空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

世界から注目された日本人 2019年

2019年10月24日 | 記事のコメント
即位礼正殿の儀






吉野彰名誉フェロー ノーベル化学賞受賞



成功の秘訣については柔軟性と執着心を挙げました。
 旭化成名誉フェロー・吉野彰さん:成功の秘訣
「研究者というのは基本的に一つは頭が柔らかくないといけない。
もう一つが真逆の執着心というんでしょうか。
しつこくしつこく最後まで諦めない。この2つが必要だと思います」

つらい時期ハードワークを乗り越えるための心がけとして
柔軟性だけでもダメ、執着心だけでもダメ。
2つ備えることで初めて多面的な問題に対応できる。
まさに虚往実帰の複素空間の意識である。
(純粋実体空間は複素空間へ帰還させることでつながる)



渋野日向子選手 ゴルフ全英オープンで優勝





試合では「結果」ではなく、「やるべきこと」のみを目標にしていた。
まさに「笑顔」によって、純粋実体空間が顕現された試合であった。


大坂なおみ選手 テニス全豪オープン優勝






井上尚弥選手 ボクシングチャンピオン



ラグビーワールドカップ ベスト8進出





世界陸上2019 金メダルと銅メダル


指揮者コンクール 沖澤のどかさん優勝

世界的な指揮者の登竜門「ブザンソン国際若手指揮者コンクール」で
日本の沖澤のどかさんが優勝を果たしました。(19/09/22)

スケボー



ハヤブサ2 竜宮へ2度目のタッチダウン





ユニクロ 世界市場で拡大


ホンダエンジン(パワーユニット)搭載F1で
ワンツーフィニッシュを達成





トヨタ2年連続となるルマンのワンツーフィニッシュを達成


コメント

違いを呑み込んだ同一性 ビジュアル編

2019年10月08日 | 記事のコメント
二元領域で表現される意識空間であって、
それにより多様性への対応を維持しながら、
混合することなく
一つの関係で結ばれていて一体化している。
(違いを呑み込んだ同一性:中沢新一)
任意における、対立のない世界の表現となっている。


明治神宮内苑と外苑
  通路でつながれる(往来している)


内苑:分析評価空間(隠なる状態)と外苑:実体空間(顕現)   

比叡山延暦寺のにない堂
  通路でつながれる(往来している)


分析体現評価空間(動的:追認すること)      純粋実体空間(静的:知ること)   


金剛界と胎蔵(界)
  精神(悟りと慈悲)と多様性(現実)とが 
  秩序化(顕現化)でつながれている(往来している)

   分析評価空間(動的)          実体空間(静的)    


原子配列空間(結晶周期)とスペクトル空間とが
  フーリエ変換でつながっている(往来している)

   分析評価空間               実体空間  (AlMnCo合金結晶) 

機械運転振動と周波数スペクトルとが
  フーリエ変換でつながっている
   安定した(日常の)機械運転分析評価を帰還させる

    分析評価空間                実体空間


  
複素空間は分析評価空間(オイラーの公式)であって、
         実空間と一体である(オイラーの等式)
  

空観方程式では
複素空間と実空間の二元意識領域は
波動関数とエネルギーの関係であって、
波動関数の二乗でつながっている(虚往実帰
対立のない(争いのない)意識空間としての表現。

     分析評価空間            純粋実体空間  

複素空間
プラス思考とマイナス思考との相互作用
プラスとマイナスとが共存する感情(渇愛)
とを優先して一体化する分析評価空間である。
例えば感情スペクトルとして分析評価する。
実空間
プラスのみの純粋実体空間
(複素空間へ帰還させることでつながる)


虚(今何をしたいのか?)が実空間で混在すると、
成功を選ぶから失敗する」となってしまう。(下図)
(良いか悪いか、損か得かのような分別の世界となる)




他方、
一体化空間でありながら、尚
対立のない世界の表現については、
混合の弁証法であって、
無分別と無条件での救済(宗教)がある。
「無明」の発見による、あらゆる苦しみからの解放。
色と空、自灯明と他灯明等ゴータマの教えであって、
意識的相互依存との関係によって混合一体化する。
(マインドフルネス瞑想法などでは、
心の反応することがないように訓練し、混合領域を拡大する)

違いを呑み込む同一性の事例
自力と他力
  ほとけの救済の場(共存)でつながる





無分別の世界と、違いを呑み込む同一性は、
「無明」の発見による帰還にある。
実空間において苦しみは存在する。しかし渇愛がなければ
(複素空間があることで心の反応がなければ)
苦悩に陥ることはない。(そのために複素空間がある)
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無義の義とは----歎異抄

