明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

最近の私の音楽事情(ワーグナーを聞く)

2018-04-16 22:00:00 | 芸術・読書・外国語
CSクラシカジャパンで1981バイロイトのパルジファルを聞いてみた。ワーグナーの最後のオペラであるが着想は相当早いころに出来ていたそうだ。今夜はシュタイン指揮バイロイト祝祭劇場管弦楽団および同合唱団の演奏で荘重に始まった。私はBOSEのヘッドフォンをテレビに挿して肘掛け付きの椅子に深々と体を沈め、音楽の世界に浸った。ワーグナーを聞く、それはウィーン古典派をこよなく愛する私に最も遠い選択である。何というかワーグナーにはメロディが欠けているのだ。イタリアに始まった宗教的音楽的波動がフランス・イギリス・スペインと伝わってバッハのドイツ・バロック音楽で一つの頂点を完成させ、ついでシュトルム・ウント・ドランクの潮流と共に美しく花開いたのが「ウィーン古典派」である。そしてモーツァルトが美しい音楽を世に残して去っていった後、フランス大革命と共にロマン派が跋扈するようになり音楽は衰退した、・・・少なくとも大筋では間違っていないと今でも思っている。

そもそも楽曲(主にクラシックの曲だが)は、メロディと「つなぎ」とで出来ている。感情を突き動かすメロディは作曲家の魅力が最も表れる部分であり、「つなぎ」は逆にその作曲家の腕の見せ所である。ベートーベンは後年耳が聞こえなくなってからは「つなぎだけの」味も素っ気もない作品に終始してしまった。メロディが最も美しく聞こえる緩徐楽章では、後期作品では「皆同じように聞こえる」のである。つまり「もう楽想が枯渇して」しまったのである。しかしそれでも作曲を止めなかったのは「類まれなるつなぎの才能」と、もしかしたら彼の音楽の本質に関わることだが「つなぎそのもの」に興味があったのかも知れない。だから私がワーグナーにはメロディがないと言ったのは、「私にはどこがアリアなのか分からなかった」のである。一般にオペラは地の部分(レシタチーボ)とメロディ(アリア)とで構成される物語音楽である。オペラは基本的には観客がアリアの部分に「自己陶酔して」共感し、熱狂することで成り立っている。モーツァルトのオペラは聞かせどころのアリアが実に素晴らしく出来ていて、すぐ観客が覚えて口ずさむほどで「そこが歌手の見せ場」でもあった。同じようにプッチーニも「大向こう受けするアリアをたっぷりと用意して」観客の涙を絞る大人気を博し、一時代を築いた。それに比べてワーグナーは観客に受けるメロディがない。しかしワーグナーは「メロディが書けないわけではない」と私は思う。マイスタージンガーの繰り返される主題や、ローエングリンの結婚式の歌(間違っているかも知れない)などは、彼のメロディメーカーの才能が見事に出ていると思っている。逆に彼はメロディをむしろ書かないことで、オペラ全体を「一つの階調」に押さえつけているのだ。言うなればそれは「ドイツ特有のダークな感情」である。

私は目をつぶって聞いている内に、ある種の恍惚に引き込まれるような感情に襲われた。ワーグナーはオーケストレーションで金管楽器による和声を多用する。ホルンやトロンボーン・チューバの重くのしかかるような圧倒的な重低音の上に、トランペットの三重和音が吹き渡るかのごとく響く間、弦楽器は激しい連音を嵐のように弾いている。おお、「これはドイツの奥深い森の精」が、魂の震えをしわぶいている状況ではないか。それが登場人物のメロディともつかぬ恐ろしげな歌声が交錯する間中、背景に低く横たわって観客を禍々しい不穏な世界に誘うのだ。ワーグナーは最晩年にこの作品を完成させたが、神聖舞台祝典劇という新しいジャンルのオペラは、彼の作品の中でも「陰鬱な重々しい荘厳さ」を強調した独特なものとなっている。ここで白状すると、私は最初の30分ぐらい聞いてダウンしてしまった。残りはまた別の日に続きとして聞くことにして「録画して」おいた。そうでもなければ「とても聞く勇気はなかった」だろうと思う。

好きとか嫌いで言えば、私はワーグナーは余り好きではない。音楽は食事と同じで「聞き終われば楽しさが余韻で残る」程度というのを「最上」とする考えだ。人間の五感で言うなら、味覚が食事なら視覚が絵画・彫刻で、嗅覚は(ポピュラーではないが)香水で聴覚が音楽である。いずれも楽しく「言葉に表せない美しさ」で人生を飾ってくれるのだ。ただ詩歌だけは「言葉で綴られた芸術」として、単に楽しさや美しさだけではない「人の生き方に関わる精神の発露」があると私は考えている。一方聴覚も視覚も作品の裏側には精神的なものが隠されているだろうが、それは「隠されていて」観客には直接的には伝わらないのである。伝えるためには「言葉が必要」なのは言うまでもない。よってワーグナーが伝えようとした内容は、その音楽を聞くものの耳で感じ取らねばならないのだ。そして私が感じ取ったものと言えば、「何か恐ろしい情動が渦巻く闇の中で、突然、天上の光によって映し出された群像」だった。ドイツ王ルードヴィ匕2世に捧げられたというワーグナーの音楽の到達点がパルジファルだとしたら、たしかに「さもありなん」という感じである。彼にとっての音楽は、神聖舞台における祝典劇として完成したと言える。

