空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

親鸞の「無義の義」とニーチェの「永劫回帰」の類似

2023年05月12日 | 読書・TV感想
[起]
法然上人は
「他力には義なきを義とす」といった。
また親鸞上人は
「念仏には無義をもって義とす」歎異抄第10章
といった。
哲学者ニーチェは
「世界は何度でも繰り返される。
意味を持たず、目的もない。
すべてが無価値である」
といった。

いずれも
人間にどのようなはたらき方をするかが述べられる。


[承]
親鸞は心の信心に触れ
「義」を「はからい」と訓読し、
自分の人生の意味を考え、価値を計ること
「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが
親鸞の他力「念仏」だ。
無義の世界とは
計らいがきれいになくなる世界(無礙の一道)。
「むなしさ」を超えるはたらきが得られる。
「本願力にあいぬれば」ということは、
それは人間の価値基準のこころを、
もはやあてにしないということだ。
人間が意味があるとかないと決めているのは、
すべて人間の価値基準の範囲内のことであって、
リンゴは「赤い、丸い、甘い」といった価値基準のことだ。
同様に「役に立たぬものは意味がない」というのも
人間の価値基準だ。
我らはそうした価値基準によって苦悩する社会に住む。
親鸞の思想は人間の価値基準の世界を超越した視点であり、
本来、人間の考える義というものは無いとする考え。



ニーチェの「永劫回帰」では、
「あらゆる出来事が同じ順番で、永遠に繰り返し起こるような世界像」
世界は意味を持たず、ただあるがままに永遠に繰り返される。
世界には目的もない。
人と人の間に起こるうりとあらゆる出来事を
それまでの人間社会にある価値観に捉われず
個人で再定義することで、
より良い毎日の体験をもたらすことができる考え方である。
神が世界と万物を 「創造」 したように、神も
形而上における人間の価値基準なのだ。


[転]
時間が無限にあって、物質や原理・法則は有限であれば
繰り返しが発生する。
そもそも進化の法則そのものが繰り返しの法則だ。
進化の歴史を遡ってリプレイさせてみても
地球環境が同じであれば、同じ枝分かれが発生すると
科学者は考えている。(J・B・ロソス)
進化は同じように繰り返されうる、ということだ。
進化の枝分かれは繰り返しの結果なのだ。
それは終わることがない。
そもそも生命そのものも分解と合成、解体と構築を
繰り返すことでエントロピーの法則に対抗している。
動的平衡状態(福島伸一)
ただ無機質に繰り返すのみのシステムである。




進化によって新たな価値が生まれるが、
その価値のみにこだわってしまえば進化は停止する。
むしろ価値を認めずに繰り返しを継続することが
生きていることになる。
繰り返しの継続によって次から次へと進化の枝分かれが生成される。
意味があるからそうしている。
やらないリスクはやるリスクより大きいからだ。
少なくとも一つの価値にこだわり、その価値を渇愛すれば、
他はやらないというクローン的な進化となる。
無価値だからこそ次から次へと繰り返す。
諸行無常のごとく常に変化して繰り返しているのであれば
変わらぬ価値など存在しない。
仏教でも執着しない、
こだわらないが基本的なスタンスだ。


[結]
親鸞は絶対他力による救済、ニーチェは自力での救済で
異なる点があるものの、
人間の価値基準の存在を否定し、
無条件での救済という点においては一致している。
信じることで救われる、あるいは
念仏唱えれば救われる、という条件付きではない点だ。
即ち全てが無価値であるというところに価値を見出す。
無価値であれば渇愛はしないであろう。

後付けで設定された価値観は人間の都合によって変化する。
従い意味があると思った価値観はその場限りのものだとして
振る舞うべきである。
要は他に押し付けたり、渇愛したりしないことだ。
そうすることで
お金の為にあくせくしないし、後悔もなくなる。
現在の自分を肯定する以外に、何かを守る必要もない。
人間は自己との出会いや発見で救済される。

コメント    この記事についてブログを書く
« 業の花びら | トップ | 生まれ変わってやり直すとい... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

読書・TV感想」カテゴリの最新記事