2016年04月27日 | 記事のコメント
NHK100分で名著「歎異抄」よりの感想   (蓮如写本)

[起]
解説者である宗教学者釈 徹宗が、難解な所でもわかりやすい言葉で
親鸞の教えとはいかなるものかを伝えて切れ味が良い。
その上でどう生きるかであって、こうしなさい、これが正しいのだという指南書ではない。
例えば仏教でよく使われる言葉で「自我に囚われる」という表現がある。
番組ではそれを、「自分が正しいと思った瞬間に、自分の都合を振り回す」
と説明。その人間の本性を指摘しながら解説している。
念仏も同様で、念仏称えようとする心をたまわったことで称えさせていただくので
信じるものが救われると同様に、念仏すれば救われるといった条件次第ではない。
他力の思想は誤解を生みやすいことで、人間の都合を徹底して回避する。
歎異抄ではそこを文書(リミッター)によってきっちりと遮断している。
あくまでも自分が起こした信心ではなく、「仏からたまわった信心」がポイントである。
すべては他力の道筋であると徹底している。

各人各様の物語によって、自分のありようが問われる。
歎異抄は著者の都合を振り回わそうとしている訳ではなく、親鸞の教えとは
いかなるものかを伝えようとする。
番組で使われた言葉を多用させていただき、ブログとして書留める。


[承]
第十条 念仏(他力)には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑ にと仰せ候ひき。

仏からたまわった信心であれば、人間の都合や条件、選別の作用(はからい)は入らない。
「弥陀のはからいにおまかせする」ことで、自分の都合に執着しないことによって
ルサンチマンが発生しないようにすることが日本独自の思想となっている。
誓願はすべての人を救う願いであるが、泳げる人と泳げない人がいれば、
泳げない人から救済する。
西洋の原罪思想あるいは救済思想から来る善か悪かの
選別思想ではなく、いわゆる悪人正機によってルサンチマンを乗り越えようとしている。

「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
仏の目から見た善悪は、とても自分にはわからない。と親鸞は言う。
人間である自分は、何を見ても自分の都合というフィルターを通して考えてしまう。
と前述の釈徹宗氏がいうように、ここでも人間の都合やルサンチマンを人間が考えた
善と悪によって排除するのではなく、発生しないようにすることにある。
仏教とはそもそも知と信が一体になっていて、知性は信仰に裏付けされている。
親鸞は自分自身の知も信も、不完全なものでしかないという立場である。
だからこそ救い(物語)のめあてとなる。

人間はどんなにえらそうなことを言っても、状況次第よってどんなことでもしてしまう。
したがいどちらが善で、何が善なのかという形而上学とは一切関知しない。
だから善い行いをして救われるというスタンスではない。
加えて中庸の尊重、あるいは陽陰双方による調和の一体化に価値を見出し重きを置くので、
善か悪かだけではなく、いわばミドルクラスという確固たる存在としても認められる。

 
[転]
形而上では人間が行う都合による選別(排除・差別)が入り込む。
それでは報復や怨念・妬み、恨といった解消できないので、
哲学者ニーチェにとってルサンチマンの解消には別の方法が必要となった。
いわば「神は死んだ」との結論に至った。

哲学者鈴木大拙は著書「日本的霊性」のなかで、
「不思議な事には千五百年ほども経過した歴史を有しながら、浄土思想は、
支那においては親鸞的な霊性直覚に到達しなかったのである。
そうしてこの思想は支那にもなく、インドにもなく、欧州(ユダヤ・キリスト教)
にもないのである。」とある。

同じ救済型の他力思想でありながら、浄土仏教とキリスト教とは180度異なる。
浄土仏教では宇宙に生命が生まれた時から現在に至るまで、今後も「ありのままに」
なのであり、無義の義とは「はかりごと無き」であって、ルサンチマンにとっても
弥陀の誓願は既に達成されているのであって、はかりごとから開放される。
従って善い行いをすれば救われるというスタンスではないし、いわんや
「求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、 さらば見出さん、叩けよ、さらば開かれん、
神のみこころにかなう願いをするなら」と比べてみても、
浄土仏教には条件や強制が無く、苦難に向かおうという意思は、仏から
たまわったものという意識。

 
[結]
現代では毎日がはかりごとの生活だ。そしてそれはなかなか思い通りにならない。
その中でも「弥陀のはからい」の物語に出遇うことで、大きな自由と喜びの体感に
感謝(念仏)していこうとする、極めて特徴的な思想である。
弥陀のはからいに出遇う喜びで、おのずと自分のはからいがなくなる。
人間のはからいが自然(じねん)を妨げる。そのはからいによってできなければ
任せるしかない
。煩悩具足の自分を救うために阿弥陀仏(救済原理)は存在する。
その仏からたまわったその信心によって、自我に囚われた状態から救済される。
それが幸せに生きることに繋がり、それで元気をいただき、各人各様の生きた物語を
喜ぶことができる。
他力本願といいながら、実は極めて強いプラス思考(自分の為に準備された物語
即ち自我に囚われない、知と信が調和させる(弥陀の他力)物語のように思う。

