明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

今日の視点(23)京アニ犯の刑罰と心神喪失無罪について

2023-09-08 18:55:00 | 今日の話題

ニュースで報じていた京アニ事件の裁判で、弁護団は「心神喪失で無罪」を主張しているという。そんなバカな話があるか!と思ったが、現在の法律では犯人が心神喪失だった場合は無罪、ということになるのだそうだ。これ、何か間違ってやしないか?、と感じるのは私だけではないだろうと思う。そこで今日は、この「心神喪失問題」を取り上げて私見を述べてみたい。

1、罪
先ず無罪とか有罪とかは、被告が犯罪を「犯したか、犯さなかったか」という「事実」を問うもの、と解釈したい。検察が証拠を集め、被告が犯人だと立証されることで「罪」が確定する。アメリカなどの陪審員制度では、この方式を採用していると聞く。

2、刑罰
そして被告の犯行が白黒ハッキリした「その後」に、法律や過去の判例に基づいて裁判官が「刑」を決めることになる。これが所謂「罪と罰」である。

つまりこの方式では、裁判は「2段階で構成」されているのだ。

3、刑法の考え方
我々人間の一般感覚から考えれば、この「罪と罰を分けて考える」という論理的構成は、正当だと言える。勿論、刑罰を決める場合は、犯人を犯行に駆り立てたと思われる社会的要因や置かれていた過酷な環境、それと育てられた家庭の悲惨な状況などは当然考えるべきであると思う。また、時には被害者側の横暴やハラスメントなど「止むにやまれぬ事情」が犯罪の遠因を作っていることもあるだろう。それら全部を考えに入れ、本人の更生や将来をも考慮した上で、最後は裁判官が判断する訳だ。世に言う「大岡裁き」などは、この「最後の評価の段階」で発揮された裁判官の「人情味」が、大衆から喝采を受けたという話である。決して被告の罪を「恣意的」に変えたわけでは無いと私は思う。罪の事実を個人の事情で無暗に変えてはいけない、というのが基本的考えであるべきだ。

つまり、今回の京アニ裁判の被告は「殺人罪」で確定である。

4、現代刑法の誤り
ところが今回の京アニ事件は被告が「犯行を認めている」のにも関わらず、弁護団が心神喪失で「無罪」を主張しているのだ。私はこれは間違っていると思う。弁護団は無罪を主張するのではなく、有罪を受け入れた上で「情状酌量」を求めるべきだと考えるのだ。当然、刑法の条項も変更する。

5、心神喪失
ここで問題になっている心神喪失とは、素人考えだが、私は「自分のやっている事がどういう事か、分からなくなっている精神状態」と解釈している。つまり、意識が朦朧として夢遊状態になっているとか、極度の興奮状態に入っていて見境が無くなっているとか、要するに「正常な受け答えが出来ない状態」にあると判断された場合は心神喪失となる。

ニュースなどで報じられたている「現場を取り押さえた警察官」の証言を聞いた限りでは、被告の精神状態は「正常」と判断して間違いはないと思う(なお、正常というのは「心神喪失では無い」という意味で、「正邪」の意味ではありませんので・・・ご存知と思いますが念の為)

6、責任能力
弁護団によれば「心神喪失により責任能力が無い」との主張だが、責任能力とは(これも私見だが)、精神は正常な状態にあるが「知能が未発達」な場合に能力なしと見るわけだ。例えば小さな子供が「物事の因果関係」を解らず、意図せず法に触れる行為をしてしまったような場合、子供には「責任能力」が無いと判断するのである。つまり「今している事がどういう結果を生むか=因果関係」を理解していない場合だ。

また一方で、因果関係は理解しているが「善悪の判断がまだ出来てない」場合も同様に「責任能力が無い」と判断される。これは社会的常識がまだ充分に身についてないことから起きるのであり、親や周りの大人がいちいち教えていけば、普通は「何れ善悪の判断がついて来る」ものである。であるから例えば「他人の財産を盗む」ということが理解できない子供を「窃盗罪」で裁くのは酷だ、というのも納得はする。但し、それも小さい子供の話であり、京アニ事件の犯人のような「大人を相手に言う」話では無い。つまり京アニ事件の被告は、責任能力は当然ながら「ある」と判断するのが妥当である。

7、被告の供述
被告は自身がやった極悪の犯行について、多くの人が亡くなったのは「やり過ぎだった」と発言していたそうだ。裁判官は、「では、何人だったら妥当だったのか?」と質問すべきであったろう(実際質問したかも知れないが、ニュースでは言ってなかったように思う)。

被告が言っている事は私が解釈すれば、「そんなに多くの命を奪ったことは反省している」である。じゃあ、「どういう理由」で反省しているのかというと、自分の小説をパクった罪に対しては「もっと少人数でも、充分仕返しの意図は達成された筈」という事なのだ。つまり、自分の作品を勝手に使われた「腹いせに殺人する」という行動は、被告の頭の中では「正当な反撃」と考えているのである。善悪で言えば「善」なのだ(あくまで被告が、という事です。私じゃ無い)。

