小生、子供の頃、三池工業VS銚子商の夏の決勝戦を見てから、高校野球に取り憑かれたような半生を送ってしまったのであります。
で、自分も野球をやりたかったのですが、何せ子供の頃は背が低かった(高校で10cm以上伸びたのです)し、目が悪かったので実際にユニフォームを着ることはできませんでした。
「観戦組」に終始しております。
かすかな記憶しかありませんが、銚子商のエース木樽の球が速いとTVでアナウンサーが言うのを覚えており、その試合はたしか帯広三条との試合だったと記憶しています。
後で何かの本で読んだのですが、このとき帯広三条の選手は木樽投手の球が速すぎて打てないので、悔しくて泣きながら打席に入っていたそうです。
ところが、その木樽投手を擁する銚子商が決勝戦で三池工に完封負けします。たしか0-2だったかと。
その時の三池工の監督が、ジャイアンツの原監督の父上だったのです。その5年後、原氏は神奈川の東海大相模で指揮をとり、二度目の全国制覇を達成されてます。
炭坑不況で沈んでいた福岡の地元三池はこの優勝で大騒ぎだったそうです。
その三池工VS銚子商の翌年だったと思いますが、中京商春夏連覇がありました。
小生がTVのスイッチを入れると必ず中京商が試合をやっていたのを記憶しています。
そうなりますと、「中京商業って凄く強いんや!」とインプットされ、キャッチボールは自分が中京商の選手のような気持ちでやるようになるのです。
選抜では宇部商との試合がとにかく両チーム点の取り合いになって、凄く長い試合だったのを覚えています。
そして決勝戦では土佐高校のアンダースローの上岡投手と投げ合って1-0で中京商が優勝したので、小生の中京商熱は盛り上がりまくって、その情熱を維持したまま夏の大会の観戦になだれ込んだのでした。
破竹の快進撃で秋田、岡山東商、桐生、報徳学園(記憶が曖昧です)と撃破し、いよいよ決勝戦は松山商と。
雨で一日順延しての決勝戦は松山商が先制するも中京商が逆転して逃げ切りました。
エース加藤投手が、9回のマウンドで「まかせてくれ!」というように胸をポンと叩いてベンチを見ていました。
この春夏連覇の偉業で、ますます中京商にのめり込むわけです。
小学生低学年のガキだった小生がすっかり魅せられたのがこの中京商のユニフォームですよ。
当時の野球の「や」の字も知らない小生でしたが、見た瞬間に「げっ、強そう!」と感じるのが中京のユニフォームでした。
襟付きで3本ラインのストッキング、帽子の独特のCマーク、見るからに強うそうに見えるので大好きでした。
実はこのユニフォームが大好きと言うファンの人は今でもたくさんいると聞いています。
ちなみに、この3本ラインと襟付き、Cマークは、隣の岐阜中京の軟式野球部に受け継がれて現在まで残っています。
その岐阜中京の軟式は全国優勝6度を誇っていますので、やはりこのユニフォームの神通力は生きているのかもしれません。
昭和41年の選抜で対戦した「中京商対宇部商」、、、
このときに対戦した中京商の西脇選手と宇部商の玉国選手(だったと記憶)が、それぞれ母校の監督になって、甲子園に出場し、昭和63年選抜大会の舞台で対戦することになったのがこの試合でした。
因縁ですね。(その間に中京商は中京高校に校名変更していました。)
伝統のユニフォームは健在です。
昭和63年選抜「中京VS宇部商」
中京木村、宇部商木村の両木村の投げ合いで、両校相譲らず。
しかも、なんと!この日、中京木村投手は9回1死まで、完全試合をやっていたのです。
完全試合と言えば、前橋高校が達成しましたが、それに続くかという流れでした。
なにせ、中京木村投手の球が低めにずばっ!ずばっ1と小気味良く決まるのです。
こりゃ、多分(完全試合かノーヒットノーランは)いけるな、、。という流れでした。
8回裏、中京に待望の先取点が入りました。
8回裏という重要なイニングでの得点です。次のイニングを0で抑えれば、、。
昭和63年選抜『中京VS宇部商』
しかし、えてして0対0の均衡が破れると、俄に試合が動くとはよく言ったもので、この試合も例に漏れず、動いたのでした。。
9回、宇部商に待望の安打が出て、完全試合の夢は消えました。