  秩父清雲寺 しだれ



付録
役に立つものだけが生きやすい世界とは、人間の価値基準を基にした世界でのこと。
現代の人間の価値基準とは例えば貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、
ひとがいいとか、仕事ができるとか、その中で生きる限り、自分が正しいと思った瞬間に、
自分の都合を振り回してしまう
リスクを同時に併せ持つ。
もし役立つものが傍にいてくれれば、自分の都合を振り回すこともない。
そもそも古代の人間には今の価値基準がなくたって幸せだったに違いない。
仏さまを傍で感じる。まして仏さまが、「助けてあげよう」と言っていたのだと感じれば、
すべてに建設的に取り組み、他人に対して安心を与えるように接することができる。

NHKスイッチインタビュー  (2016年04月12日)
山中伸弥さんと渡辺謙さんの対談から
ノーベル医学賞の山中教授が、離れて暮らす母親から夢枕電話エピソードについて
紹介があった。研究医から臨床医を目指そうと、土地購入の契約前日に
母親から電話があった。
「死んだお父ちゃんが夢枕に立って、伸弥に思い留まるように言えとそういったんだ」
悩んだ末に、奈良先端科学技術大学院大の助教授に応募する。そこで
iPS細胞という技術に出会うことができた。偶然という事もあるだろうが
自分の人生に大きな作用が働いたと感じることが誰にでもあると思う。
ノーベル賞級の科学者でさえも「何か大きな力が作用することがある」と言う。
いわんや一般人ではなおさらである。
「人間万事塞翁が馬」の故事成語がうしろに大きく書いてあった。

不思議な大きな力を感じたからこその、各人各様に独自の物語があるわけで、
歎異抄という「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」からはじまり、
「ひとへに親鸞 一人がためなりけり」で終わる。その物語ににひきつけられる。
ところが宗教という「組織」となれば「信じる」ことを大きな力で強要するようになる。
自分の信念でなく、組織が強要する信念に従うと、「組織」の都合の奴隷となる。
宗教には差別性と暴力性を内包していて、人間の力で止められない大きな力を持つ。
長い歴史のある宗教にはそれなりの体系から、暴走をしないように歯止めをかけているが、
現代のいいとこどりをした宗教には歯止めがかからず、突き当たった苦しみにとって
都合のいい自分の解釈が乱立して、暴走してしまう危険があると
釈 徹宗氏は警告する。

どうなったら幸せなのか
本来仏教の教えは「無我」で自我の囚われの無い自己によって精神の自由を
回復することにある。とある。そこは浄土も禅宗も共通であって、それとは逆に
自己の都合によって「あるがままを受けいれ、思うままに生きる」から遊離
してしまうことを「無明」とか「煩悩、妄想」と言う。
自己の都合とは、思い込みや価値観、主義によって、思いに囚われ、迷い、
他人を批判し対立すること。それは自分が正しいと思った瞬間から嵌まる。
いわゆる「思いの自閉症」から「弥陀のはからい」に出遇いて開放される。
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藍染に見る空観方程式

2016年03月20日 | 記事のコメント
NHK番組 美の壺(309)にみる「藍染め」より

古来より伝わる、天然という藍の発色に魅せられた多くの人々がいた。
実に多くの工程とその一つ一つに込められた心によって藍染が完成する。
例えば蓼の原料や醗酵によって蒅(すくも)と呼ばれる染料が造られる。
天然ものは醗酵によって育てられるから蒅は生きている。だから環境を大切にして育てる。
そして同じ色がないほど奥が深い
染の回数や石灰の種類、濃度によっても発色に関るから、藍の色合いは無限にあるといってよい。

  
2本のベクトルのなす角度αおよびδは位相差と呼ばれ、その干渉コントラストによって
新たな世界が見える化される。上図では二つの世界の例を示す。
  神秘的な藍
  上品で高貴な藍
2本のベクトルには長さや方向に多様性があり、ベクトルのなす角度αおよびδによる
位相差を柔軟に変えられる。
たとえば染めの回数やグラデーション等の技法が加わって、無限の色が発現する。
それに加えて「とことん(濃い、深い)」から「ほどほど(調和の美)」まで干渉の強度をも
変えられる融通性もある。
こうした変化により、状態の移り変わりの変化としても二次元空間上で読み取れる。

