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明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

箱根駅伝について考えたこと

2017-01-02 18:00:00 | スポーツ・ゴルフ
今年の箱根は我が母校である中央大学(中央学院大学では無い)が予選会で11位だったので出ていない。我が家は毎年正月に家族で駅伝を見るのが恒例となっていて、姉と末の弟が早稲田、私と下の弟が中央と、常に出場して応援合戦を楽しんでいたものだ。特に父親は箱根が好きで、正月の御屠蘇片手にニコニコして見てたのを覚えている。思えば子供の頃からずっと見ていた駅伝大会、だが今年は何だかつまらなく感じた。私の母校愛などたかが知れていると思っていたのだが、こうしていざ出場しないとなると、中大の出ない箱根なんて「味噌の入ってない味噌汁」のようなものと感じてしまう自分が悲しい。箱根箱根と大騒ぎしていた今までの自分は何だったんだろうか。

大学というものは高校や中学と違って、個人個人が立派な大人の集まりである。選挙権も与えられ、国の形や諸外国の動向も考えるようになり、自分の人生を決める時期に多くの友人も出来て、その後の社会での礎を築く素晴らしい場でもある。そんな母校の名を大いに高めるイベントが毎年開かれる国民的行事の駅伝である、と言うことに少なからず気分を良くしていたのは事実であった。順位はどうであれ参加しているという事が当たり前だったのに、今年は何だか見捨てられたようでさみしさがひしひしと身に迫ってくる。長年苦楽を共にしてきた親友の結婚式に招待されなかったと知ったときの、失望と取り残された自分の居場所が失われた疎外感は、価値のなくなったガラクタ同様に何もかもが虚しく思えるのと一緒だった。

一つには、グローバル化が進む現代においては、民族・国家・宗教を乗り越えて、あらゆる団体にも属さない「個人」というものに自分の価値をしっかり置いて生きていく事が大事だなということ。二つには、学校にしても会社にしても、自分の属する団体はあくまで「自分がいた」団体として位置付けて、決して団体を主役にしないということ。以上の二つを心にとどめて生きてゆくことにしたい。つまり私は「〇〇の誰か」ではなく、単に「誰々」と名前で呼ばれる存在でありたいのである。だからロシアではなくプーチンであり、アメリカではなくトランプであり、中国ではなく周近平である。

何かと便利なのでつい我々は団体名でものを考えがちであるが、イスラム教という存在はこの世にはなくキリスト教という人間も現実にはいない。すべて誰か名前を持っている個人・人間が行っているのである。だから私は出来るだけニュースなどに出てくる団体名を、個人名に置き換えて読むようにしている。もちろんソニーの新製品と言うときに無理やり個人名を当てはめるのは難しい。だがいくら大会社のソニーでも、一つ一つの製品には数多くの作り手が存在しているのである。そこを勘違いしないで生きてゆくことが出来たら、もっと世界は住みやすくなるはずではないだろうか。

結局、箱根駅伝は途中でチャンネルを変えてしまった。もともとマラソンなんて好きじゃなかったということに気付かされたわけで、また一つの自分を知った訳である。唐突だがこの時、世界を一つにするために必要なのは、もしかすると「言葉」なのかも、と閃いた。今に完璧な同時通訳のアプリが出来て世界中の人が自由に会話できるようになるか、一つの全世界共通語が出来てその言葉で育った人々が何世代か続いて世界に広まるか、いずれにしろ全地球で一つの言葉を話す時代がやってくるのかも知れない。言わば「地球語」である。

考えてみれば、日本人はどこかの団体に属するのが大変好きである。大学教授と言うところにわざわざ頭に東大とつけて、いかにもただの大学教授ではないのだぞと言外に伝わるよう仕向けてみたり、観光地でも居酒屋でも〇〇の一部であることに誇りを持っているのが一目でわかるグループが其処此処にいて、まるでグループ同士が競っているように周囲を圧している。つるんで行動すれば他人より強くなるのだろうか、団体の力を個人のものと誤解しているのである。

オリンピックも国家という名前の団体が競技するイベントであり、個人にとっては殆ど選択の自由が無い国籍という縛りでくくられた団体に、個人の選手が人生を捧げる大会それがオリンピックである。何となくつまらないイベントではないだろうか。どんなに下らない競技でも国を背負って戦えば白熱する。愛国心とは不思議なもので、不良少年や暴走族みたいな集まりに忠誠を誓う構成員と何ら変わる所は無い感情である。人間は個人の生きたいように生きるべきであり、それを許さない事が「罪」であるのだ。

あまり団体を主役に考えると、そこが間違うきっかけになる、そう考えながらテレビを消して初詣に出かけた。「自由に生きる」のは、色々な意味で難しい。


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