しかし、頭を切り替えて、あと2つのアウトをとれば、試合は勝ちです。
そして、2死まで来ました。あとアウト一つです。
もう、完全試合は消えたけれども、これでなんとか中京が勝ちそうだなと思ったその時、打者坂本選手の打球は、、、
「甲子園には魔物が潜んでいる」とはよく言われる言葉です。
完全試合が消え、勝利も消えてしまった、、、なんという試合でしょうか。
中京の試合は、こういう劇的な試合があるんですよね。しかも悔しい悔しい負けが。
次は当時の甲子園では名勝負と言われたのが『中京VS池田』
中京野中、池田水野の投げ合いもすばらしかったです。
『中京VS池田』は最後までもつれる本当にすばらしい試合が多かったですね。
そして、中京の杉浦監督の姿が。懐かしいですね。
昭和58年夏準々決勝『中京VS池田』
この試合も本当に良い試合でした。これまたもつれにもつれる見応えのある試合でした。
昭和62年夏『中京VS池田』
中京木村2年生の時の投球ですが、9回表に池田が均衡を破って1点をもぎ取れば、9回裏に中京得意のスクイズで同点。
続く延長10回裏の息詰る攻防戦が見応えがあります。無死1,2塁、3番首藤送りバント。1死2,3類で4番後藤。カウント1-1から、解説者がないだろうといっていたスクイズを、、。
これが失敗!この時の後藤の頭を抱える仕草。
それを見た西脇監督が(かなり頭に来たと思いますが)すぐに伝令をだし、ベンチでは胸を叩いて後藤に気合いを入れまくります。
このあとの1球がボールで、池田蔦監督即座に敬遠を指示。このあたりの心理戦は見ている方も本当にハラハラします。
1死満塁で5番小倉。
初球スクイズ成功でサヨナラ勝ち!バントがうまい!
忘れもしない昭和53年『中京VSPL学園』の準決勝。
先制、中押し、だめ押しで4-0で中京がリードして迎えた9回裏
この時点では、試合の流れから見ても、今年は中京が優勝旗を持って帰るとほぼ確信した試合でした。
ところが、、まさかの、、、。
この日は眠れませんでした。
1978年夏 PL学園-中京
ことしももうすぐ暑い夏が開幕します。
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で、自分も野球をやりたかったのですが、何せ子供の頃は背が低かった(高校で10cm以上伸びたのです)し、目が悪かったので実際にユニフォームを着ることはできませんでした。
「観戦組」に終始しております。
かすかな記憶しかありませんが、銚子商のエース木樽の球が速いとTVでアナウンサーが言うのを覚えており、その試合はたしか帯広三条との試合だったと記憶しています。
後で何かの本で読んだのですが、このとき帯広三条の選手は木樽投手の球が速すぎて打てないので、悔しくて泣きながら打席に入っていたそうです。
ところが、その木樽投手を擁する銚子商が決勝戦で三池工に完封負けします。たしか0-2だったかと。
その時の三池工の監督が、ジャイアンツの原監督の父上だったのです。その5年後、原氏は神奈川の東海大相模で指揮をとり、二度目の全国制覇を達成されてます。
炭坑不況で沈んでいた福岡の地元三池はこの優勝で大騒ぎだったそうです。
その三池工VS銚子商の翌年だったと思いますが、中京商春夏連覇がありました。
小生がTVのスイッチを入れると必ず中京商が試合をやっていたのを記憶しています。
そうなりますと、「中京商業って凄く強いんや!」とインプットされ、キャッチボールは自分が中京商の選手のような気持ちでやるようになるのです。
選抜では宇部商との試合がとにかく両チーム点の取り合いになって、凄く長い試合だったのを覚えています。
そして決勝戦では土佐高校のアンダースローの上岡投手と投げ合って1-0で中京商が優勝したので、小生の中京商熱は盛り上がりまくって、その情熱を維持したまま夏の大会の観戦になだれ込んだのでした。
破竹の快進撃で秋田、岡山東商、桐生、報徳学園(記憶が曖昧です)と撃破し、いよいよ決勝戦は松山商と。
雨で一日順延しての決勝戦は松山商が先制するも中京商が逆転して逃げ切りました。
エース加藤投手が、9回のマウンドで「まかせてくれ!」というように胸をポンと叩いてベンチを見ていました。