イマジナリー軸は意識の軸であるが、ワクワク感であったり、情熱であったり、
拠り所や生きがいである。
工程や素材との吟味において、二つのベクトルのなす角度(θ1-θ2)によって
新たな状態が発現される。蓼の栽培や醗酵、灰によるアルカリなどのベクトルである。
それらは写真や動画では表現が困難である。あるいは言葉や文章によって表現する
代わりに、数式では下図の様な合成によって生ずる干渉によって表現される。
人間の心理状態が大きく反映する分野である場合に、こうした波動ベクトルを使う。

  
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利休と長明から学ぶ生き方

2015年05月30日 | 記事のコメント
完全なものはかえって長持ちしない。壊れやすく出来そこないの不完全がむしろバランスと
真剣に取り組もうとする魅力を含んでいる。
かくなるバランスの美意識は精神にも現れる。だから排除ではないのだ。全体のバランスを
重視するから、決断と断定のリーダーではなく調和を重視する世話役が好まれる。
あるいはうつろいに対する美意識、こうした意識は日本独自のように思う。
科学技術は厳格性が求められ、できそこないがいいとはならないので、ここでも厳格性との
調和が求められる。物事を進めるには厳格性や建前ばかりで決められない場合も多くあるからだ。

人間は必ず死を迎えるという厳格に決められた法則の中で、茶道では偶然に造形された織部焼のような
人生との調和を好み、焼きも低温で焼きそこないといってもいいくらいだ。
そのほうが熱さも形も肌ざわりも異質な感覚がなく、身体との一体化をもたらすというのである。
出来そこないがむしろ積極的な生き方に通じるのである。だから調和を重視するには程々がいいのである。
そこから新たな世界や目標に向かって具体的な行動が生まれる場合もある。

オイラーの公式COSθ+iSINθ=EXP(iθ)は色+空=新たに目指す姿(新次元)という三位一体
としての関係が双方から見えてくる。厳格さと出来きそこない、科学的普遍性とうつろいとの調和。
物事を「色」と「空」とに分けて混在させずに識別し、それが三位一体となった時、虚と実、即ち
バーチャルとファンタジーが現実と一体化して、これが「ワクワクにしての見える化」であって、
「心に伝わるもの」が共鳴して調和し、ポジテイブなものに変える「色即是空」の部分だと思う。



一方、鴨長明は言う、捨てたことによってこそ、満ち足りた幸せの心境になれる。
単に「心の豊かさがあればいい」「自由がいい」「多ければいい」「善であればいい」、そこから
「自由であればいいのですか」「美しければいいのですか」という事につながる。
プラスの”気”や、それこそ”ときめき”を感じて生きられないものだろうか。
失敗を恐れて、観念の世界に浸るだけではなく。善の為に悪を指摘する建前だけでなく。
ごちゃごちゃした人生の中から、すっきりとした純粋性が体現・一体化できるし、余分なものや心も
捨てることができる。何か信じるものがあれば、希望を持てる、のように満ち足りたもの。
多い少ないではなく、例えば我欲であっても大吟醸の一滴があれば、希望を持てるようなもの。


「挫折は好影響を与える」玄田有史東大教授
日経こころと経済学、第十章希望の役割 201/5/25より

挫折の経験者ほど現在が幸福だと感じにくい。
挫折経験者でそれを乗り越えてきた人ほど仕事に希望を持って取り組んでいる。
何か信じるものがある人ほど、希望を持っている。

まさしくこの点で長明に通じると感じたし、一方では
挫折を乗り越えるためには利休の思想が生きてくる。

善か悪かではなく、2つの要素が組み合わさる事により1つの効果以上に結果を上げる事が出来る
コンタクト・シナジーの相乗効果。
コメント

夢があるから頑張れる--箱根駅伝

2015年01月03日 | 記事のコメント
「自分ならきっといつかできる」という夢を持つこと、
それがコンタクト
競技ではその「思いの強いものが勝つ」とある。
それがコンタクト・シナジー

往路優勝インタビューで青学大神野「往路優勝のテープ切る想像はずっとしていたので、
今は夢なんじゃないかなと思うくらいうれしいです」と夢が現実となったことに笑顔。



自分の信じた、感じた「思い」コトと、「競技」モノとに向き合う。
目指す夢、そこに合理的な理由などいらない。
自分で作るしかない。
自分が出来ることを感謝をこめて精いっぱいする。
イチローのようにありのままの自分をささげる

