岩淸水

心を潤す

1848年革命

2012年03月10日 15時00分00秒 | 歴史

 

 

 


1848年革命(1848ねんかくめい)は、1848年にヨーロッパ各地で起こった革命。ウィーン体制の事実上の崩壊へと突き進んだ。

2月にフランスで勃発した2月革命は、翌月以降にはヨーロッパ各地に伝播し3月革命となった。1848年の春に起こったこの2つの革命を総称して「諸国民の春」(Printemps des peuples, Völkerfrühling, Primavera dei popoli)という。

この項では1848年の2月革命と3月革命を1848年革命として一括して扱う。

 


フランス2月革命 [編集]詳細は「1848年のフランス革命」を参照

 発端 [編集]1830年のフランス7月革命の結果即位したルイ・フィリップはブルジョワジー寄りの政策を採ったため、労働者、農民の不満が高まった。7月革命では一定の選挙権の拡大が行われたものの、こうした身分層までの選挙権拡大は行われなかった。

こうした不満の捌け口は改革宴会(革命宴会)という集会(選挙権の拡大や、労働者・農民の諸権利を要求する政治集会だが、名目上宴会ということにして実施していた)によってある程度のガス抜きが行われていたが、2月22日にある改革宴会が政府の命令によって強制的に解散させられると、これに激高した労働者、農民、学生のデモ、ストライキに発展した。

 推移 [編集]この革命はそれまでのフランス革命やフランス7月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体の市民革命から、労働者主体の革命へと転化した。

革命勃発の翌23日には首相のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが退任し沈静化を図ったが、24日には武装蜂起へと発展。ついに国王ルイ・フィリップが退位、ロンドンに亡命して、事態の終結が図られた。

同日に臨時政府が組織され、ここに第二共和政が開始された。

 影響 [編集]革命の影響は大きく、その後フランスに国王が現れることは無く、革命はフランスに留まらず、ヨーロッパ各地に伝播し、ウィーン体制の崩壊に繋がった。この後、フランスでは、王制は廃止され、1848年憲法の制定とともに共和制に移行した。これをフランス第二共和政という。11月に大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、ウィーン体制の崩壊の間隙を突き、1852年にフランス第二帝政を開始するのである。


 社会主義への影響 [編集]この革命には、当初から社会主義者が荷担しており、共和国旗である三色旗に混じって赤旗も振られた。

この時代の社会主義に対する期待の高まりが見て取れるが、結果としてルイ・ブラン等この革命に荷担した社会主義者が臨時政府の中で有効な手立てを打てないことが明らかになると、彼らは、農民の支持を失い翌年4月の選挙で落選してしまった。これは、農民がフランス革命・ナポレオン戦争を経てようやく手に入れた土地を、社会主義派に「平等」と称して奪われることを恐れたためである。

 ヨーロッパ各地への伝播 [編集]2月革命はヨーロッパ各地へ伝播し、この内、特にドイツ連邦、オーストリアで起こった運動を3月革命と言う。

ドイツ・オーストリア
1848年3月、ウィーンでの革命により、宰相クレメンス・メッテルニヒはイギリスに亡命した。これにより、ウィーン体制は事実上、崩壊した。また同じ頃、ベルリンにて暴動が起き、カプンハウゼンによる自由主義内閣が成立した。しかし、ドイツ統一まで後一歩、という所でプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝就任を拒否したのでドイツ統一はならなかった。これは、オーストリアで起きていた、スラブ系・ハンガリー系の独立の失敗へと繋がる。
イタリア
1848年ダニエーレ・マニンがヴェネツィアで蜂起、ヴェネト共和国を建国。オーストリアの攻撃により、1849年降伏。サルデーニャ国王カルロ・アルベルトが、対オーストリア宣戦(第1次イタリア独立戦争)。敗北、失敗する。1849年青年イタリア党の蜂起。マッツィーニの指導の下、教皇国家に代わりローマ共和国を建国。しかし、フランスの武力介入により、崩壊。
これ以外ではイギリスにおいて、チャーティスト運動が最高潮になる。


ドイツ3月革命

発端 [編集]フランス2月革命が、翌月には中欧にまで伝播した。この地域では1815年来のウィーン体制の維持にオーストリア宰相メッテルニヒが目を光らせており、19世紀ヨーロッパを席捲した民族主義、自由主義の波及を食い止めていた。これに対して帝国領内の諸民族が、民族自治権や民族の諸権利の要求、憲法の制定を求めて立ち上がったのがウィーン3月革命である。

