フィールドワーク通信

広島を拠点にフィールドワーク。カンボジア、インドネシア、市民まちづくり

ものを与えることの戸惑い その2

2006-02-10 11:05:29 | カンボジア通信
 ものを与えることによって、こちらが上であちらが下になる。そういう意味の現前が不快だ。だが、なぜそう思うんだろうと、あらためて問うてみる。

 日本で、友人にプレゼントを贈る。たまたままちを歩いていたら面白げなものがあったので、買って帰って友人に贈る。ここでは上下関係が生まれるとは考えない。それはお互い対等な経済的環境にあることがベースとなっているからだ。

 海外で考えてみよう。例えば、アメリカ人にプレゼントを渡すことを想定してみる。やはりそこには上下関係は生まれない。もっと言えば、インドネシアを訪れ研究協力関係にある大学に赴き、そこの教授なりに日本からのお土産を渡したとしても、決して上下関係は生まれない。

 経済だけでなく、文化的な要因も考えられる。上記の例は、いずれもこちら側の感覚をもとに議論していて、その場合、やはり経済的な環境が与える影響が大きいと考えられる。

 が、例えばインドネシアでよく言われたのは、もてるものがもたざるものにものを与えるのは当たり前だということである。イスラームでいうところの喜捨の概念だと思う。こちら側の感覚としては、わからない。逆に、みじめではないだろうか、とも思う。

 しかし考えてみれば、本質的なことであるが、我々が経済的に豊かで、彼らが経済的に貧しいという現実は、直接的に個々人に帰することではない。間接的には、関係するが、直接的には、そう関係しないのではないかと思う。

 日本で、まともに勉強もせず働きもしないバカな高校生が、毎日遊び歩いているという現実。これは彼らのスキルに帰するものではなく、たまたま生まれたこの日本という国が総体として豊かだったにすぎない。

 ただこの経済的な豊かさは、先祖世代が汗水流して働いた、その結果として与えられたものであることは確かで、開発途上国と異なるのは、日本がそういう履歴をもつという事実だ。

 しかしこの話は、だからといって、そういう履歴をもたない国々ならびに国民を低く見るということには簡単につながらない。それぞれの文化的自然的歴史的社会的背景があり、我々はたまたまそこらへんの所与の条件が恵まれていたに過ぎないかもしれないからだ。

 たまたま経済的に豊かだった者と、たまたま経済的に貧しいものとの出会い。モノがその出会いを媒介する。我々の関係は不確かで、どちらが上だとか対等だとも簡単にいいきれない。

 もしくは、与えるということに意味を付与してしまうこと自体、とらわれすぎだという、そもそもの話があるかもしれない。意味などない。もっていない人がいて、たまたま我々がもっているから、ものを移動するにすぎない。

 与える人間のメンタリティの問題以外にも考えるべきことはある。

 与えることの実質的な意味・影響である。えんぴつを与えても、全員にいきわたらなければ、彼らの中に格差を生むだけだという議論や、与えたえんぴつが残っているうちはいいが、なくなった時どうするか?一度手にしてしまったことで、彼らは感じずにすんだ欠乏感を感じてしまうことになるのではないか。また与えられる機会を得ると、みずから求めようとする意志を失って、与えられるのを待つようになってしまうのではないか。

 与えること贈ることに付随する問題は、さまざまにありそうである。センシティブに今後掘り下げていきたいと思う。

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