コンタクト「縁」があって、そこからのシナジー「起」によって
「縁起」がもたらされる。
空観方程式
心の豊かさが有ればいいというのではなく、
聞いたり読んだりの単なる教養や芸術観賞でもなく、
コンタクトによって新たな世界や目標に向かって具体的な
行動が生まれ、具現化・実体化しようとするものである。
目の前の成功失敗にとらわれ過ぎることがなく、
どうするか」を見えるようにして実現する道筋である。
善人ぶりする建前だけならサルでも言える。
そうでないところに、新年早々さわやかなる感動を覚える。






世界的に実践されつつあるレジリエンス
心理学者などの研究が進み、楽観性を持つ人や、過去に挫折から立ち直った経験を多く持つ人ほど、
心が折れにくい事が明らかになってきた。教育現場や企業などで、世界的に実践されつつあるレジリエンス。

トラウマを乗り越える人
思考の柔軟性、ポジテイブ思考、少しずつ成長していると感じる、いつかできると感じる、前向き、楽観性
困難な課題に向き合う過程から感情の起伏が激しいと長持ちしない。
向いていないな、最初からあきらめている、自尊感情、これこそができない理由。

原理は単純で明快
途中で折れるから実現できないのであって、途中で折れなければ実現できる。単にそれだけ。
あとは幼児の時のようにいかに「折れない心」を育てるか、研究からはその方法もわかってきた。


心理学者 イローナ・ボニウェル博士
「レジリエンスには、思考の柔軟性が必要な事が分かってきました。
つまり、厳しい状況でもネガティブな面だけではなく
ポジティブな面を見いだす事ができる人が、逆境を乗り越える事ができるのです。」
失敗を繰り返す中でも、少しずつ成長していると感じている人や、
いつかできるだろうという気持ちを持つ人が多くいたのです。
自分が成長前進していると感じる事ができる、自己効力感という要素。
そして失敗の中でもいつかできると考える楽観性も、
レジリエンスには重要な要素である事が分かってきました。

(埼玉学園大学 小玉正博教授)
レジリエンスというのは、楽観性のように自分のいる状況に対して前向きに、
不安とかそういうものに打ち負けないでしなやかにこなしていく。
そういう心の持ちようがレジリエンスだということが、研究の中でだんだんと明らかにされてますね。」
一喜一憂してその結果にばかり目が行ってしまうと、そこに全部目が向いてしまうんですね。
そうすると、一体自分が何でその事をやってるのかっていう事が見えなくなってしまって、
それでもうエネルギーを消耗してしまうという、そういうふうになりやすいと思いますね。


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誰かのためにではなく

2014年11月11日 | 記事のコメント
プロ野球ソフトバンクの優勝
チームのみんなが自然と監督のために戦いたいという雰囲気になれる。
そうした共通の思いによって強い力を発揮でき優勝できた。
ここでも「無理強いではなく、自然とそういう雰囲気になれるチーム」とあった。

誰のために戦うか
日経2014年11月11日

たとえば誰かのためにだけだと、順位をつけないといけなくなる。
家族のために、監督のために、自分のために、等々厄介なことになる。
そうではなくてチーム共通の思いによって優勝に導いたと考えるほうが
ありのままで自然であろう。

東北楽天の優勝も被災地のために戦ったのではなく、被災地のために
戦おうとする共通の思いがチームにあったのだと思う。
誰かのためのにとなると、順位をつけたりする作為が生じてしまし、
何かのためにでは、優勝したかどうかの結果だけになってしまう。
モノのためではなく、コトのためにも必要なのである。
コメント

本当にやりたいことを見つけて  一途にそれを追求していれば

2014年08月30日 | 記事のコメント
「誰かのために」「何かのために」だけではなく、自分の「想い」を前面にする。
「共通の夢でつながり、実現に近づくことで、相手(観客)の歓びにもつなげられる」
ということだと思う。

「人の期待に応えようとする」を前面に出すと他人の評価が気になる。
自分の「想い」を前面に出せば、他人の言動に左右されず、自分の人生を
自分らしく歩むことができる。アドラーの教えより

自分の想いであれば程度の問題であって、成功失敗の問題ではない
そもそも「何が成功で、何が失敗か」については、きりがなくて解答もない。
そういうことに左右されないことだ。そういうことにこだわらないことだ。

木暮 太一 08月22日(金) 08月29日(金)
カイジ「どん底からはいあがる」生き方の話  
   


アルフレッド・アドラー『嫌われる勇気』
「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言し、 
対人関係を改善する具体策を示す。
「他者の期待を満たすために生きてはいけない」アドラーの教えより


人間関係よくなる「嫌われる勇気」
とは
「嫌われる勇気」は「幸せになる勇気」と同じ
    2014/8/26 


終戦直後に不安と絶望を体験。
不安と絶望から逃れるには、
本当にやりたいことを見つけて
一途にそれを追求していれば、道は開ける。
木田元 哲学者 日経新聞より
   お悔やみ申し上げます。



