明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

火曜日は文化の日:私の選ぶ新百人一首(9)与謝野晶子

2021-01-12 20:35:00 | 芸術・読書・外国語

平安以降の和歌には殆ど興味がないのだが、唯一まあまあ知っているというのが上記3人である。3人については詳しく作品を眺めたわけではなく、たまたま何かの拍子に出くわした程度。私の和歌論(作品とエピソードが一体となって名歌が生まれる)から言うと、ちょっと外れるのだがまあ仕方ないだろう。和歌自体が日常生活から消えてしまう運命だったから、所詮「生きた作品」は出てきそうもないのだ。その中でも、私の心の琴線に触れた作品を少し取り上げたい。まあ心の琴線というのは大げさだが、言うなれば「趣味に合った」と言う程度のものである。

ネットで調べると、1861年生まれ以降の近代では正岡子規・与謝野晶子・寺山修司・石川啄木・北原白秋・斎藤茂吉・俵万智・若山牧水・島木赤彦・会津八十一・岡本かの子・釋迢空・堀口大學などがめぼしい歌人であった。島崎藤村や室生犀星が入っていなかったのは解せないが、どちらにしても「作品が浮かばない面々」ということを見ると、如何に和歌というコミュニケーションが廃ってしまったか思い知らされる。こんな状況を見れば歌道の祖:藤原定家も、きっと草葉の陰で苦笑していることだろう。俵万智も一時期は騒がれたが、今ではすっかり元の「趣味のサークル」に埋もれてしまったようだ(失礼!)。それでは歌の鑑賞に移ろう。

○ 清水へ 祇園をよぎる 桜月夜  今宵あう人 みな美しき ・・・ 与謝野晶子

現代歌人で感銘を受けたのが与謝野晶子である。彼女の歌の中でも出色の出来と私が思っているのが、この「桜月夜」の歌だ。「清水」と地名を入れ、「祇園をよぎる」で夜桜の下を行き交う人々に目線を誘導し、一気に艶めかしい月夜の浮き浮きした風情を描き出す手法は見事である。一般に、目に見える風景を上の句に持ってくる場合は、下の句に「あっと」驚くような言葉が入っていなければ上の句の勢いを殺してしまい、尻すぼみになってしまう。言わば「どんでん返し」の効果だ。

それがこの歌で言えば「今宵あう人〜」で見事に鑑賞者の気持ちを裏切ってくれる。特定の個人に目を留めて美しいと言うのではなく、全員を一つの風景の一部と作者は捉えて、彼ら全体が「桜月夜」の艶めかしい空気に心を高揚させ、頬をピンク色に染めてしずしずと行き交う姿を作者は「美しい」と賛嘆の声をあげた。春の夢のような光景は祇園を抜けて清水へと続き、都のあちこちからも人々が集まってくるような妖艶な気分が充溢している。

老いも若きも、誰彼ともなく空を見上げて、輝く満月と満開の桜とが織りなす夜を、楽しそうに味わっている。人々の信心深い日々の暮らしの中で、今宵だけは華やかに着飾って夜桜を楽しもう、そういう秘密めいた気持ちが伝わってくるような夜である。私はこの光景に出会った晶子が、日々の俗世間に生きる煩わしさを「いっときでも」忘れ、心が開放されたような清らかな気持ちを覚えただろうと想像する。だから「みな美しき」というポジティブな結句が生まれたのだと思うのだ。

並みの歌人にはこの「今宵あう人 みな美しき」というような、全肯定的な前向きの表現は書けないと思う。この精神の飛翔(ジャンプ力)が晶子の歌の素晴らしさではないだろうか。この作品には、あれこれと芸術家を気取って夜桜の美しさを表現しようと苦心するあまたの歌人の作品を一気に飛び越え、鑑賞者の心にストレートに入ってくる魅力があるのだ。彼女の歌には持って回った言い回しなど無く、その代わり「見た風景をそのまま歌にした」シンプルそのものの歌のように見える。だがそう見えるだけで、満開の夜桜の艶やかな美しさは、「それを見上げる人々の、心の中にこそ」あるのだ、という視点のチェンジに「ハッと気づく」ことが、余人には思いつかないのである。私の貧しい知識の中では、近世に詠まれた数少ない「桜の歌」の名句と言えよう。歌人の劇的な視点のジャンプを追体験することで、我々も歌の美しさに入り込み、心を奪われる。

そう言えば芭蕉にも確か「夜桜を詠んだ名句」があったと記憶していたのだが、どうしても見つからない。芭蕉の全発句集でも買って調べなきゃわからないかなぁ。残念だ。

最後にもう一つ、晶子の作品で好きなものをあげると
○ わが立つは 十国峠 光る雲  胸に抱かぬ 山山もなし
がある。これもどんでん返しをフィーチャーした名歌である。これを思うと「晶子は天性の歌詠み人」だと思わざるを得ない。与謝野晶子、まだまだ知らない名歌がありそうだ。


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