明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

誰かにしゃべりたくなる歴史エピソード(2)実方中将

2020-10-11 13:49:00 | 歴史・旅行
初回は面白エピソード集として「甘樫丘と雷山」「大納言藤原成道」「足利義輝」を取り上げたが、今回から題名を変更して、リニューアルすることにした。内容は歴史上の人物の「大好きなエピソード」を切り口として、少しばかりその人物に対する私の愛情を披露出来れば幸いである。勿論、それぞれ歴史上に有名な人物であるから、エピソードそのものは今更私が書くほどの新しい内容がある訳では無い。記事のポイントは「私が彼等に抱いている人物像そのもの」にある。それは多くの歴史家が描いている人物像とは違っていて、むしろ私の「人間を見る目」が世間とズレているということを現しているのではないかと薄々感じている。私はどちらかと言うと、歴史を変革した天才とか、激動の世を駆け抜けた英雄とかには余り興味がない。それより「へぇーっ、そんなことしたの?」という変わり者の人生が好きなのだ。これは人々は皆んな、英雄・天才の話を聞くが大好きだ、というのも「天邪鬼の私」が興味が無い理由の一つだが、それにも増して「人と違うことをして歴史に名を残した人間」は、やはりその人の考え方が「時代を突き抜けて際立っている」からである。そんな愛すべき、一風変わったキャラの持ち主を選んで、私なりの「歴史のスポットライト」を当ててみたい。

○ 実方中将
彼は平安中期の貴族・歌人で、三十六歌仙の一人。父・定時が早逝したため、叔父で大納言・藤原済時の養子となる。左近衛将監から右兵衛権佐・左近衛少将・右近衛中将と武官を歴任する傍らで、寛和2年(986年)従四位下に昇進する。和歌にも秀でていた藤原公任・源重之・藤原道信等と親しかったようだ。風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる事もある(以上、Wikipedia)。ここまでは特にどうって事ない貴族のボンボンの話なのだが、ある日一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が「行成の冠を奪って投げ捨てる」という事件が発生。このために実方は天皇の怒りを買い、「歌枕を見てまいれ」と左遷を命じられたという(古事談より)。私は何より、この一条天皇の左遷の一言がいたく気に入っているのだ。

実方中将のエピソードを語る筈が、むしろ一条天皇のエピソードのようになってしまっている処が何とも言い難い。実方中将の方は在京時には「何事にもおしゃれ」と評判が高く、プレイボーイで歌人という人気者だったが陸奥守に赴任して以来、さほどの動静は伝わってなく、当時の陸奥守の役目が日中貿易の決済に必要な砂金の上納にあったとする研究から、余り官務には熱心でなかったようだ。ある日のこと実方中将が馬に乗って笠島道祖神の前を通った時、馬が暴れて落馬し、下敷きになって死亡したと伝わる。問題は一条天皇の方だ。「何やってんだ、お前達!」と怒った時に言った言葉が「歌枕見てまいれ!」というあたりは、「流石、やんごとなきお方」の面目躍如である。一条天皇は藤原氏の外戚戦略に翻弄され、愛する「皇后定子」と藤原道長の娘「中宮彰子」との「二后並立」を強いられた天皇という、発言力の弱い存在であった。

そもそも花山天皇が藤原兼家の策略に引っかかって仏道に入ったため、僅か7歳で天皇になったという経歴が示すように、元々が形だけの天皇だった。結果、成人しても政治とは関わりが無く、漠然とした「不満が募っていた」のであろう。陸奥は京から遠く離れていて僻遠の地ではあったが、当時は歌枕として有名だった。実方中将は天皇から左遷を命じられた時、言い訳一つせず黙って従ったらしいから(多分、そうでは無いかと私が勝手に思っているだけで、記録は調べて無い)、相当に「剛毅な性格」なのであろう。天皇が歌枕云々と「キーキー喚いている」中、悠然として席を立った実方中将の自信に溢れた姿は「一幅の屏風絵を見る」ようでカッコいい(彼の心の中を想像すれば、「陸奥へ行けって?、上等だよこのヤロー。行ってやろうじゃねえか!」ってなもんである)。

一方敵役の藤原行成は、その時慌てず騒がず、近くにいた主殿司に冠を拾わせて何事もなかった風に対処したという。その落ち着き払った対応に天皇がいたく感心し、以降は重要な仕事にも意見を聞くようになったという。彼は三筆の嵯峨天皇・橘逸勢・空海に続き、三跡の小野道風・藤原佐理・藤原行成として有名な能書家であり、「権記」の作者としても歴史好きには欠かせない人物なのだ。ちなみに「権記」は、藤原道長の「御堂関白記」と共に講談社学術文庫版上中下巻を所有している(どちらもまだ、読んでいないが・・・ダメじゃん!)。この一条天皇の時代は清少納言や紫式部などの宮廷文化の華が開いた一方で、一見平和そうに見えてはいるが、実は水面下で藤原氏内部の主導権争いが激化しているターニングポイントでもあった。「歌枕見てまいれ」という言葉に込められた一条天皇の気持ちは「島流しに近い怒りの発動」だったのだろうが、現代人の私には「風流な貴種流離談」としか思えないのがおかしい。

実方中将は帰京も叶わず、死後に名取市愛島の墓に葬られた。その後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没したり、蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった怨念により雀へ転生し、殿上の間に置いてある台盤の上の物を食べたという(入内雀)噂が流れた。この蔵人頭という役職は実は、仇敵「藤原行成」が源俊賢の推挙で就任しているから、「それも一つの理由」と人々に考えられた風説被害という見方もある。陸奥では、京から来た殿上人ということで「モテにもてた」ことだろうと想像するのだが、心は遠く京の華やかな世界に戻りたいと願っていたのでは無いだろうか。そんな心境を「口には出さずに耐え忍び」明るく豪快に振る舞っていたとすれば、彼もまた不如意な人生を送らざるを得なかった不幸な人物だと言えよう。くだんの笠島道祖神は今は改名して「佐倍乃神社」となっているが、ここを「実方中将の歌枕」として参拝する人がいるとすれば、本人の意思に反して「少々皮肉な」ものになってしまっていると言えよう。

プレイボーイでありながら感性豊かな歌人でもある宮廷の人気者・実方中将が、遠く離れた僻遠の地「陸奥」へ赴く事になった原因が「これまた風流な、歌枕見てまいれの言葉だった」ということは、記憶に残り歴史にも名を残した椿事と言えよう。栄耀栄華を目指す殿上人が被った人生の暗転であり、また一条天皇時代の「微笑ましいドラマ」でもある所ではないだろうか。

歌に生き、恋に生きた高貴の歌人、実方中将のご冥福を祈る。

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