森本公誠東大寺長老
宇宙の根源、即ち誰がこの世を造ったか?、
このようなことは誤解を招くだけで仏教では関心がない。
人間とは何か、人生とは何か、人生における苦悩とは何か、を深く自省して
仏教では心の苦しみからの脱却、その拠るべき方法が説かれている。
日経 8/27私の履歴書より
生老病死すべてが苦である。すべては移ろいゆく。よって精進せよ、と説かれた。
日経 8/31私の履歴書より
  日経 8/27


解答のないこと、きりがないことにこだわらないことだ。何が善で、何が悪か、
そういうことにこだわると、「生きていく意味が実感しにくい」となって、どつぼにはまる。
心に響くもの自分の想いで生きられるようになれば、生きていく意味を実感できるようになる。
わくわくするものが無くなった時、周りが見えなくなって損得にしがみ付く危険なときだ。
生きる上での圧倒的な存在感は「楽しいか、面白いか、わくわくするもの」への想いであって、
それがいわゆるコンタクトである。例えば「自分が出来ることを感謝をこめて精いっぱいする」
ことであって、これも程度の問題であって、そのあとシナジーによって「どう」実現させるかだ。
例えば「「何かのために」にわくわくする想いがあるのであれば、それもコンタクトである。
「誰かのために」自分が出来ることを感謝をこめて精いっぱいする、それもコンタクトである。
「何かのために」だけに、「幸か不幸か」だけにこだわるようになったときが危険なときだ。


なくならないものを、なくそうとこだわれば
木暮 太一 08月01日(金)
カイジ「人生を変えるために、知っておかなければいけないこと」生き方の話 
  



何が日本人の幸せを奪ったのか―華字紙より
配信日時:2014年8月22日(翻訳・編集/岡田)
厚生労働省が行った幸福度に関する調査から---
幸福を奪っているものはいったい何なのか。
まず、仕事のストレスや職場の人間関係、次に生きている意味が実感しにくいことや
将来に展望が感じられにくいことなどが若い世代の幸福度に影響している。
また、日本の若者は保守的になっており、十分な自信を持ちにくく、
新たな物事への挑戦に消極的になっていることも調査結果に反映されている。
コメント

「三毒」と「かるみ」について

2014年01月09日 | 記事のコメント
深刻なことを、さらりと言っておさめてしまう。
それを「かるみ」という。日本人独特の固有名詞だ。
芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、
それもまた日本独特の固有名詞である「わび」「さび」
「しおり」などのはるか上位に置いた。生きるための理念
精神構造であった。
それをさらりと言うからこそ、その恐ろしさが伝わる。
利休の点前がしかり。

精神的に空の状態であればこそ本質が見えてくる(色)。
まっさらで純粋であればこそ運命を受け容れられる。
従って「もっともっと」が有ればこそ、「身を捨てる」
という関係性により、深刻なほど「かるみ」なのだ。
それによりまた新たな世界が見えてくる。
逆に深刻なことを深刻に伝えようとすると、かえって胡散臭く
なるものだ。


「利休にたずねよ」山本謙一著より 三毒の焔(ほのお)

人の世には、三毒の焔が燃えさかっている。
好むと好まざるとにかかわらず、しがらみと軋轢に巻き込まれる。

三毒とは仏法が説く害毒で、「むさぼり、いかり、おろかさ」である。
世の中のわざわいや有為転変、人の浮き沈みは、ほとんどこの三つの
毒で説明がつく。人が道を誤るのは、たいていこの三毒が原因だ。
しがらみと軋轢は、毒のせいだ。人のせいではなく、毒がしたことだ。
と思えば腹は立たない。
しかし古渓宋陳は禅僧としての義を貫き、
秀吉の母に対する祈祷ができず、大徳寺から追放された。


信長や秀吉の執着と、利休の執着では、いったいなにが違うのか。
土地やカネと、美しさであれ、それをむさぼる執着が、毒である
ことに変わりはない。
利休の茶には、たおやかな品格と気高さがある。それを嫌味に
見せない謙譲がある。
しかし尋常ならざる凄まじい執着がなければ、あれだけの点前は
できない。
欲は欲。むさぼりはむさぼり。どんなに上品でも、毒が毒である
ことに変わりはない。
利休はいつも飄然と茶を点てているが、その内側では、地獄の窯が
煮えたぎるほど貪婪な、美へのむさぼり、美への執着がある。
それでいて、その貪婪さを毛の先ほども見せるのを嫌い、気配さえ
感じさせない。
宋陳には、利休の毒の焔が、信長や秀吉よりはるかに恐ろしいものに
思えた。