これを聞くと、被告の行動パターンは「やられたらやり返す」という怨みタイプで、「第三者に訴える」という考えは浮かばなかったようだ。そしてその「やり返す」方法と言うのが「殺人」しか思いつかなかった、では「弁解の余地」がないではないか。

江戸の昔に松の廊下で刃傷沙汰を起こした赤穂の殿様と「クリソツ」で笑える(まことに不謹慎で申し訳ない)。たまたま歌舞伎で忠臣蔵が大当たりを取ったことで、仇討ちを成功させた大石内蔵助ら四十七士は「ヒーロー」になった。しかし現代では、おぞましい大量殺人の犯人として厳しく断罪されるべきである。やっていることは同じなのに、時代が変われば犯罪意識も変わるねぇ。

以上、被告の言い分を聞いていると「怨みに思ったら制御がつかずにすぐ殺す」粗暴凶悪な人間だ、というだけで、心神喪失というのは「当たらない」と私には思える(素人考えです)。というか、何故心神喪失という「鑑定結果」が出たのか不思議である。

8、これからやるべき事
何れにしても刑法を改正して裁判を2段顔に分ける事だ。まず事実認定として「本人がやったかどうか」証明することで「罪の有無」を確定する。次に「その罪がどのような刑罰に当たるかを判断する「刑の評価」に分けるという2段階にするべきであろう。今回の京アニの裁判を例にとれば、殺したことは事実なので「有罪」となる(刑罰の方はこれから審理する)。

とにかく被告は有罪・・・これで我々一般人の感覚と判決が一致するわけだ。心神喪失だろうが何だろうがあんだけの事をやった被告が「無罪」などというのは「絶対有り得ない」し、あってはならない。これは社会の共通理念である。

まず被告がやったという事実を明らかにし「罪」を確定する事。犯罪を確定することと刑罰を斟酌することは「分けるべき」だ。

9、刑の確定
それで殺人犯の刑罰だが、情状酌量は本人が全く反省していないので「これも死刑」で良いと思う。本人もこれには納得だろう。まあ、被告は日本医療の「高度な技術」で九死に一生を得たわけだが、結局死刑になってその努力が「水の泡」に終わったのは皮肉である。こういう例は他にもあるようだが、少ない医療資源をこんな「つまらん事」に使わないで適当に治療しておき、そのまま死なせておいたら良かったのにとつい思ってしまった。人を救うのが医者の本分ではあるけど、もうちょっと「状況」を考えてもいいのでは?、と妄想する。

10、結論
被告は有罪。刑罰は死刑である。以上。これは国民全部が「最初から分かっていた事」である。

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で、これは余談だが、もし犯行当時は心神喪失だったが「現在は正常」と言う場合、刑罰はどうなるのだろうか?

犯行当時がどうあれ、現在が正常であれば自分の犯した罪の大きさに耐えられず「自ら死刑を望んで罪の償いを求める」筈だ、と答えておく。もし善悪の判断がつくのであれば、例え自分の事であろうとも「死刑相当」と考えるのが常識ある人間である。

だがそういうマトモな人間であれば、あのような凶悪無慈悲な殺人など冒さないであろう(そりゃそうだ)。供述にもある通り、被告が自分の行動を「当然だとかやむを得ないとか」思っているようであれば、これは我々の社会通念・善悪の考え方とは「相容れない異常な考え方」であるから、やはり社会から抹殺せざるを得ないと思う(共に暮らすことは不可能だ)。

このような一方的な怒りや逆恨みを増幅させた挙げ句に「思いついた最初の報復」が、殺人しかなかったというのでは、被告にとっても、また、彼を育てた社会にとっても悲劇である。

私はもしかして、被告が狼に育てられた「狼人間」のような存在じゃないか、と密かに思っている。人間の皮を被った動物である。そう考えれば全てのことが「辻褄」が合うのだ。被告の作品を京アニがパクったといういうのなら、法に訴えて裁判で白黒つけるのが人間社会のやり方の筈。感情を相手に向けるのではなく、法の裁きによって利益を獲得するというのが、歴史に学んだ「現代人の文明」である。それを教わっていなかったが為に、殺人を犯して死刑になってしまった。考えてみれば可哀想な面も無くはない。被告にもっと早く真っ当な生き方を教えていたら・・・と悔まれるが、これはもう「後悔先に立たず」ですか、残念である。

取り敢えず「今回は」死刑にするとして、次回は「子供の教育」ということを真剣に考えた方が良いと思う。怒りや恨みで感情を爆発させるのではなく、法と公的機関の裁きによって事態を解決すること。感情は「幸せな事だけに使う」のがオシャレである。例えば訴訟大国と揶揄されてるアメリカだが、多分あの国は「人種のるつぼ」ということもあって「日本以上に感情的犯罪が多い」に違いない。それに手を焼いた国民が、ようやく「何でも訴訟で解決する」という方法を編み出したというわけだ。そのためには「法整備」が何より重要である。・・・つまり「罪と罰を分けて考える」、である。

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最後に一言、心神喪失は「有罪」にすべきです!



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