された後、州知事が、土田さんと元米海兵隊のウィリアム・ダーリングさん(89)(カリフォルニア州)の氏名を読み上げると、出席者全員が立ち上がって拍手で迎えた。
36年ぶり13回目の訪島となる土田さんは、孫娘でドイツ在住の井福理恵さん(31)に付き添われて席を立ち、ダーリングさんも前に。お互い敬礼をした後、抱き合って何度も握手をした。
ダーリングさんが「かつて戦った者同士だが、戦争が終われば兄弟のようなもの。私にも孫がいる。この島での戦いを語り継いでいこう」と話すと、土田さんは「米軍は、最後まで戦い抜いた私たちに敬意を持って接してくれた。ただ、私のような目に遭う者を二度と出してはいけない」と涙ぐんだ。」(記事ここまで)
このペリリュー島は『ザ パシフィック』という映画の舞台になっている島ですね。書籍も出ています。
太平洋の小さな島で日米の大激戦があり、日本軍のほとんどの兵士がが壮絶に玉砕した島です。
逸話としては
「ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。」(一部抜粋)
避難していた島民が激戦後に戻ってくると、夥しい日本兵の死体を見てほんとうに悲しんだという話です。
パラオの国旗はデザインが日本の日の丸に似ていますね。
太平洋の海の青に月(満月)です。
余談ですが、米海軍太平洋艦隊の司令官はニミッツでした。
大東亜戦争後、米軍が日本を占領しました。
横須賀(だったと思いますが)にあった戦艦『三笠』に米兵が勝手に乗り込んで騒いだことを知った海軍提督ニミッツは激怒します。
(ニミッツの写真)
戦艦「三笠」は日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦です。司令長官は東郷平八郎。
ニミッツは東郷を同じ海軍の司令官として大変尊敬していました。
すぐに立入り禁止とし、艦内に東郷平八郎の肖像画を飾ります。
(東郷平八郎の写真)
額の裏には
「東郷平八郎の弟子 チェスター ニミッツ」と記されていました。
話を戻しまして、70年前に、ペリリュー島が玉砕したのですが、ペリリュー島、タラワ島、マキン島、クェゼリン島といった太平洋の小さな島々で、たくさんの兵隊が死んでいったのですね。
ペリリュー島は10,931人のうち10,695人戦死、タラワ島は4,873人のうち4,713人戦死、マキン島は693人のうち589人戦死、クェゼリン島7,840人のうち7,735人戦死、、、
このようにほとんどの島(マキンは85%くらい)で、97-98%の凄まじく高い死亡率です。
なお、ペリリュー島はわずか202人が捕虜でしたが、それ以外に34人は洞窟内で生き延び続け戦後1947年に投降しています。
戦死と言いましても、実際の戦闘でなくなった兵隊もいれば、自決した兵隊も多かったですし、食料不足で餓死した兵隊も多かったと聞きます。
(※また、フィリピンや南太平洋での戦闘では、米軍は捕虜をとらない方針で、日本兵を見つけ次第殺害しています。
中には大腿骨を削ってペーパーナイフをつくったり、日本兵の頭部を切り落として鍋でグツグツ煮て、皮をはいで頭蓋骨をお土産にしていました。35$の値段がついていたそうです。)
大東亜の大陸と太平洋で、欧州大陸で、北アフリカで、、現場の兵士は祖国の勝利のために、愛する人、愛する家族のために戦ったのです、、、
ところで、
大東亜戦争および欧州戦争が、「支配者たち」の描いた、いわゆる「やらせ」戦争だったということはよく知られています。(ただし、相変わらず騙され続けている多くの人をのぞいては。)
知られるところではありますが、そのことを表立って(公式見解で)は言えません。
「支配者たち」の報復が怖いですからね。
「恐怖」を与えれが、多くは「保身」に走ります。この二つは、常にワンセットです。
ですから多くの場合、黙りますね。
黙して語らず、、、。
どうか安らかにお眠りくださいと祈らずにいられません。
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式典には、無条件降伏を知らずに終戦後も戦い続けた旧日本軍34人のうちの1人、土田喜代一(きよかず)さん(94)(福岡県筑後市)の姿も。かつて死闘を繰り広げた元米兵と抱き合った後、「悲惨な戦いだった。二度と戦争を起こしてはいけない」とかみしめるように語った。