この春夏連覇の偉業で、ますます中京商にのめり込むわけです。
小学生低学年のガキだった小生がすっかり魅せられたのがこの中京商のユニフォームですよ。
当時の野球の「や」の字も知らない小生でしたが、見た瞬間に「げっ、強そう!」と感じるのが中京のユニフォームでした。
襟付きで3本ラインのストッキング、帽子の独特のCマーク、見るからに強うそうに見えるので大好きでした。
実はこのユニフォームが大好きと言うファンの人は今でもたくさんいると聞いています。
ちなみに、この3本ラインと襟付き、Cマークは、隣の岐阜中京の軟式野球部に受け継がれて現在まで残っています。
その岐阜中京の軟式は全国優勝6度を誇っていますので、やはりこのユニフォームの神通力は生きているのかもしれません。
昭和41年の選抜で対戦した「中京商対宇部商」、、、
このときに対戦した中京商の西脇選手と宇部商の玉国選手(だったと記憶)が、それぞれ母校の監督になって、甲子園に出場し、昭和63年選抜大会の舞台で対戦することになったのがこの試合でした。
因縁ですね。(その間に中京商は中京高校に校名変更していました。)
伝統のユニフォームは健在です。
昭和63年選抜「中京VS宇部商」
中京木村、宇部商木村の両木村の投げ合いで、両校相譲らず。
しかも、なんと!この日、中京木村投手は9回1死まで、完全試合をやっていたのです。
完全試合と言えば、前橋高校が達成しましたが、それに続くかという流れでした。
なにせ、中京木村投手の球が低めにずばっ!ずばっ1と小気味良く決まるのです。
こりゃ、多分(完全試合かノーヒットノーランは)いけるな、、。という流れでした。
8回裏、中京に待望の先取点が入りました。
8回裏という重要なイニングでの得点です。次のイニングを0で抑えれば、、。
昭和63年選抜『中京VS宇部商』
しかし、えてして0対0の均衡が破れると、俄に試合が動くとはよく言ったもので、この試合も例に漏れず、動いたのでした。。
9回、宇部商に待望の安打が出て、完全試合の夢は消えました。
しかし、頭を切り替えて、あと2つのアウトをとれば、試合は勝ちです。
そして、2死まで来ました。あとアウト一つです。
もう、完全試合は消えたけれども、これでなんとか中京が勝ちそうだなと思ったその時、打者坂本選手の打球は、、、
「甲子園には魔物が潜んでいる」とはよく言われる言葉です。
完全試合が消え、勝利も消えてしまった、、、なんという試合でしょうか。
中京の試合は、こういう劇的な試合があるんですよね。しかも悔しい悔しい負けが。
次は当時の甲子園では名勝負と言われたのが『中京VS池田』
中京野中、池田水野の投げ合いもすばらしかったです。
『中京VS池田』は最後までもつれる本当にすばらしい試合が多かったですね。
そして、中京の杉浦監督の姿が。懐かしいですね。
昭和58年夏準々決勝『中京VS池田』
この試合も本当に良い試合でした。これまたもつれにもつれる見応えのある試合でした。
昭和62年夏『中京VS池田』
中京木村2年生の時の投球ですが、9回表に池田が均衡を破って1点をもぎ取れば、9回裏に中京得意のスクイズで同点。
続く延長10回裏の息詰る攻防戦が見応えがあります。無死1,2塁、3番首藤送りバント。1死2,3類で4番後藤。カウント1-1から、解説者がないだろうといっていたスクイズを、、。
これが失敗!この時の後藤の頭を抱える仕草。
それを見た西脇監督が(かなり頭に来たと思いますが)すぐに伝令をだし、ベンチでは胸を叩いて後藤に気合いを入れまくります。
このあとの1球がボールで、池田蔦監督即座に敬遠を指示。このあたりの心理戦は見ている方も本当にハラハラします。
1死満塁で5番小倉。
初球スクイズ成功でサヨナラ勝ち!バントがうまい!
忘れもしない昭和53年『中京VSPL学園』の準決勝。
先制、中押し、だめ押しで4-0で中京がリードして迎えた9回裏
この時点では、試合の流れから見ても、今年は中京が優勝旗を持って帰るとほぼ確信した試合でした。
ところが、、まさかの、、、。
この日は眠れませんでした。
1978年夏 PL学園-中京
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