 推移 [編集] オーストリア [編集]オーストリアの革命の始まりはハンガリーから始まる。急進的愛国主義者コッシュート・ラヨシュはハンガリー議会でウィーン体制を鋭く批判、ハプスブルク家のイシュトヴァーン副王を国家元首とし、完全な自治を達成してハンガリー憲法を承認させた。

またイタリアでは長年のドイツ人支配に別れを告げるべく、オーストリアの支配下にあったロンバルディアとヴェネツィアが現地のオーストリア軍を追い出して反乱を起こし、野心家のピエモンテ王カルロ・アルベルトに介入を要請した。

オーストリアは1840年以来の不況と貿易赤字、1847年からの飢饉による農村の危機、そして多額の軍事支出によって国家財政は火の車になっており、そこにきての2月革命による戦争の危機は、これまでのどんな革命にも小揺るぎもしなかった帝都ウィーンをすら混乱の坩堝に追い込んだ。銀行の取り付け騒動に端を発するこの混乱は、やがてメッテルニヒ体制に批判的な穏健派自由主義者達によって反メッテルニヒの方向性を与えられる。

こうした中ホーフブルク宮に次々と請願書が提出されるが、独占の廃止、貿易の自由、出版・言論・信教の自由などがその内容で、未だ民衆の要求は緩いものであった。日頃の鬱憤を晴らせと工場に焼き討ちをかける労働者たちも、宮廷関係の建物は決して放火しなかった。民族主義的な主張は未だ見えず、彼らはただ現状の生活に不満を持っていただけだった。こうした中、穏健派自由主義者は学生たちと同盟を組んで徒党を組み、身分制議会で決議された請願書を宮廷に提出する。ところが審議中に学生の一部が暴動を起こし、メッテルニヒの退陣と憲法の請願を叫び宮廷に迫った。


宮廷はメッテルニヒを見捨て、13日メッテルニヒは失脚し、ロンドンに亡命する。ウィーン会議後のオーストリアを支えたメッテルニヒだったが、帝室は前々から強権的で浪費家の彼を嫌っており、評判が地に落ちたこの隙に彼を追い出すことを計画した。城下では暴徒鎮圧のため、アルベルト大公率いるウィーン衛戍軍が治安出動し、激しく衝突していたが、メッテルニヒを追放したことで民衆との和解は成ったと考えた宮廷はアルベルト大公を更迭し、衛戍軍を郊外に撤退させる。後任のヴィンディシュグレーツ公も宮廷の保護のため治安出動を計画するも、これも宮廷によって退けられた。皇帝フェルディナント1世は自ら混乱のウィーンに現れ、憲法の制定議会の開催を約束して回り、市民の喝采を浴びる。宮廷はこのように宥和的態度で民衆に接したが、民衆は今や別のことを考えていた。今の宮廷なら、何を要求しても通る、と。そしてこの機会にメッテルニヒを追放した宮廷ではあるが、余りに長い間この名宰相に頼り続けた宮廷には、次に何をするべきか理解しているものが誰一人いなかった。ここに権力の空白が生まれ、各地のあらゆる州都でデモ、請願、要求が起こった。

こうした運動の中で最大のものはボヘミア州都プラハでのものだろう。ハンガリー同様に独自の歴史を持ち、長年不当にドイツ人の支配下にあったという意識が強かったボヘミア王国のチェック人は、フランクフルト国民議会に代表される帝国のドイツ国民国家化に対抗し、この際オーストリア帝国を全ての民族に平等な連邦国家に変えてしまおうと考えた。注意すべきなのは、彼らは後のハンガリー人のように帝国からの独立を成し遂げようとは考えていない点である。彼らチェック人はその当時現実的な判断から未だハプスブルク帝国はドイツ人やロシア帝国と言った民族国家の帝国に対抗するために必要であると考えていたのである。こうした動きは6月、帝国内のスラヴ系諸民族を結集させてスラヴ民族会議を起こし、自らの独自性を訴える行動となって現れるが、こうした動きはドイツ人の反発を受け、同月ヴィンディシュ=グレーツ将軍によるプラハ包囲によって結末を迎えることとなる。