ペリリュー州と米政府の主催による式典には、米軍関係者や島民ら約300人が参加した。米国と日本の国歌が演奏された後、州知事が、土田さんと元米海兵隊のウィリアム・ダーリングさん(89)(カリフォルニア州)の氏名を読み上げると、出席者全員が立ち上がって拍手で迎えた。
36年ぶり13回目の訪島となる土田さんは、孫娘でドイツ在住の井福理恵さん(31)に付き添われて席を立ち、ダーリングさんも前に。お互い敬礼をした後、抱き合って何度も握手をした。
ダーリングさんが「かつて戦った者同士だが、戦争が終われば兄弟のようなもの。私にも孫がいる。この島での戦いを語り継いでいこう」と話すと、土田さんは「米軍は、最後まで戦い抜いた私たちに敬意を持って接してくれた。ただ、私のような目に遭う者を二度と出してはいけない」と涙ぐんだ。」(記事ここまで)
このペリリュー島は『ザ パシフィック』という映画の舞台になっている島ですね。書籍も出ています。
太平洋の小さな島で日米の大激戦があり、日本軍のほとんどの兵士がが壮絶に玉砕した島です。
逸話としては
「ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。
が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。」(一部抜粋)
避難していた島民が激戦後に戻ってくると、夥しい日本兵の死体を見てほんとうに悲しんだという話です。
パラオの国旗はデザインが日本の日の丸に似ていますね。
太平洋の海の青に月(満月)です。
余談ですが、米海軍太平洋艦隊の司令官はニミッツでした。
大東亜戦争後、米軍が日本を占領しました。
横須賀(だったと思いますが)にあった戦艦『三笠』に米兵が勝手に乗り込んで騒いだことを知った海軍提督ニミッツは激怒します。
(ニミッツの写真)
戦艦「三笠」は日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦です。司令長官は東郷平八郎。
ニミッツは東郷を同じ海軍の司令官として大変尊敬していました。
すぐに立入り禁止とし、艦内に東郷平八郎の肖像画を飾ります。
(東郷平八郎の写真)
額の裏には
「東郷平八郎の弟子 チェスター ニミッツ」と記されていました。
話を戻しまして、70年前に、ペリリュー島が玉砕したのですが、ペリリュー島、タラワ島、マキン島、クェゼリン島といった太平洋の小さな島々で、たくさんの兵隊が死んでいったのですね。
ペリリュー島は10,931人のうち10,695人戦死、タラワ島は4,873人のうち4,713人戦死、マキン島は693人のうち589人戦死、クェゼリン島7,840人のうち7,735人戦死、、、
このようにほとんどの島(マキンは85%くらい)で、97-98%の凄まじく高い死亡率です。
なお、ペリリュー島はわずか202人が捕虜でしたが、それ以外に34人は洞窟内で生き延び続け戦後1947年に投降しています。
戦死と言いましても、実際の戦闘でなくなった兵隊もいれば、自決した兵隊も多かったですし、食料不足で餓死した兵隊も多かったと聞きます。
(※また、フィリピンや南太平洋での戦闘では、米軍は捕虜をとらない方針で、日本兵を見つけ次第殺害しています。
中には大腿骨を削ってペーパーナイフをつくったり、日本兵の頭部を切り落として鍋でグツグツ煮て、皮をはいで頭蓋骨をお土産にしていました。35$の値段がついていたそうです。)
大東亜の大陸と太平洋で、欧州大陸で、北アフリカで、、現場の兵士は祖国の勝利のために、愛する人、愛する家族のために戦ったのです、、、
ところで、
大東亜戦争および欧州戦争が、「支配者たち」の描いた、いわゆる「やらせ」戦争だったということはよく知られています。(ただし、相変わらず騙され続けている多くの人をのぞいては。)
知られるところではありますが、そのことを表立って(公式見解で)は言えません。
「支配者たち」の報復が怖いですからね。
「恐怖」を与えれが、多くは「保身」に走ります。この二つは、常にワンセットです。
ですから多くの場合、黙りますね。
黙して語らず、、、。
どうか安らかにお眠りくださいと祈らずにいられません。
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