結局共感するものは感じられなかった私だが、ワーグナーの才能は「大変素晴らしい」ものだと評価したい。音楽を聞いている時、ずっと「緊張感が持続して」いる曲は才能溢れた作曲家のみに与えられた神からの贈り物である。私も時にはワーグナーを聞いて、宗教的静謐の中に漂っていたいと思う夜があるのだろう。単純なメロディを伴奏和音で盛大に盛り上げるだけのラフマニノフや、長ったらしいだけのマーラーやブルックナーは全然私の性に合わないし、どうも聞きたいと思う作曲家は「バッハ・モーツァルト」以降では、シューベルトとショパンだけである。基本的に芸術は「作品として、見る者あるいは聞く者と1対1である」べきなのだ、というのが私の持論である。古典派とロマン派の違いは、音楽を「自分が聞いている側」と見るか「自分が主役の側」と見るかの違いのようなきがする。ロマン派の音楽では「曲の中にのめり込んで一体となって」しまうのが一般的だが、これでは曲を聞き終わった後に「音楽の世界から現実に戻る」のが大変に難しくなってしまう。現実から別の世界へと飛び立つのがロマン派だとすると、果たして我々は「非現実の世界」を求めているのだろうか?

19世紀末から20世紀初頭に流行った、夢見るようなメロディを大げさな和音連打で盛り上げる式の「聴衆受け狙いの音楽」は、もはや古臭い過去のものである。その点ショパンは作りは豪華で華麗だが、基本はメロディと変奏で単純に出来ている。美しいメロディを「変奏とつなぎで楽しむ」作りになっているから、観客側も安心して聴けるのだ。だがいかんせん音が多すぎる。長く聞いていると「疲れる」のである。その点モーツァルトは必要以上の音符は書かないので「耳に心地よく」疲れない。モーツァルトは、食事で言えば「ゴテゴテと飾り立てて肝心の美味しさが埋没してしまう」ような下手な料理人ではなく、シンプルにしかし最高度に洗練された手際で調理してくれる料理人である。だから食べた後に「清々しい満足感」が残るのだ。旨い旨いと言いながらゲップが出るようでは、量は多くても美味しい料理とは言えないのだ。余り良いたとえではなかったが、ロマン派の「感動のお仕着せ」に辟易している音楽ファンなら、私の言わんとするところは分かってくれるであろう。

このほどCSクラシカジャパンで「パトリシア・コパチンスカヤ」独奏で、チャイコフスキーとメンデルフゾーンの2曲の協奏曲を聞いた。表情豊かに弾きまくる「近頃めずらしい演奏スタイルの女性バイオリニスト」である。演奏は「見せる要素がどうしても優先される」コンチェルトであれば尚更、常人には弾くことが出来ないばかりか「聞き分けることもままならないほどの速弾き」が要求され、最後は大音量で「喝采を浴び」て観客は「聞いた満足感」が得られるかのような風潮があるが、まるで「デモに参加した」ような気分の盛り上げ方は如何なものだろう。たまにしか聞かないのだから「派手に見せる」こともショーとしては良いのかも知れないが、やはり最後は演奏の完成度の魅力で締めたいものである。コパチンスカヤは舞台映えするし、見ていて楽しいから人気は出そうである。まだまだ若いので、私jはこれからの成長株として注目して行きたい。何だかんだ言ってもスターが欲しいのはスポーツでも芸術でも同じである。ショパンコンクールで優勝したチェ・ソンジンも、クラシックのファン離れが取りざたされている中、じっくり育てていきたい一人である。

クラシカジャパンでは、ショパンコンクール出場のピアニスト3人の予選からファイナルまで放送してくれるので、月3千円でも「十分元は取れている」のだ。ちなみに日本で唯一の「クラシック専門チャンネル」なのである。この間はベーム指揮のモーツァルト協奏曲第19番をポリーニで聞いた。若き日のポリーニは「瑞々しいモーツァルト」を聞かせてくれた。見事な演奏である。

それにしても「ワーグナーの夜」はおそろしく重い。パルジファルでさえこうなのだから、「指輪4部作」など聞く機会は「一生かかっても」無いかも知れない。ワーグナー恐るべし、である。


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