大宰府追放への旅の途中に、利休をたずねた。
「誰しも毒をもっておりましょう。毒あればこそ、生きる力も湧いて
くるのではありますまいか」
「肝要なのは、毒をいかに志にまで高めるかではありますまいか」
「高きをめざして貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めば
いかがでございましょう」
なるほど、それは三毒の焔をいちだん高い次元に昇華させる。
と宋陳は利休から諭された。




参考:
芭蕉の言う「軽み」とは「いのち」の自在に嬉戯する姿。
美学もその系譜である。
従い芭蕉の心象は平穏・繁栄ではなく、戦乱・無常のだと
いわれる。
芭蕉が尊敬する宗祇、西行も、明日をも知れぬ戦乱の世を
生き抜いていくなかで己の表現を磨いてきた。
芭蕉の漂白の思い、捨身無常の思いも、それに連なるのだろう。
http://www.intweb.co.jp/basyou_haikai/jbasyou_haikai01.htm





あとがき
山本謙一氏の訃報に接しお悔やみ申し上げます。2014年2月
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経(たて)糸と緯(よこ)糸 -------染織家 志村ふくみの日々

2014年01月05日 | 記事のコメント
☆年始特集 「京の“いろ”ごよみ 染織家 志村ふくみの日々」
【Eテレ】1月1日(NHK教育テレビ)

染織家人間国宝、志村ふくみ氏の生き様や自然観


深い茜色、奇跡的な紅花の淡い紅、生きている藍の色、色にはそれぞれ
命があって、季節の移り変わり、そのときどきに生まれる色であって

そうした「縁」というコンタクトによって具体化されていた。
自然はいつも思いがけない。だから二度と再現できない色だ。しかし
自然とのコンタクトによって具体化された色は、いずれも透明で純粋で
かつ新鮮であった。

   アカネ

当の染織家は繭から紡いだ糸に染色するだけでなく、機織りまで行う。
機織りでは、たて糸を経度の経、よこ糸を緯度の緯を使って表現する。
番組の中でも出てきたが、経糸の経は心経の「経」とも読めるのであって、
そうであれば、私にとっていささかこじつけ的でもあるのだが、「空」と
「色」の二次元によって紡ぎだされる「織り色」を連想させるに十分だった。


 ベニバナ

ところで経(たて)糸は、やはり何でもかんでもよいというわけではなく、
絆とか想いなどの経のつながり、あるいはビジョンやポリシー、コンセプト
といった織の思想的な部分を担う。
一方、緯(よこ)糸は具体的な色付やグラデーションであって、それらが
一体化した時に、織り全体の色が具現化される。これらの組み合わせだから
無限に存在する。
見た目には同じ糸でも、異なった役割があるから、それぞれを活かしながら
染織する。即ち、経(たて)糸だけでもダメ、緯(よこ)糸だけでもダメ、
経(たて)糸と緯(よこ)糸の双方があって、それらが二次元的に織りなす
ことで、はじめて新たな「織り色」が実現される、ということである。
まさに経と緯の関係は、空と色の関係でもある。


そのときどきに生まれる色に、氏は「日常あたりまえのことが、私たちが
気がつかないだけ
」という。
日常に使う布を見て、それが経糸と緯糸とが織りなす「織り色」を意識する
ことはないし、和食で出されるお吸い物をいただくときに昆布と鰹節の調合
された味だなどといちいち考えない。
社会や人間の関係も同様である。結果の数字だけではなく、異種間での
関係性とが一体化された姿なんだと意識しなければ、現状の改善や進化に
ならないし、経糸と緯糸とが織りなす「織り色」なのだと意識しなければ、
新たな世界を目指すこともできない。



例えば「うまい!」の新春TVで紹介があった通り、イノシン酸とグルタミン酸の
組み合わせが調理にとって良いと分っていれば、和牛の赤身を昆布で巻いて
塩釜焼にする、という具体的な調理プロセスが、自然に生まれるものだ。


また、ノーベル賞の山中教授が発見したiPS細胞も、ビジョンとハードワークの
「織り色」の結果なのであって、結果のiPS細胞だけに注目してしまえば、
ビジョンやハードワークの方は見えなくなってしまう。だから
空と色の三位一体の関係、いわばコンタクト・シナジーによって生まれる関係に、
日常生活の中では、まだまだ気が付かないでいることがたくさんありそうだ」
という事が、染織家や食材番組を見ての印象である。


祝:文化勲章受章 2015年11月文化の日
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銀行はなぜ貧しい者を救えないのか----栃迫MFIC社長の感じたもの

