燕たちの憂鬱

ここ神宮の杜では、今宵も燕たちの溜息まじりの歓声がこだまする!

監督の資質

2007-11-02 10:40:24 | 徒然
まだまだ続く東京六大学野球ネタ。(興味のない方には、申しわけありません。)
慶早1回戦における早稲田・應武監督の審判批判の引き金となった延長12回裏の判定について、どうしても言っておきたいことが有ったので、昨日その試合の記事にコメントを追記。(興味が有る方は、ご一読ください。)
図らずも翌日の今日、新聞各紙で、くだんの審判批判を受けて、東京六大学連盟の先輩理事が、早大野球部に事情説明を申し入れていた、との記事が掲載されていた。大人の世界だから「事情説明」という表現になっているが、実態は「厳重抗議」だろうことは、容易に推測できる。当然でしょう。現早稲田監督の横暴な振る舞いは目に余るものがあり、観ている観客(六大学野球を支える重要な構成要因だと思う)にも不快感を与えるレベルだった。
記事によると、早稲田大学側で今日対応を協議し、同連盟に早急に回答することになっているらしい。はたしてどんな幕引きが図られるのだろうか?

長年野球を観たりプレーしたりして来た結果行き着いた結論だが、監督には、大きく分けて二つのタイプが有る。自分で試合を動かしたいタイプと、どう動くか選手に任せるタイプ。言葉にするなら、管理主義と放任主義といったところか。前者の典型が現早稲田監督、後者の典型が現慶應義塾監督。六大学で言うと、早明に代々管理主義タイプが多く(昔明治にその典型の名物監督がいたっけ)、慶法に代々放任主義タイプが多いように思う。その違いは、具体的な作戦において、序盤戦のノーアウトまたは1アウトでランナーを3塁に置いた場面で現れる。管理主義タイプは、やたらとスクイズをしかけたがる。放任主義タイプは、どっしり構えて自由に打たせる。個人的には、学生野球の有るべき姿は放任主義だと思っている。幸いにして、(現相場監督が信望している)前田監督以降、慶應義塾の監督は、皆放任主義者だ。だから、序盤戦のスクイズなどおおよそ観たことがない。そもそも現早稲田の監督と相容れないと感じているのは、管理主義者の典型のような人だから。彼がそうだとは言わないが、管理主義の監督は、得てして勝利を自分の手柄のように勘違いするタイプが多いという印象が有る。競馬の騎手と馬の関係と同じで、あくまで選手が主役で、勝ったのはあくまで選手の実力のはず。監督は、選手が実力通りに動ける環境を作ってあげるだけの存在であるべき、というのが私の信念である。

話し替わるけど、自分が現在所属してる野球チームの監督はと言うと、地元の方は管理主義、会社の方は管理主義の域を越えて独裁者なんだよね。(笑…えない?)

コメント (2)
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