さて、ウィーンの革命は初期の段階では非常に緩いものであった。ウィーン市民にも宮廷にも危機感は薄く、流血もたいしたことがなかった。市民たちは寧ろ労働者たちを警戒しており、郊外に退去した衛戍軍に代わって市内の治安維持を担当した市民軍は、皇帝に銃を向けるなど思いもよらず、代わりに工場を焼き払った労働者達を追及した。宮廷は革命の行く末を楽観視し、先に憲法制定議会の開催を約束したにも関わらず、4月25日、ベルギーの憲法を手本とする4月憲法を発布してしまう。

ところが温情を示し、上から憲法を下せば涙を流して感激すると思われた民衆は、あろうことか憲法を不服として暴動を起こした。彼らにとって4月憲法は、『宮廷のクーデター』に等しかったのである。5月に起こった暴動は3月のそれとは規模を全く異にし、宮廷にまで押し寄せて憲法の改正を叫ぶ民衆に皇帝一家は身の危険を感じ、ティロルのインスブルックに逃げ出す。混乱のウィーンはその首都機能を事実上喪失した。

こうした中、イタリアの状況は悪化の一途をたどる。イタリア諸邦の要請を受けたカルロ・アルベルトは早くも3月23日にはオーストリアに宣戦を布告しており、ロンバルディアの割譲を申し出るウィーン政府の申し出を一蹴、北イタリア問題の全面的解決を図ろうとする。

しかし撤退したオーストリア軍は体勢を立て直し、本国からの援軍を受け、名将ヨーゼフ・ラデツキーの下、クストッツァの戦いにピエモンテ軍を破り、反革命の狼煙を上げる。イタリア問題を解決し、ボヘミアの運動を叩き潰した反革命勢力は態度を急速に硬化させ、ハンガリーやウィーンの革命勢力に目を向ける。9月、宮廷の意を受けたクロアチア軍はハンガリーに軍を進め、またヴィンディシュ=グレーツ軍は10月、ウィーンに進軍する。10月当時ウィーンの革命は急速に左傾化しており、一度は舞い戻った皇帝一家はまたしても逃亡を余儀なくされていたのである。10月末日、ハンガリーに敗退したクロアチア軍を収容したヴィンディシュ=グレーツ軍はウィーンまで進軍してきていたハンガリーを破り、そのままウィーンを陥落させる。この時の市民の被害はナポレオン戦争のウィーン占領による流血をはるかに上回るものがあったという。

こうした一連の革命のさなか、精神疾患を患うフェルディナント1世が任に堪えないことは明らかであり、ここで若年18歳の青年皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が即位する。彼の最初の大仕事は、完全独立と共和国宣言を行い未だ抵抗を続けるハンガリーに対して、ロシアに援軍を求めることであった。

ハンガリーはよく戦ったものの、期待した諸外国の支援を得られず、ロシア軍までやってきては勝てるはずもなく、1849年8月にロシア軍に降伏、ここにオーストリアの長い革命は多数の流血の末に終結を見るのである。

プロイセン [編集]プロイセン王国においては、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が先王が約束した憲法制定を拒否したため、ベルリンで自由主義者による暴動と言う形で革命が伝播した。王はやむを得ず憲法の制定に同意したが、終始自由主義に対して否定的だったことには変わり無かった。

 フランクフルト国民議会 [編集]こうした中で、神聖ローマ帝国崩壊後のドイツ統一を目指した国民議会がフランクフルトに召集された。

この会議ではドイツ統一にオーストリア帝国も含めた大ドイツ主義とプロイセンを中心とした枠組みでドイツの統一を図ろうとする小ドイツ主義が激しく対立した。

結果、小ドイツ主義者の勝利に終わった国民会議は翌1849年プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に推挙したが、王は国民議会によって送られた帝冠を拒否し国民議会の試みは失敗に終わった。

結局この後、国民議会は反革命勢力の弾圧によって解散させられてしまった。

 影響 [編集]フランクフルト国民議会で示された、プロイセンを中心とする小ドイツ主義はその後のドイツ統一に一定の筋道を立てた。

また、オーストリアの非ドイツ系民族による民族自治の要求はオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立と言う形で部分的にではあるが受け入れられた。

デンマークにおいては、ヨーロッパ諸国の動向を受けて、絶対王政を廃止した。しかし、長年ドイツとの係争地であったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国でドイツ系の反乱を契機にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し1852年まで続いた。これはドイツのゲルマン主義、北欧の汎スカンディナヴィア主義の衝突であった。

 

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