2010年08月21日 | 記事のコメント
栃迫氏は、金融は貧しさから助けを必要としている人のためのものだと
考えている。
その原点は、12年間勤務した東京銀行中南米支店で目の当たりにした
絶対的な貧困にある。
仕事を金だけではない「世のため」であるべきという気持ちを抱き、
勤めていた銀行を辞め、米ワシントンで金融ビジネスを立ち上げた。
貧困の解消という理念の実現のため、収益計画を持ってプロスぺクタスとし、
多くの分野から出資を募った。
正しいか正しくないかの議論の前に、信条信念だけを訴えるのではなく、
それまでのプロセス、行動とが一体となっていることが重要なのである。
現実社会においては、ある程度のキャリアと指示に説得力がないと動かない。
現に栃迫氏の熱意によって多くの日本人はこの事業に参加する意思を示し、出資した。


モノだけ、コトだけの無機質なものからは感動も、こだわりも、悲しみも、
気概も生まれない。
行動の端緒は貧困という現実の関係から感じた情熱であり、使命感や
覚悟である。あるいは心の葛藤かも知れない。
関係性によって発せられる訴える何か、相手を思う気持ちなどを感じとる
ことで行動する。
正しいかどうかの知識や経験だけというより、そこから感じられるオーラや気に
よって無心になれるし、無我夢中、一生懸命になって行動する。
その無心こそがコトであり「空」であり、達成感や豊かさの原点である。
それがモノとコト、「色」と「空」の一体化である。
マネーだけにこだわる執着心ではモノとモノの関係、そこから生まれるコトの
関係性を排除してしまう。
そうなればそれは過去や他との比較であって、もっともっとの一極集中となる。
債権者側と債務者の拡大と効率が優先され、それが善となって誰にも止められない。
レバレッジのように喉が渇けば塩水でも飲んでしまうし、進化も生まれない。
そうならないために善か悪かの前に、コトとの関係性が優先される。
それがモノとコト、「色」と「空」の一体化である。
正しいか正しくないかも含めて、心が全てを創り、全てを無くす。
正当性をどんなに主張しても、「相手を思う気持ち」がなければ、社会習慣では
いずれ破綻する。
正当性をどんなに主張しても、理念だけで、「具体的な説得・実施法」がなければ、
社会習慣ではいずれ破綻する。
具体的な実施法やプロセスと無心となれる熱意・理念とが一体となっているという
関係性が正に色即是空の訴えることであり、信仰とは関係なく普遍的な実体である。



株式投資や金融資産での運用は「儲け」だけを目的とする今日、日本を覆う
「閉塞感」は、利益だけで自己実現の場が失われていることに起因するのである。
産業界、金融・証券界、そして政府の向かうべき方向は明らかであろう。
そこに日本再生の鍵が存在している。 元カナダ東京三菱銀行頭取 足立誠之
2008/2/2

2003年、栃迫篤昌氏は東京銀行ワシントン駐在員事務所長を辞し、
米国で働くラテンアメリカからの移民のための金融機関、
Micro Finance International Corporation (MFIC)を米国で設立した。
独自に開発したインターネットによる格安国際送金サービスである。
それを元に出稼ぎ労働者や貧困層向けに無担保の住宅・起業ローンを
行い、事業を支援している。デフォルトリスクは高々4%である。
同じ時期、米金融界は、サブプライム・ローン債券を大量に販売した。
MFICと同様、低所得者層向け住宅ローンであったが、当初2年間だけ金利条件、
返済条件を緩めたローンである。
債務者は不動産価格が上昇した分で追い貸しを受け、さらなる消費を行う。
グリーンスパンは「バブルははじけてみないと、バブルだとわからない」と
言ったように、サブプライムローンの善悪も破綻してしまうまでわからない。
それはやがて米国と世界に災厄をもたらすことになる。


サブプライムローン債券を生みだした米金融界の発想はMFICの理念と対極にある。
足立氏が警鐘するように、これは資本主義社会の根幹に関る問題でもある。
枋迫氏は次のように語っている。(『日本経済新聞』2009年10月30日付夕刊)
「マネーゲームに興じて大けがをした金融機関は、いまこそ原点に立ち返るべきです」


【MFIC】Microfinance International Corp.
2007年12月にオランダの政府開発機関FMO 総額4百万ドルの投融資
米政府機関OPICが4百万ドルのクレジットの提供
2008年11月03日 枋迫社長 「2008年日本イノベーター大賞」受賞
2009年04月21日 枋迫社長 ビジネスウィーク誌「米国で最も有望な社会起業家」
の一人に選ばれた。America's Most Promising Social Entrepreneurs
2010年08月20日 NHKヒューマンドキュメンタリー
「“小さな金融”が世界を変える・アメリカ発・元銀行マンの挑戦」
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